父王の亡霊からその無念を聞いたハムレットは言った。
The time is out of joint! (時間は脱臼している!)
そう、時間は、そして歴史は、世界は脱臼し、もはや正接していないのだ。
しかし、次の瞬間、ハムレットは自己の運命を呪う。
That ever,I was born to set it right!
(何の因果か、私はそれを正すべく生まれてきたのだ)
出来ることなら、もっと平和に生きたいではないか。
時間の脱臼を正す立場などに立ちたくないではないか。
しかし、父王の亡霊がまさしく語るごとく、既に罪は犯されてしまっているのだ。
そしてハムレットは、そして私たちも(と急いで付け加えよう)、そこへと立ち会ってしまっているのだ。
それを正す(set it right)にしろ、そうでないにしろ、その状況に対応=応答(response)すべく生まれついてしまったのだ。
だからそれは、To be, or not to be,that is a question !(在るべきか、在らざるべきか、それが問題だ!)という根本的な問として自らにリバウンドする。
ハムレットの横に私たちも滑り込ませておいた。
これは遠い昔の若者の個的な体験というにはあまりにも重く普遍的だからである。
私たちもまた、既に常に、罪が犯されてしまった時間、歴史、世界(out of joint)のうちに生きている(was born)。
キリスト者なら、これを原罪というかも知れない。しかし、そこに、宗教への道ともう一方の、どうしようもなくリアルなものとの関わりの分岐がある。
つまり、悔い改めて、全体性の内へと回帰すればいいという道とは異なる応答が求められているのだ。
おそらくそれは、to be あるいは not to be のどちらかへ吸収されて終わるのではない、その間の or のうちにあるのではあるまいか。これは、言い換えるならば、弁証法の片割れに屈して終わらないということでもある。
時間は、歴史は、世界は、常に既に脱臼している。
その脱臼を顕わにした一人にマルクスがいる。
彼は、新しい脱臼を用意した容疑もかけられているのだが、その弟子を自称する連中の所業にもかかわらず、現実のこの世界の脱臼をあからさまにしたのも彼であった。
だから私たちは二重の意味で To be, or not to be のうちにある。
既に犯された罪、脱臼している歴史の目撃者として、さらにはその処方を描いた思想家が今なお残している波紋への応答者として・・。
この、or を挟んだヤジロベイのような地点から、out of joint を見据え、ちゃんと向き合って行くこと、それが歴史を生きるということではないだろうか。
若い日々、私の頭の中で響き続けていたものこそ、実は「The time is out of joint! 」という言葉だったのだと今にして思う。その時以来、私は無念のうちに逝った父王の言葉を聞き続けてきたのだ。
*以上は、J・デリダの『マルクスの亡霊たち』を読み始め、その序章に触発されて書いたものです。
The time is out of joint! (時間は脱臼している!)
そう、時間は、そして歴史は、世界は脱臼し、もはや正接していないのだ。
しかし、次の瞬間、ハムレットは自己の運命を呪う。
That ever,I was born to set it right!
(何の因果か、私はそれを正すべく生まれてきたのだ)
出来ることなら、もっと平和に生きたいではないか。
時間の脱臼を正す立場などに立ちたくないではないか。
しかし、父王の亡霊がまさしく語るごとく、既に罪は犯されてしまっているのだ。
そしてハムレットは、そして私たちも(と急いで付け加えよう)、そこへと立ち会ってしまっているのだ。
それを正す(set it right)にしろ、そうでないにしろ、その状況に対応=応答(response)すべく生まれついてしまったのだ。
だからそれは、To be, or not to be,that is a question !(在るべきか、在らざるべきか、それが問題だ!)という根本的な問として自らにリバウンドする。
ハムレットの横に私たちも滑り込ませておいた。
これは遠い昔の若者の個的な体験というにはあまりにも重く普遍的だからである。
私たちもまた、既に常に、罪が犯されてしまった時間、歴史、世界(out of joint)のうちに生きている(was born)。
キリスト者なら、これを原罪というかも知れない。しかし、そこに、宗教への道ともう一方の、どうしようもなくリアルなものとの関わりの分岐がある。
つまり、悔い改めて、全体性の内へと回帰すればいいという道とは異なる応答が求められているのだ。
おそらくそれは、to be あるいは not to be のどちらかへ吸収されて終わるのではない、その間の or のうちにあるのではあるまいか。これは、言い換えるならば、弁証法の片割れに屈して終わらないということでもある。
時間は、歴史は、世界は、常に既に脱臼している。
その脱臼を顕わにした一人にマルクスがいる。
彼は、新しい脱臼を用意した容疑もかけられているのだが、その弟子を自称する連中の所業にもかかわらず、現実のこの世界の脱臼をあからさまにしたのも彼であった。
だから私たちは二重の意味で To be, or not to be のうちにある。
既に犯された罪、脱臼している歴史の目撃者として、さらにはその処方を描いた思想家が今なお残している波紋への応答者として・・。
この、or を挟んだヤジロベイのような地点から、out of joint を見据え、ちゃんと向き合って行くこと、それが歴史を生きるということではないだろうか。
若い日々、私の頭の中で響き続けていたものこそ、実は「The time is out of joint! 」という言葉だったのだと今にして思う。その時以来、私は無念のうちに逝った父王の言葉を聞き続けてきたのだ。
*以上は、J・デリダの『マルクスの亡霊たち』を読み始め、その序章に触発されて書いたものです。
でも難しそうですね。例えば、「ソ連共産党幹部会」と「日本の護送船団方式」は見事に対応していた。それ故の崩壊、といった俗っぽい話ではないようですね。
正直に言ってとても難解です。
私も悪戦苦闘しながらゆっくり読み進んでいます。
彼特有のレトリックがあり、時として、何について述べているのか、それを肯定的に述べているのか否定的に述べているのかも分からないこともあります。
そこへもってきてヨーロッパの、とりわけフランス知識人の博識と先行する諸著作への深い読解が根底にあるのですから並大抵ではありません。
あらゆる読解は誤解であるという彼のテキスト理論を逆手にとって、誤読であろうが誤解であろうが、こっちが読みとれるもののみ読みとるということで開き直っています。
「マルクスの亡霊たち」という言い方は、それへの否定としてではなく、私たち自身が今なおその思想圏内に宙吊りにされていて、それに応答すべきなのだという主旨だろうと思います。
その意味では、マルクスとマルクス以後との再読解といっていいように思います。
しかし、私にもまだ定かではありません。
*発売以来、図書館はずーっと貸し出し中でしたが、この前、棚にあるのを見つけて、急遽、他の読書予定を変更し、借りてきました。