ネットで有名な八戸市議会の“美人すぎる市議”藤川優里さん、やはり参議院選挙に出るのでしょうかね。どうも1月の自民党大会で、国会議員でも党職員でもないのにスピーチ登壇していた頃から、何か使われそうだなという気配はしていました。小泉進次郎議員との2ショットになったときには笑ったな。いまの自民党、“若さ”“ルックスの良さ”というものに、砂漠でバームクーヘン食べた後みたいに干上がって餓えているのね。いまに始まったことじゃないけど。ご本人は“使われてる”自覚はないのかもしれませんが、自己責任もあるにせよ(言っても30歳らしい)ちょっと気の毒。
でもって、“美人すぎるウンヌン”のフレーズがネットで散見されるようになってから、月河も物見遊山でネット画像検索してみたところ、嬉しいことにと言うか拍子抜けと言うか、本当にそこそこ美人なのね。いや、「そこそこ」なんちゅうとなんだかナンクセつけたいみたいに思われたら心外で、そりゃ“ルックスがいいこと”がある程度デフォルトになっている、モデルクラブやキャバクラや大企業受付嬢、あるいは客室乗務員などの世界においたらさほどでもない、特筆するほどでもない部類に入ってしまうかもしれませんが、あまり美しさが期待されない、堅めの会社の営業ウーマンや、販売員、清掃員、看護師や保育士、教員などのサービス業、もしくは法事で集まった親戚の中ででもお目にかかったならば、「いまのヒト、きれいだったねえ」「んだんだ」と同席の全員が首肯し合うレベルはクリアしておられる。
ましていわんや一応政治家、しかも、あまり美人の産地との定評あるわけでもない、いち辺境の地方都市の市議ということになれば、美人“過ぎる”と付いても、不思議も無理もありますまい。
ネット画像で拝見する限り、美人でもバリバリ垢抜けしてはいなくて、ほのかにカントリー風味が漂う佇まいなのもいいですね。十人並みかちょっと下回るくらいのルックスの子なら、いくら垢抜けしても垢抜けしすぎということはありませんが、美人は素朴寄りのほうがいい。美人があまりに垢抜けしていると“美人のプロ”というかマーチャンダイジングの匂いがしてしまい、差し引き、有り難味が減りますからね。
ところでこの“××すぎる○○”という語法、先般の噴飯“イケメンすぎるホームレス”のほかにも、“可愛すぎる海女さん”なんてのもいたし、“××”に容姿の優秀さを称える形容詞を、“○○”に容姿を期待されない職業や地位名を入れればなんぼでも成立します。つまり、××であることが○○にまったく貢献していない、○○が、××であることをまったく必要としない概念、イメージであればあるほど、造語としてのインパクトは大になる。
“イケメンすぎるホームレス”なんて、「いくらイケメンでもホームレスじゃしょうがないじゃないか」と誰もが思うからいいのです。有用でない、無駄であるということは贅沢だということで、××と○○のイメージに落差があればあるほど、注意喚起度、話題性は高まります。
しかし、“美人すぎる○○”はどうでしょうか。○○が“市議”であれ何であれ、喩えられる客体が女性である限り、“美人”であることがプラスに働かない、有用でない、まるっきり無駄であるような職業や地位や立場はこの世に存在しません。市議であろうが、清掃員であろうが教員であろうが専業主婦であろうが、美人であるのと美人でないのとでは人生のクォリティが、向いている方向性が、生涯に受ける日照量、酸素供給量が、行くと帰るほど違う。それが女性というものなのです。
男性における“イケメン”なんて、女性の“美人”に比べれば昨日今日ひょこひょこ出てきた、迫力においてコンマ以下の言葉、概念にすぎません。“美人”という言葉には、世界じゅうの、何世代、何十世代にもわたる女性たちの、怨念が籠もっている。○○に何を持ってきても、アタマが“美人”では重すぎて、均衡をとり得ないのです。
“美人すぎる○○”の表現には、「せめて男性側、おっさん側の視点で、“美人”に籠もった怨念をいくらかでも茶化し、薄めようじゃないか」という、メディアを使った“屁のツッパリ”みたいなものを感じます。“美人すぎる”市議であれ○○であれ、釣られて注意喚起度を見出すのは100%男性でしょう。女性にとっては、“美人”に“すぎる”は、未来永劫、子々孫々にわたって、絶対に付かないからです。女性にとって、“美人”が無用であり、無駄であり、贅沢だったためしはないからです。有史以前まで遡っても無いからです。
自民党が藤川市議を国政選挙に擁立するなら、そこらをよく理解して、弁えてから決める必要がある。自民党にも、“美人”が付こうが付くまいが女性議員はいるし、ご意見求める機会はあるのですからね。いま以上凋落したくなかったら、おっさんサイドの有り難味のモノサシに、あんまりまるっと寄っかからないほうが得策ですぞ。