イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

糸しい糸しいと言う心

2012-01-09 00:05:45 | 朝ドラマ

『てっぱん番外編』を回顧したついでに、ちょっと“そもそも論”いってみましょう。

(↑↑↑ひと晩考えて(←嘘)記事タイトル少しお直し)

朝ドラに、“ヒロインが当事者となる恋愛話”は必要なのか。

昼ドラなら即答、絶対必要です。無いと困ります。昼帯ドラマは“情念のもたらす光と影”の世界であり、たとえライトな、コミカル仕立てであってもヒロインには“情念”を持ってもらい、関わるほかの人物たちのそれをも掻き立て掻き乱して行ってもらわなければ物語世界が動きません。情“熱”であれば職業お仕事、芸術芸能・技芸方面、なんなら家事子育て、舅姑問題にでも集中させて描くこともできますが、情“念”となると、どうしたって人ひとりに惚れて惚れられて、他の事いっさい投げうつ勢いで悩み執着しまくってこそ、光も影も生まれようというもの。

しかし朝ドラは、表装はホームドラマであったり、青春ドラマ、一芸修業サクセスストーリーであったりもしますが、基本は“家族愛、勤労の大切さ、地域社会の自助・相互扶助の価値を称揚するための、国営放送を使った国策メッセージの場”なわけです。目標を持ち前向きに生きて明るく楽しい家庭を築き、家族のためにたゆまず働いて税金を納めてね、ということを、日本国民が1日の仕事を始める前の時間帯に、ドラマの形式で全国に伝えるのがNHK朝ドラの使命です。いくら柔らかく綺麗オシャレな言葉で飾っても、フレッシュかわいい女優さんを押し出しても、これが現実。

「親や学校の先生が何と言おうと、好き勝手に生きていいんだよ」「人を傷つけても、ダラダラしてても、23回刑務所入ってもいいんだよ」なんてことは間違っても伝えちゃならない。

そういう場で“手前勝手の極み”であるところの“恋愛”なんちゅうものに、ヒロインが放送時間や台詞エネルギーを費やす必要があるのかどうなのか。

月河がリアルタイム視聴した最近の作では、『瞳』(2008年上期)の一本木瞳(榮倉奈々さん)がいちばん恋愛色のうすいヒロインでした。友人知人の好いた惚れたには、善意でかなり前向きに関与したものの、あこがれのカリスマダンサーKENEXILE眞木大輔さん)への思いは、あこがれの世界のあこがれの目標以上に出ることはなく、「いつか出ることがあっても、それはまた別の話」の段階で、彼の海外再出発を明るく見送ることに。瞳自身の恋愛要素は、むしろお隣の鰹節問屋跡取り勇蔵(安田顕さん)が独走で「(妹同然に思っている)瞳を、KENがどうにかしやしないかと心配する」方向で片思い的に進行、朝ドラ伝統お約束の華である“ヒロイン花嫁姿”も勇蔵の妄想夢の中だけでした。

『つばさ』(2009年上期)は反対に、玉木つばさ(多部未華子さん)にはドラマ開始時点で幼なじみの、Jリーガー志望の翔太(小柳友さん)という両思いの彼氏が決まっていて、ドラマ進行とともにラブラブ温度が一度高まったのですが、選手生命の危機やつばさ自身の身辺の波風がもとで一度翔太から離別宣言。つばさは、降って湧いた仕事上の上司兼パートナー・ラジオぽてと真瀬社長(宅間孝行さん)からのプロポーズも断わり、鈴本スーパー跡取り(三浦アキフミさん)の片思いに至っては気づくことすらなく、翔太と「それぞれの道で頑張って、またいつか」の含みを残して、ホーローの母(高畑淳子さん)からのブーケトスキャッチで最終回となりました。

生き別れ双子姉妹の再会成長物語『だんだん』(08年下期)では、夢に見たメジャー歌手デビューとデュオ解散の試練を経て、めぐみ(三倉茉奈さん)は音楽事務所スカウト(→青年医師)と、のぞみ(三倉佳奈さん)はめぐみの幼友達兼アマチュアバンド時代のメンバー(→芸能マネ)と“苦しい時を共に苦しんで見守ってくれた理解者”ノリで、コレ恋愛って言っていいんか?と疑問符はついたものの、まぁ無事両思いゴールイン。『ウェルかめ』(09年下期)は話がそこに行くまで視聴継続していませんでしたが、ヒロイン側からの第一印象「イヤなヤツ」がやがて「気になる」→好意に…という少女漫画的曲線は、『てっぱん』と共通。

『ゲゲゲの女房』(2010年上期)はタイトルを読んで字の如く、恋愛なんかをすっ飛ばした夫唱婦随の二人三脚が眼目のお話で、色っぽい方面にもオクテなら、高身長がわざわいして縁談もままならなかったヒロイン布美枝(松下奈緒さん)が、このままでは実家のお荷物になるだけと決心して世界の違う漫画家との見合い結婚に飛び込み、「見知らぬ土地、変わった夫、特殊な職業、信じられない貧乏暮らし、でもなんとかできるだけのことを」と持ち前のポジティヴさで切り抜けるうち夫と信頼関係が結ばれて気がつけばアレレ?「ラブラブの出会いじゃなかったのになんだか萌えカップル化」という稀有な例。

現行放送中の『カーネーション』も、色気皆無に近いヒロイン糸子(尾野真千子さん)が「うちはまだ結婚なんか考えられへん」と言い張っていたのに周りが「いい男だ、またとない良縁だ」と盛り上げ倒して、最終的には糸子自身も「お世話になった皆さんにこんなに喜んで祝うてもらえて、うちは果報もんです」と感涙祝言に。

まぁ10代~20代のヒロイン妙齢期を描くのに、仕事や修業や家族サービス以外何もないのでは洗脳ビデオみたいになってしまうので、甘い系エピのひとつぐらい、お似合いの王子さま役のひとりぐらいは配さないと絵柄的にもきついのは確かです。NHK朝ドラの場合「お年頃のヒロインが、目標に向かって辛抱努力する一方、健康な若い娘らしく恋もしている(≒プライベートもカスカスの灰色ではない)」「でも、結婚まで至る原動力は、ヒロイン個人発の恋愛ではなく、家族・友人・職域・地域社会による縁結びとサポート」とを、どうにかストーリー上両立させるべく、毎作苦心しているように見えてしょうがない。

『おひさま』の陽子(井上真央さん)も、初恋は長兄の旧制高校級友で、家族ご近所にはいないバンカラタイプの川原(金子ノブアキさん)でしたが、結婚は陽子の女学生姿に幼くして亡くした実娘の面影を見て「ひとり息子(高良健吾さん)の出征前にぜひ嫁に」と一方的に訪ねてきた徳子さん(樋口可南子さん)の押しかけ求婚と、突然の話にもそわそわニヤニヤ満更でもなさそうな陽子の様子に、とにかく一度先方の店を訪れて、ひとり息子なる相手の顔でも見てみようと誘い出してくれたお父さん(寺脇康文さん)の心配りの賜物でした。

「恋はするけど、結婚は家族発で、家族に祝福されてこそ」が朝ドラの暗黙の不文律。

いつも思うことですが、“家族”と“恋愛”は、倫理的にも、金銭的物質的にも利害が対立します。恋愛で結婚したカップルでも、夫婦になって子をもうけ家族を作ると途端に恋愛に否定的に、偏狭になり、夫・妻はもちろん、娘・息子が思春期を迎えるとそういう動きにネガティヴに神経を尖らすようになる。一にも二にも家族を大切に、家族の幸せを自分の幸せとして生きたいなら恋愛にのめりこむのは無理だし、逆に、人生を恋愛メインに生きようと思ったら、家族とはどこかで訣別しないといけない。

日本国に“家族の価値”を強調し伝える使命をあらかじめ帯びた朝ドラは、ヒロインに人並みの恋愛をさせる段で、どこかいつも腰がひけて、展開が苦しくなる。でも、ヒロインが加齢するまで描くなら、結婚はさせないと、「子供をもうけて子供の幸せのために働く」というもうひとつの必須メッセージが盛り込めない。『瞳』がヒロイン夢追い途中のままシングルで最終回までいけたのは、劇中流れた年月が短かったから以上に、里親里子制度を物語のもう一方の軸にして“いろいろな親と子のありよう”を絡ませ得たからです。

それでも、現代の視聴者には「妙齢なのに恋愛をしない、恋人がいない=不幸」という世間的な広報宣伝がしみついているので、NHK朝ドラも仕方なく、ヒロインに恋をさせる。どんなに仕事を頑張ってサクセスして見せても、性格の良さをアピールしても、劇中、恋をしなければ輝く女性、素敵な女性と見てもらえないからです。

ヒロインの恋ならば視聴者が「がんばれ」「ハッピーエンドめざせ」と応援したくなるように作らなければなりませんから、『てっぱん』も、あかり(瀧本美織さん)と滝沢(長田成哉さん)との関係が家族の幸せと対立することのないよう、「彼をとるか家族をとるか」であかりが悩むことのないような展開に、スタッフ・脚本家さんたちは腐心したはずです。

だから、あかりと滝沢のラブラインは、ストーリー上“水を向けられた”当初から、なんとなく影が薄かった。公式の人物紹介を一見すれば、年格好や境遇(無職、独身、夢の途中)からいってあかりといちばん似合いなのは滝沢だったし、若いカップル、見ていて微笑ましいは微笑ましいけれども、さりとてうまくいっても「そうか」「だから?」としか感興が湧かない。うまくしたもので、ふたりが両思いになったことより、滝沢が復帰戦のレースで優勝できたことに「よかったね」「めでたい」と思えるような組み立てになっていました。

そんな希薄なところへ、『番外編』で浜勝社長(趙珉和さん)に「やっぱりおのみっちゃんのことが気になる」「駅伝とはその後どうなんだ」と、気の進まぬ見合いを機に蒸し返しモードにさせ、挙句、見合い自体を“新しい家族を作る勇気”なんて屋上屋を架したものだから、もともと“焼けてもいなかった棒杭”に無理やり火をつけて「やっぱりつきませんでした」を鑑賞するような趣きになった。

もう結論出していいのではないでしょうか。朝ドラヒロインに恋愛は要らない。恋愛のない世界にする必要はないが、ヒロインが当事者にならなくていい。脇役さんに思い切り恋愛三昧させて、ヒロインよりそちらに人気が出るくらいでちょうどいい。ヒロインは徹頭徹尾“家族、仕事、努力押し”でいい。

色戀に縁ないまま家族発の縁談で結婚して3児をなしつつお仕事一本槍、“ラブラブ夫婦らしいこと”に目覚めたと思ったら夫が出征戦死という、徹底的に非・戀愛体質なヒロインの『カーネーション』が、実にこれだけ見やすいということこそ、まさしくその証左ではないでしょうか。

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そしてなぜか

2012-01-08 01:12:18 | 朝ドラマ

たかが2週間ほど前なだけなのに、えらく旧聞な話を、忘れないうちに。昨年の1224日、クリスマスイヴが土曜に当たった夕方1700過ぎ、偶然『てっぱん番外編 イブ・ラブ・ライブ』を出会いがしら視聴できました。

「『てっぱん』が、帰ってきましたでぇ~~!」という中村玉緒さんの、パチンコ好きヴォイス(何だそれ)のナレーションがえらく懐かしい。ほんの9ヶ月前まで、ほぼ毎日聞いていた声なのですけれどね。

“前の前”の朝ドラの、新撮SP番外編って恒例なのでしょうかね。いくら設定が“イブ・ライブ”でも、本物のイヴの、しかも土曜の夜の夕食前どきの放送では在宅率も低そうだし、番宣もついぞ見かけなかった気がする。

内容も、やってくれて嬉しかったかというと微妙でした。かつお武士浜勝社長(趙珉和さん)と根本コーチ(松田悟志さん)に岩崎先生(柏原収史さん)の“残念イケメンシングルズ”メインの、大阪での後日談エピソードで、大半が安上がりなセット内(“おのみっちゃん”のセットすらもう存在しない)で終始し、ドラマの大きな魅力だった尾道ロケシーンは皆無。初音さん(富司純子さん)のほか、田中荘店子卒業組も、田中荘・おのみっちゃんを囲む人々の顔も見えず、最後のほうで紹介された寄せ書きメッセージのみ。

現行放送中の『カーネーション』と比べては分が悪いですが、『てっぱん』もそんなにクォリティの劣るドラマでもありませんでした。要所要所、結構、見るべきところはあった。いささか話が“家族”“親子”に拘泥し過ぎて、もう一方の主題である“食”“音楽”の扱いが雑なきらいはありましたが、昼ドラ同様、朝ドラもおおむね、特殊技芸やビジネスお仕事部分の描写はおそろしく浅いのがつねで、致命傷になるものではありません。

ただ、この番外編、脇役さんの中でも、初音おばあちゃんの富司さんと、金ヘンに定めると書く尾道のお父ちゃん遠藤憲一さんと、バイク住職尾美としのりさんが一度も顔を見せないとなると、驚くほど“『てっぱん』感”が薄くなってしまいました。改めて、『てっぱん』は、この年長組3人でもっていた世界だったことがわかる。趙さんたちヤング(???)3人組も、9ヶ月前に解散した世界を、どうにか連続させるべく頑張ってはいたのですけれど、話を接ぎ合わせようとする台詞を重ねれば重ねるほど気が抜けてしまう。

髪を切ってしまったあかりの瀧本美織さんは、民放のドラマヒロインも経験してスラッとボーイッシュに垢抜け、尾道訛り演技を取り戻すのに明らかに難儀していた。お好み焼きに供しどき、食べごろ熱々適温があるように、本編終了した連続ドラマの“おまけ”SPは、“出しどき”であらかた成否が決まってしまうものです。

加えて、“家族”“家族をつくる”テーマにまたしても足をとられて、浜勝社長の見合い結婚話という、どう考えても本編視聴者の大勢が興味持ちそうもない話題を取っ掛かりにしたためにますます気抜け化した。浜勝さんのあかりへの恋愛感情って、完結の9ヶ月後にまた蒸し返すほど視聴者に注目され、応援されていたとは到底思えないのですが。家族ネタでどうしても押したいなら、根本コーチの、一度は逃げた奥さんカムバックまで篇でも作ってもらったほうが嬉しかった。

あるいは、趙珉和さんの、新年からの大河ドラマ『平清盛』レギュラー出演への、距離遠めのエール、アシストを兼ねていたのか。

このSPでいちばん儲け役だったのは岩崎先生でしょうね。バレンタインデー前には地元からチョコレートがなくなるそうです。ガーナにでも住めって話。「岩崎バレンタイン潤」。「クルム伊達公子」みたいだが。“この人が画面に出たら笑っていい”担当を存分に演りきってくれました。

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Oh,no match

2012-01-06 21:57:32 | 朝ドラマ

返す返すも小原糸子役は、尾野真千子さんで良かったと思う今日この頃(@『カーネーション』)。

闇市に連れていってくれた木之元電器店のおっちゃん(甲本雅裕さん)をして「横で見てて怖かったで」と言わしめるほどの堂に入った値切りっぷりも、要所で「なぁあ~」とくんにゃり微笑まれると“したたか、叩いても倒れない、でも一周回って愛嬌”に見えるから不思議。闇市の荒くれおにいさんたちも、尾野さんの糸ちゃんなら、値切られるのが逆に楽しみで「今日はあのねえさん来ないな、まだかな、そろそろかな」と“来店”を心待ちにしているのではないでしょうかね。

洋裁店を開く前、生地代の工面のため神戸のお祖母ちゃん(十朱幸代さん)からの高価で不思議なプレゼントを詰めこんだ“神戸箱”を開け、フランドル風レース手袋など値打ちそうなモノだけを選って質屋に持ち込み「上物やで上物!」と換金に腐心していた糸子、当時はまだ10代だったはずで、自分は大正風着物を着たまま客のために洋服オシャレを推進する野性的服飾感覚と同様、金銭感覚というより、対物感覚、対価感覚の鋭さというべきかもしれない。自分の家計や蓄財は得意じゃなさそうですが、“このブツならどの程度のブツとタメか”に関しては動物的な嗅覚があるようなのです。

関東以東人のイメージする“ごっつい関西のおばちゃん”そのものな言動なんだけど、糸子ががさつで強圧な中にもさわやかなのは“手前勝手”“厚顔無恥”がなく、報恩心や義理堅さ、情の強さも感じられるからでしょう。

もちろんそう見えるように作ってある脚本も、そう見せる演出も見事ながら、尾野真千子さんが基本おとなしいパーツ並びの、地味めの小顔さんなことが大きいと思います。たとえば、國防婦人澤田の“ちょっとヤング版”みたいな人が演じてたらかなり連続視聴のきついドラマになっていたことは間違いない。尾野さん以外で糸ちゃん演れる女優さん誰かいるかな?と考えてみても、ここまで尾野さんが強力だとちょっと思いつかない。元ヤン風味でがらっぱち関西弁の芝居ができる、ルックスきれいめの人……と考えに考えても、藤原紀香さんと鈴木紗理奈さんしか出てきませんでした。

……………………成立しない。ぶち壊しだ。そもそも糸子役は、女学校2年生の14歳から見せなければならない時点できわめて高ハードル。三つ編みお下げに袴の女学生コスプレが似合えばいい(これだけでもかなり)ってものでもないし。中3でスカウトされ15歳で映画デビュー、スカウトした河瀬直美監督もどれだけ予測しただろうかと思うペースで演技賞のトロフィーを重ねてきた尾野真千子さん、それでも「女優なら朝ドラヒロインを」の思いは強く、二十歳前後からNHK大阪放送局制作の朝ドラは何度もオーディションに挑戦し続けて、信じ難い話ですがぜんぶ落ち続けていたそうです。

1981年生まれの尾野さんが二十歳前後の頃に放送された大阪発の朝ドラっちゅうとアレとアレとアレと…実際ヒロインをつとめた人はアノ人アノ人そしてアノ…と、その頃は朝ドラと無縁だった月河でもちょっと調べればすぐわかってふむふむニヤニヤできてしまうのですが、この手の「オーディション受けてた、落ちた」の回顧話って、落ちた人がその後いっぱしになってから出る話だけに、信じられない人が信じられない作品で、信じられない人に負けていたりするのです。

スーパーヒーロータイムの仮面ライダーやスーパー戦隊も、毎年毎作、ライダーならタイトルロールのほかに23役、戦隊なら正義側で最低でも3役、顔出し敵方ダークヒーローでさらに12役ポストがありますから、イケメン長身で身体のキレでも良ければ簡単に引っかかりそうなものですが、キャラクターブックのインタヴューで「実はライダーのオーディションは3度め」「戦隊も含めて4回受けてやっと合格」なんて話が、“ヒーローになるために生まれてきたようなこの人を、落とすか普通?”という人のクチから出たりする。

まあ、演技力など芸能スペックに関してはシロウト視聴者には測り知れない何かの基準があるのでしょうし、“磨かれざる原石が、受かって出演できたから輝き始める”ということもあるけれど、結局は作品、役柄との相性・“縁”に尽きるような気がします。

朝ドラ過去作の、どんなヒロインにせよ、演技力で落とされたのではないことは明白な尾野さんが、放送中に満30歳になるという、ご本人も自覚した「最後のチャンス」の年の『カーネーション』で合格。尾野さんにとってよりも、尾野さんがここまで“朝ドラバージン”で残っていてくれたことが『カーネーション』というドラマにとってどれだけ幸運だったことか。当初から、ヒロイン設定14歳~90歳代での死去までを描き切る企画だったこの作品こそ、尾野さんの「もうダメかもしれないけど、あきらめないでもう一度」の挑戦を待って待って待ちわびていたのです。そして待った甲斐があった。

運も実力のうち。というわけで本日の“『カーネーション』ココを褒める”は、“キャスティング上の強運”を褒めたの巻、でした。

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タテタテ ヨコヨコ

2012-01-03 16:21:47 | 朝ドラマ

油断するとベタ褒めして終了になりがちなので、『カーネーション』の場合“今日はココを褒めよう”と決めてから書き起こすことにしましょう。

まずは、“原因と結果の緊密さ”を褒めたい。

人間はとにかく「“原因”があってこそ“結果”がある」と考えたい動物です。悪い結果が出れば、原因を究明することで事態を収拾したり再発を防止したりしようとするし(しようとしてできない政府なんかもどっかにありますが)、結果が良かったら良かったで「“頑張った甲斐”があったね」という修辞で自他をねぎらい、「○○さんの“おかげ”です」と他人の貢献をたたえようとする。良きにつけ悪しきにつけ、“原因”“理由”“わけ”“なぜならば”が欲しいのです。誰も悪くない、理由なく、条理なく勃発する悪現象の代表選手である天災、地震津波でさえ「天罰だ」と抜かす手合いがいて、どこのボケジジイかと思ったら元・大作家の現職政治家だったりする。

事ほど左様に人間は“原因が結果をもたらす”で腑に落とそうとする動物ですから、たとえ作り話のドラマや小説でも「わけがわからない出来事が次々起こってわけがわからないまま」という状態が続くのは辛抱堪らない。

幸福も不幸も、理由があって訪れてほしいのです。努力したから成功した。性格が良かったから王子さまに見そめられた。外見は良かったけど性格が悪かったから嫌われた。悪事を働いたから、正義のヒーローに倒された。子供や高齢者専用のドラマならこれくらい単純でオッケーですが、少し成熟した視聴者に見せたいなら、「努力したから事業は成功したが、家庭を省みなかったため女房には逃げられ、子供はグレて孤独な晩年になった」「美人で性格が良く誰からも好かれたが妻子持ちダメ男に優しくしたため不倫の泥沼にはまり叩かれた」など“人物にも両面ある”“物事にもオモテとウラがある”前提で、複線でお話を組み立て、原因結果を絡ませていかねばなりません。努力家だった人が突然能なしのグウタラになったり、性格の良い設定だった人物がいきなり錯乱して刃物振り回したりなど、話を複雑にしたいがために“わけがわからない”ことが立て続けに起こるような不出来な連続ドラマのBBSは「感情移入できない」というレス花ざかりになります。

『カーネーション』で糸子(尾野真千子さん)の婿・勝さん(駿河太郎さん)や勘助(尾上寛之さん)、泰蔵兄ちゃん(須賀貴匡さん)が相次ぎ召集され戦死・戦病死したのは、史実にドンとある戦争のせいであって誰かの何かの落ち度ではありません。「稼ぎ手の家長、跡取りの長男、妻子持ちは後回し」「独身の次男以下から順に」という当時の徴兵の不文律は今日にも伝えられているし、戦中戦後を知る世代もまだ健在ですから聞くこともできる。昭和12年秋に最初の召集、16年秋口に除隊、菓子店の店番もやっとなほど精神がへこんでいた勘助の、199月の沈黙の再出征は「肺疾など伝染病がなく四肢体躯が満足な成年男子なら、精神状態がどうだろうととにかくかき集める」ぐらい兵員が払底していたのだろうかと、これはもう想像も簡単です。

それでは善作お父ちゃん(小林薫さん)の享年五十九、早すぎるお別れはどうでしょうか。小林さんが『土曜スタジオパーク』で「体力的に(←昨年満60歳)これくらいの出番でちょうどよかったかなと」と言っていたから。…なわけはない。脚本上は、“失火で大火傷のあと疥癬を併発して約3ヶ月の自宅療養、やっと床が上がったばかりで温泉旅行、久しぶりの酒を過ごして湯に入って心筋梗塞”という順序になっているので、お酒が悪かったのか温泉が悪かったのか、そもそもうっかり小火なんか出したのが運の尽きのもと…と思いがちですが、よく解きほぐしてみましょう。

善作の「絶対安静1ヶ月」と診断された火傷後の療養がこんなに長引いたのは、弱った身体に疥癬(←不潔な宿舎で入浴もままならず栄養不良の旧日本兵は、命からがら復員できてももれなくコレ持ちだったと聞きます)がとりついたせいで、「疥癬の療治には温泉がいい」と木岡履物店のおっちゃん(上杉祥三さん)の提案もここから来ました。

戦時中のこと、消毒薬や外傷の薬も民間には不足していたでしょうが、それでも地元の老医師は深夜のリヤカー搬送を親切に診てくれ、糸子が店の多忙の傍ら包帯交換やお粥さんの給仕、窓開け換気にとひとり何役も気を配って懸命に看病したにもかかわらずなぜそんなに弱ったかというと、まだ寒い早春、元だんじり大工方・泰蔵さんの出征見送りに、リヤカーも断わって国民服に着替え無理やり起きて出かけ、声をふりしぼって万歳の音頭を取ったせい。泰蔵兄ちゃんは地元の商店街にとっては“だんじり守護神”“みんなのヒーロー”的存在だったので、善作さんにとっては、婿の勝さんを送るのとは違った意味で、何としても目に焼き付けて、自分の音頭で送り出してやりたい思いが強かったのでしょう。何たって、糸子がやんちゃ盛りの頃は、善作が前梃子に座するだんじりの頭上で、泰蔵さんが舞っていたのですからね。

こんなところにも、善作さんの早世には戦争が、遠くから影を落としている。戦争で“生死”が切実に迫ってくると、人はいや増しに縁起とか、祭りごと、“神聖なもの”に敏感になり、執着するものです。

そしてそもそもの大原因、1月、寒のさなか懐炉の揮発油の壜を火鉢に落として火をかぶった夜は、善作は「目が冴えてな」と眠れず帳簿の頁を繰ったり筆をとったりしていました。煙草喫みの善作が一服しようとして袂に煙草がないので、消灯した座敷の茶箪笥(←糸子が昭和9年春に店を継いで、善作夫婦らは質屋に移り別居、戦時の電力・燃料不足で倹約のため再同居を始めたのがこの昭和18年年頭ですから、同じ家でも善作には、自分が家長の頃とは諸事物の置き場所等の勝手が違っている)を手探り開閉しているうちに惨事が起きたのですが、同じ頃、糸子も2階で眠れず輾転反側していました。

大事な婿の勝さんが出征した後、糸子が「どうせ浮気しちゃった旦那や」と自らを奮い立てて仕事をしていた洋装店に、この日の昼、國防婦人会が勝のミシンを供出するよう迫ってきたのです。ミシンが無ければ、戦争が終わって帰って来たとき、紳士服職人の仕事ができなくなってしまうと拒否する糸子に、婦人会のリーダー澤田(お懐かしや三島ゆり子さん)は「帰ってくるなんて、まだそんな低い意識で?」「お国のためにいさぎよく骨になってこそ旦那さまの値打ちというもの」と豪語。激怒した糸子が澤田たちにつかみかからんばかりになったのを、善作が縫い子頭の昌子(玄覺悠子さん)と二人がかりでやっと取り押さえたものの、最愛の(浮気疑惑ありとは言え)夫、娘たちお腹の子の唯一無二の父でもある人を「死んでこそ」呼ばわりされて「くっそぉー…」と歯噛みして涙をこぼす糸子。勝を実の息子のように可愛がっていた善作も心裂かれる思いで見つめたその日の夜、まんじりと眠れるはずもなく持て余した時間に、炎の悲劇は起きたのです。

小原家の小火は空襲でも焼夷弾でもない。しかし戦争という黒い巨大な悪意のカタマリに蹂躙されかけて、それではならじと懸命に抗して生きようとする、命あらん、あり続けんとする人の思いが、押し潰すものを振りほどいて弾け飛んで揮発油の壜を倒したと言っても過言ではない。

そしてその懐炉は、もともと小原家にあったものではありません。お世話になっている近隣の皆さんに、お正月料理の足しにと歳暮代わりに糸子は野菜などを籠にひと抱えずつ配っていました。物資不足に倹約圧力で苦しい商店が多い中、小原洋装店は好況で、現金がないからと現物支払いに代えてくる顧客も多く、食材も潤沢です。髪結ひの玉枝おばちゃん(濱田マリさん)に「あんたんところは繁盛して結構なことや」と勘助の件ついでになじられて以来、糸子は以前にもまして“稼がせてもらった分地元に感謝と還元を”の意識が強くなっていました。

金属供出で懐中電灯ぐらいしか売り物がなく元気のない木之元電器店に届けた帰り、奥さんの節子さん(西村亜矢子さん)が「糸ちゃーん」と追いかけてきて、「いつも貰うばかりで悪いし」と差し出してくれたのがこの懐炉でした。

日頃無口で愛想の苦手な節子さんが勇気をふるってくれたくらいですから、本当にありがたい、恐縮だと切実に思っての好意だったのでしょう。糸子も戸惑いの表情ながら、懐炉自体よりも、報いたいと思ってくれたその好意を重く温かく感じ「おおきにな」と受け取っています。

 好きな洋裁を仕事にし目標まっしぐらの糸子はさわやかな前進の人である一方、その長所の裏返しに、持ち前の熱気と驀進力が、特に気弱な人や能力の劣る人をときにたじろがせ、居心地悪くさせる傾きがある。なんだか糸子に思うさままくし立てられると、自分だってさぼっているわけではないのに、才能乏しく努力も不足な気にさせられるのです。誰もが「糸ちゃん偉いな、頑張れよ、応援しているよ」という視線でばかり見ているわけではない。結髪業の不振と息子の戦傷で精神的に荒んでいる矢先の玉枝さんに指摘されるまでもなく、視聴者も「ドラマとして鑑賞している分には痛快だけど、実在の人として身近にいたらちょっと暑くるしくてきっついかもな」と思うふしが一再ならずあったはずです。

 糸子がエネルギッシュ過ぎるから節子さんにプレッシャーとなり懐炉で返礼せしめ、その燃料で出火し善作さんが重傷を…とまで考えればこじつけめきますが、煎じ詰めれば、あるいは超ざっくりと俯瞰すれば、“戦争に負けまいとする心”と“心が人一倍強い、剛な娘を持ったこと”とが併せ技で、善作さんに思いがけずいささか多過ぎる火の粉を降りかからせたと言っていい。善作さんの体力気力と、糸子やご近所さんらの協力あって傷からは快復したものの、“黒い雪だるま”式にのしかかった戦争が、悪いほうへとハンドルを切りアクセルかけてしまった。

 要するに“こんな時代”に、“こんなにパワフルな娘を持ったこと”の幸不幸の両方を、善作さんは享受し切って逝ったのです。

自立心にすぐれ人に頼ることを潔しとしない長女が早めに店を継ぎ、看板を架け替えて後継者以上の甲斐性を発揮してくれたおかげで、善作さんは早めの事実上の隠居となり、あとは孫たちの成長と店の繁盛を手伝うばかり。次女静子(柳生みゆさん)以下の花嫁姿は、楽しみにしていたのかどうかわかりませんが(実際、関心なさそうだった)、ラクし過ぎて、戦争もなくて酒を過ごしでもしたら、いずれクチうるさく何かと手をあげるだけの足手まといの老親に堕していたかもしれず、享年五十九は、「もう少し食べたいくらいのところでお開き」という天のご馳走配剤だったのかもしれない。呉服屋お得意様の、嫁入り間近のお嬢様(=千代さん)を口説いて駆け落ちゲットした時点で、人生のツキの総量だいぶ消費済みなはずですし。

善作さん自身より糸子のほうがよりショックだったに違いない急なお別れも、「馬力だけのアホやさかい」と心配していた糸子に“馬力で試練は乗り越えられても、周りに感謝と謙遜を忘れたらあかんぞ”と教えるのが最後の使命になったようでした。

………ともあれこれは一例。初見では「ちょっと理不尽」と思える人物の退場や不遇にも、ひとつひとつ解きほぐして行くと、納得できる原因が絡まったり連なったりしていて「なるほどこういう結果になる道理だ」「道理と割り切っちゃかわいそうだが、百歩譲って仕方がないか」と思える。途中、ともすれば12年飛ばしの高速で進むドラマながら、追尾していてあれよあれよな置き去り感、食い足りなさが少ないのは、脚本における経糸横糸、“原因結果のテクスチュア作りの妙”も非常に大きいと思います『カーネーション』

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