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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「人類は兄弟」でしょうか?

2007-07-25 03:30:18 | 現代思想
 「人間みな一緒。人類は兄弟」といいますね。
 で、一方では「人間はみなそれぞれ違う。それでいいのだ」ともいいますね。

 この一見論理的に矛盾しているようなことは、日常的に並行してよく言われます。しかし、それが矛盾している、などと目に角立てようというのではありません。

 
 問題は、この、誰でも頷くようなことが、そして事実、誰でも頷いているにもかかわらず、実際には、人間はみな同じに扱われることなく、場合によっては、戦争などで殺し合ったりもしていることです。また、その宗教や政治体制、風俗習慣の違いなど「それぞれの違い」が認められることなく、やはり、殺し合いになったりしています。
 
 要するに一見、誰もが、面と向かっては否定しがたいこうしたもの言いが、じつは全く無効であるということです。なぜなんでしょうか。

 

 まず「人間みな一緒、人類は兄弟」といういい方ですが、ここにはある亀裂が隠されています
 「人類=兄弟」を逆にしてみるとよく分かります。
 「兄弟=人類」、つまり、兄弟は人類だが、兄弟ではないものは人類ではないのです。
 これは言葉の遊びではありません。

 例えば、キリスト教原理主義と結びついたアメリカのネオコンなどの考え方では、パックス・アメリカーナに根ざすグローバリゼーションに反対する連中は「兄弟ではない」人類の敵であり、これは武力でもって制圧したり、殺してもかまわないということになっています。
 だから、アフガンやイラクへの侵攻が合理化されます。

 

 もともと、キリスト教は、「人類はみな兄弟であるはずだ」という立場に立ち、それを理解しない異教徒は兄弟の外として十字軍を派遣した歴史を持っていますが、キリスト教原理主義者は、この現代版といっていいでしょう(すべてのキリスト教並びに教徒が今日そうであるといっているのではありません)。

 こうした背景下、アフガンやイラクでの捕虜が、グアンタナモ基地などで、人類以下の扱いを受けていることは周知の通りです。

    

 少し歴史を遡ると、ナチズムもそうでした。
 その第三帝国の構想によれば、ユダヤ人は兄弟たり得ない人類の敵であり、これを殲滅することこそが兄弟愛に満ちた新しい帝国の実現だとしました。まさに、「人類は兄弟」という帝国を完成させるためにこそ、「人類の外」である数百万のユダヤ人は殺されたのです。

 かつての日本も例外ではありません。
 私の幼少時、「鬼畜米英」は、日常的なスローガンででした。彼等米英は人類ではなく、まさに「鬼畜」なのであり、彼等を一人でも多く殺すことが国民の使命でした。

 


 こうして、「人類=兄弟」といういい方の中には、「兄弟でないものは人類ではない」という命題が隠されています。これが、誰しも否定しないような美しいスローガンにもかかわらず、人が殺され、差別され続けている理由です。
 要するに、都合のよいときには、相手を「兄弟ではない」として「人類」の枠から外すことが出来るのです。
 「てめえらは人間じゃぁねぇ。たたっ切ってやる!」というわけです。

 では、その反対であるような、「人間はそれぞれ違っていていいのだ」といういい方はどうなのかについて、次回は考えてみます。

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