らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

崇徳天皇の歌

2021-03-09 | 趣味

数年前の朝ドラで、崇徳院の和歌が出てくる作品がありました。
その和歌は百人一首、第77番の下記の歌でした。

 「瀬をはやみ 岩にせかるる 瀧川の われても末に 逢わんとぞ思う」 崇徳院(詞花集)
(意訳)
川の瀬は流れが速く、岩にせき止められた急流では2つに分かれ、それが再び1つになるように、愛しいあの人と今は分かれても、いつかはきっと再会しようと思っている。 

「崇徳天皇(すとくいん:1119年~1164年)」
この和歌を詠まれた崇徳院は、第75代崇徳天皇のことです。
鳥羽天皇の第一皇子で、保安4年(1123年)に5歳で即位し、1141年までの18年間、第75代天皇として在位しました。
後に近衛天皇(御年2歳)に譲位した後は、鳥羽上皇の本院に対し、新院と呼ばれた方です。
鳥羽上皇の死後、後白河天皇との間で、後の天皇にどちらの皇子を立てるかで対立して保元の乱が起こり、敗れて讃岐(現在の香川県)に流され、45歳で没しました。

崇徳院は讃岐国松山(現在の香川県坂出市)に流された後、後白河天皇を呪い、ヒゲや爪を伸び放題に伸ばして恐ろしい姿になりました。
調べに訪れた朝廷の使いは「生きながら天狗と化した」と報告し、また今昔物語では西行が讃岐を訪れた際に怨霊となって現れたと記されています。

・百人一首第77番、崇徳院の和歌です。


この歌は、崇徳院が1150年に藤原俊成(しゅんぜい:定家の父)に命じて編纂させた「久安百首」に載せられた一首です。
山の中を激しく流れる川の水が、岩に当たって堰き止められ、岩の両側から2つに分かれて流れ落ち、再びひとつにまとまる、その様子を離ればなれになった恋人への想いに重ねて詠っている激しい恋の歌です。

「障害を乗り越えても必ず逢おう」という気持ちが込められた激しく燃えさかる情熱と、強烈な決意のようなものが感じられると言い、更に、後世には、崇徳院の不遇な生涯とこの歌を結びつけ、強引に譲位させられた無念の想いが込められている、と解釈する研究者もいるということです。

 


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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
おはようございます! (いわどの山荘主人)
2021-03-09 07:38:00
わたしも娘と一緒に遊んだ思い出があります。
懐かしいです!
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たたり  (もののはじめのiina)
2021-03-09 11:22:14
崇徳天皇は、日本三大怨霊の一人ですね。他に、菅原道真・平将門がいます。

讃岐に流された崇徳帝は京への帰還を願っていたでしょうから、死ねば「祟り」ます。
それにしても、天皇に縁起の悪い「祟」をつけたものです。そのいきさつは、井沢元彦が「逆説の日本史」に面白おかしく描いていて知りました。

一昔前に捨扶持をあてがわれたサラリーマンを「窓際族」と呼びましたが、いま思えば閑職でも給与を貰えるのですから、職を失うよりはましです。

出社に及ばずとされた管理職がいたのですが、やはりプライドが許さないのか退職して去りました。

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なかなか逢えない (hide-san)
2021-03-09 18:04:14
>逢わんとぞ思う

将来逢いたいと思っても、思うようにいかないのが世の常と言うことでしょうか・・・
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