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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「違いを認めよう」というけれど・・。

2007-07-26 01:43:23 | 現代思想
 前回は、「人間みな一緒。人類は兄弟」という麗しいいい方が、容易に、「てめえらは人間じゃぁねぇ。たたっ切ってやる!」ということになることを見てきました(詳しくは昨日の日記を参照してください)。


 

 それでは、「人はそれぞれ違っているし、それを認めよう」といういい方はどうでしょう。
 ここには二つの問題があります。
 ひとつは、前回見たように、その違いが「兄弟内部での違いではない」、要するに人類の外であると判断された時には、決して容認されないということです。
 その辺は前回見ましたから、もうひとつの問題を見てみましょう。

 


 それは、もし、「このそれぞれの違いがみんな等しく認められる」とすると、私達は判断不能に陥るということです。
 いろいろな違いが等しく認められるということは麗しいことであるかのようですが、そうすると、私達は、現実に当面している問題を解決不能なままうち捨てることになってしまうのです。

 というのは、どんな社会でも、それぞれの問題を抱えています。そしてその問題を形作っている主要な違い、あるいは矛盾というものがあります。それらの違いをその他もろもろの違い同様放置するとしたら、私達はあらゆる問題を解決する糸口を失うこととなってしまうのです。

 

 確かに、中には取るに足りなかったり、どうでもよかったり、あるいは重要度が低い違いもあるでしょう。あるいは、お互い譲り合ってでも承認しなければならない違いもあるでしょう。

 しかし、今、私達の国で問題になっている格差や、ワーキングプアーの問題、あるいは憲法をどうするのかといった問題を、さまざまな違い一般に解消してしまうなら、それらの問題に対する判断は不能になり、その解決はうち捨てられることになるでしょう。

 どんな社会、どんな時代にあっても、その折々の主要な問題があるはずです。むろん、どの問題が主要であるかの判定自身に関し、それぞれ判断が違うことはあるでしょう。

 例えばそれを、人間の悲惨さを少しでも減少するという点に置くとしましょう。それらは、飢え、貧困、健康、人権、戦争などの問題と関連するでしょう。
 そしてそのそれぞれには、その解決のために取り上げねばならない主要な違いや矛盾があるはずです。

 
 
 いってみれば、「違いがあってもいいんだね」で通り過ぎることのできない問題、その違いを克服することなく、人間の悲惨を解消できない問題があるはずなのです。むろんこれは、あらゆる違いを認めない全体主義とは違い、その折りの主要な問題の解決に限定される違いの解消のための行為です。
 
 こうして、「人間はみんな違うし、それがあってもいいんだね」は、反面、本当に解決しなければならない問題がはらむ違いを放置し、その解決を棚上げすることになりかねない場合があるのです。

 
 

 二回にわたって見てきた美しい言葉、「人類は兄弟」、「違いがあってもいいんだね」は、確かに否定しがたいように見えます。
 しかし、ほとんどの人がそれを肯定するにもかかわらず、人は殺し合い、違いはある限度までしか認められず、あるいは、本当に問題にしなければならない違いは、もろもろの違いの中に隠されてしまうということが現に起こっています。

 これらの言葉を安易に用いることがはらむ問題と、それをお題目として唱えることの無効性を考えてみる必要があるように思うのです。







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