好調『カーネーション』を牽引する“だんじり本体”が尾野真千子さん扮する糸子だとしたら、屋根の上で舞っている大工方は小林薫さんの善作お父ちゃんではないかと思うこともたびたびです。
幼い頃(二宮星さん)から自分の志向、夢がはっきりしていて、夢に向かって実行あるのみ、前進あるのみのオットコマエな糸子ちゃんに対し、善作さんは“夢から降りた人”代表のようなポジションを劇中つとめています。
岸和田生まれの岸和田育ちな男子なら、一度はだんじりの上で舞ってみたいと夢みない子はいない。でも皆が皆、夢を叶えられるわけではない。叶えられないまま人生を終える人のほうが実は圧倒的に多いのです。別にぐうたら怠けていたわけではない、努力しなかったわけではない。できる範囲内で頑張ったのだけれど、環境、時流、巡り合わせ、天賦の才と性格と向き不向きなど、十も二十もの条件がプラスマイナスして、結局はいちばん低い条件に見合った結果しか出ないのが人生というもの。チャンスは山のようにあって、つかむ努力も山のように積んだとしても、才能が丘ほどしかなければ丘の地位までしか登れないものです。
天辺で舞えなかった身を恨んでも仕方がない。運もあまりなかったが根性も足りなかった。善作さんもときどき落ち着いて考えるとつくづくわかっているのです。
それでも後悔や、登りつめた他の誰かへの妬みやっかみをなるべく引きずらずに、第二志望第三志望……第五十二志望ぐらいの人生でも笑って折り合いをつけて、夢ではない現実の日々の幸せだけはあきらめずに生きて行く。ドラマ化も小説化もコミック化もされない普通の人の普通の人生。普通ではあってもどこからおしても平々凡々平穏無事、清廉潔白性格円満というわけではなく、ときどき癇癪を起こしたり、カラ威張りしたり、一転デレたり反省したりのデコボコ道は、意外と糸子ちゃんのような、才能と個性に太っとい根性とキモッタマで発破かけて驀進する人生に負けず劣らず、実は起伏と彩色に富んでいたりもするのです。
努力努力、前へ前へ、ワタシを認めて認めて!な頑張りっ子ちゃん一代記はもう見飽きた朝ドラ枠ですが、『カーネーション』は夢を追う若い主人公の傍らで、“夢から降りた者”をしっかり生きさせ、輝かせているから面白い。しかもそれがヒロインの女友達でなく、姉でもなく、母親でもなく、父親だというところがいちだんとユニーク。
そして、夢から降りることを必ずしもネガティヴに描写していないのも素晴らしい。大工方にはもちろんなれず、商才もちょぼちょぼ、そもそも呉服業界自体が長期低落なところへ、狙ったように欧米発の大不況という何重苦なお父ちゃんですが、爆発させきれなかったエネルギーはとりあえず、少なくとも一時期は恋愛方面で盛大に燃焼した模様で、番頭時代に上得意だった神戸の紡績王(宝田明さん)の、嫁入り支度までととのえ済みだったお嬢様・千代さん(麻生祐未さん)と駆け落ちの荒業を敢行し今日に至る。燃えるときは燃えるし、掴むモノは結構掴んでいるのです。
で、商売は下手なので一応一軒のあるじにはなったものの年じゅうカネ詰まりで、さらう様に一緒になったその千代さんを、さらった実家に足運ばせては借金申し込み、借りるだけ借りて一銭も返せないという、苦笑でなければ激怒するしかない状況なわけですが、人間はさても矛盾のカタマリ。第4週の、糸子を前に座らせて差し向かっての「カネが、ないからや(ちょっとドヤ顔)。」は地味に名場面でした。
夢から降りたって死んだわけではない。どっこい生きてる、生きられる。自分は降りた夢追い道に、踏ん張り続ける娘を応援することもできる。観ていて自分の父親だったら、家族にいたら、身近にいたらちょっと手に負えない、勘弁だなあと思う善作さんですが、一周して、一周で足りずに何周かして、結果どこかカッコいいのです。この人が糸子のそばにいるから、お話が努力努力、前へ前へに塗り潰されず風通しがいいのだと思います。