連続テレビ小説「あさが来た」で五代友厚氏の名前を初めて知ったと言う方も多いと思います。
私は昨年4月に北浜の大阪証券取引所の前に建っている銅像を見て知ったのですが、明治維新から明治18年に亡くなるまで、こんなに大阪経済の発展に尽力された方とは知りませんでした。
「東の渋沢栄一、西の五代友厚」とも称され、大阪経済の近代化に尽くした実業家である五代友厚氏の銅像が、関連する市内の施設に建てられています。
今日はその中から光世証券と大阪証券取引所前、そして昨日除幕が行われた大阪市立大学の銅像をご紹介します。
「光世証券の銅像」
光世証券本店(大阪)のエントランス前に、右手を前に出しながら北浜を見つめる若かりし頃の五代友厚の坐像があります。
近代日本の先駆者として大阪経済の発展の基盤を築いた五代友厚氏の功績を称え、その精神と勇気を今に伝えるために光世証券の玄関に鎮座しているのだそうです。
五代友厚氏は1868年(明治元年)に外国事務局判事として大阪在勤となりましたが、その後退官し、民間人として大阪の経済再建に努力しました。
自ら事業を起こしたほか、様々な会社の設立にも関与し、近代大阪経済の父とも呼ばれています。
・五代友厚像です。・・・彫刻家 中村晋也氏、日本芸術院会員 文化勲章受章(2007年)
「大阪証券取引所前の五代友厚像」
五代友厚(1835年(天保6年)~1885年(明治18年)は薩摩藩士の次男として生まれ、藩校の造士館や長崎で学び、上海への渡航や薩英戦争を経験した後、1865年(慶応元年)から翌年にかけて、薩摩藩の留学生とともにイギリスほかヨーロッパ各国を巡りました。
明治維新となった1868年(明治元年)、政府の外国事務局判事や大阪府権判事、会計官権判事などに任じられ、大阪に赴任しました。
この時、大阪に造幣寮(現・造幣局)を設立しています。
翌年、政府の役人を退官し、大阪で実業の世界に入りました。
以後、鉱山、紡績、製塩、海運、鉄道など数多くの事業に携わったほか、大阪株式取引所(現・大阪取引所)や大阪商法会議所(現・大阪商工会議所、初代会頭)、大阪商業講習所(現・大阪市立大学)などの設立にも関与し、大阪の産業・経済の発展に力を尽しました。
・大阪証券取引所前に建っている五代友厚像です。(1865年~1866年頃の姿像だそうです。)
「大阪市立大学の五代友厚像」
2016年2月12日に五代友厚の生誕180周年を迎えることから、これを記念して大阪市立大学の同窓会が主導して、五代の銅像建立が進められているとのニュースが先日報じられていましたが、昨日、除幕式が行われました。
鹿児島県出身の五代友厚は、大阪市立大学の前身である大阪商業講習所の創設に尽力した人物です。
銅像は高さは約3・4メートル、右手に書物を持ち、目線は遠い海外を見つめるよう作成されていますが、同窓会事務局によると、これは「今以上に勉学に励み、海外にも目を向けてほしい」との学生へのメッセージが込められているそうです。
事業費約3千万円の大半は卒業生からの寄付で賄ったそうです。
・大阪市立大学に設置された五代友厚像です。(ネットより)
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大阪証券取引所前に像があるなら、iinaもこの証券取引所を見ているので、像もみている筈です。
>片瀬漁港の漁師さんは贅沢です。毎日、富士山を眺めて出港し、富士山を眺めながら帰港します。
まいにち生活していると漁師は富士山を意識しないでしょうが、よそ目には富士山の景色が贅沢に思えます。
この日は、波が荒れていて漁港のお店は料理は限られるという断りの張り紙を見ました。いつも行く寿司屋は、三浦港から
仕入れるからか、いつも通りのネタは新鮮でした。