ジダン話「○○人だから、どうのこうの」

 
 さてジダンに関して、彼のアルジェリア的性格の話ばかりになってきましたが、イタリアと対比したときのフランス的性格、ということもあわせて考えてみたく思います。

 話がスタンダールまでさかのぼっちゃうのが恐縮です・・・ たぶんわたしの考えていることをわかっていただくには『恋愛論』断章75みたいなのを見ていただくのが一番かもしれないと思いますので。
 こういうのです:

「大軍の退却にあたって、イタリアの兵士にむりに冒す必要のない危険を注意してやってみたまえ。彼は君にほとんど感謝せんばかりで、注意深くその危険を回避する。同じ危険を親切気からフランスの兵士に指摘してみたまえ。彼は諸君に見くびられたと思い、自尊心に駆られて、すぐその危険を冒しに行く。そして万一やり遂げると、今度は諸君を嘲笑しようとする」

(こんな断章が『恋愛論』という名の本に入っているということを奇異に感じられる方も多いかもしれません。でもこの本は、実は文化論の本でもあるのです)
 それにしても、最初読んだ時は、それがどうした? と思うだけでしたが(他にも真意の分からないおかしな考察がこの本にはたくさんあってそこがまた面白いんですが)、やっぱりこれ、実際にフランス人の行動を眺めていると、なんとなく200年前スタンダールが言いたかったことが見えてくる気がします。学びてときにこれを習う、っていうやつです。

 スタンダールは「だからフランス人は『自然』じゃないのだ!」と、フランス人の「気取り」「虚栄」を批判したいのでしょうね。たしかにフランス人の性格をうまくとらえている気がします。この例でフランス人は、「おれはどんな危険より強いのだ!」と証明したい心からわざわざ危険を冒しに行くのだと思います。

 それで・・・ジダンの場合「おれはワールドカップより、サッカーより強いのだ!」と言いたくさせられちゃったんじゃないか。
 そう考えるなら、たいへんアルジェリア的反応であるかもしれませんが、同時に非常にフランス的である、とも言えるように思うのです。

 マテラッツィは、たぶんジダンのフランス的心理を見定めて、イタリア人のレアリスタとして、有効打突を入れることに成功したんだろうなと思います(こういうイタリア人理解、どうでしょう?)。そしてそれには、やっぱりワールドカップ決勝、引退試合というお膳立てが前提だったと思うのです。
 
 変なことを言うかもしれませんが、いまでは、マテラッツィが具体的な言葉として何を言ったか、というのは実はそんなに重要なことではないのかもしれないと思ってます。
 ジダンがマテラッツィの侮辱に反射的に反応したわけでないということも、わたしにそういうことを思わせるようになってきたと思います。
 彼は少し笑ってさえいた。最初は「こんなおれにとって大事な試合で、そんなチャチな挑発におれが乗るってのかい。おいおい馬鹿にすんなよ」と思った、そういう笑いじゃないかと思います。

 しかしマテラッツィが執拗に侮辱を繰り返すうちに、その言葉がある時点で突然別レベルで意味を持ってジダンに襲いかかったのじゃないか、「大事な試合」という意味が一瞬にして裏返しになったのじゃないか、マテラッツィの言葉はそういう意味をジダンが感じるようなアクセント、抑揚を持ちえていたのじゃないか・・・
 簡単に言うなら、次のようなことをマテラッツィが「言っている」ようにジダンが感じたから、あんなことが起こったんじゃないかなあ、と思うのです・・・
 
 (これ、あんまり書きたくなかったので、それもあってぐずぐずしてたのですが・・・)
 「あんた、移民のくせしてフランスの英雄だってな。神様みたいにあがめられて、うれしいんだな。結局そういうのが好きなんだ。その程度だよ、あんたは。キレやすいあんただが、ここはおとなしくするんだろうな。大事な試合だからな。いつもキレたようなふりしてたのは、格好だけだったな。かしこいぜ、あんた・・・」

 この究極の嘲りを否定するには、やっぱり明確に物理的に動いてレッドカードもらわないといけないわけです・・・
 やっぱりわたしにはそんなことが起こったように思えます。
 前にも書きましたように、「証明」できるわけではありませんが。


 ところで、わたしとつきあいのあったイタリア人というとみんな非常に常識的で温厚な人たちだったので、あんまり今回のマテラッツィ(たしかにかなり粗暴な人ではあるようです)の件の参考にはならないように思います。
 いわゆる(スタンダールが指摘しているような)イタリア人のリアリズム、みたいなものを感じることはあまりありませんでした。

 一回だけ、そういうものを感じたのは、スタンダール研究家のフランチェスコと話している時のことでした。

 これも前に書きましたが、イタリア人のフランチェスコやドイツ人のネルリッヒさん(このエントリーをご参照下さい)がスタンダール研究に一生懸命になるモチベーションというのは、何百年にも渡って営々と積み重ねられて来た仏=伊、仏=独の直接文化交流が、現代の英語万能潮流に押し流されて潰されてなるものか、すべて英語を迂回しないとフランス人とイタリア人の知的コミュニケーションが不可能になるようなことにさせてたまるか、ということであって、彼らはそういう大義の戦いを戦っているわけです(上の写真はネルリッヒさんとフランチェスコの本です)。
 でもいつだったかフランチェスコとしゃべっていたとき彼がふと暗い表情で、

 「この大義は失われたと思う」

ってぼそっと言ったことがあります。世界が英語のモノポリーになっていくのはもう止めようがない(すくなくともイタリアでは、ということですが)。それは現実として認めたうえでこれから何をするか考えなくてはならない、ということですね。

 わたしはそれを聞いて、いやそんなことはないんじゃない?と反論してしまいました。
 でも反論しながら頭にあったのは、こういうのがイタリア人のレアリスモっていうんだろうなということと、おれもまぎれもなく観念論者の日本人だな、ということでした・・・

 塩野七生氏が『文芸春秋』でイラク戦争のときの例をあげて、イタリア政府のまことに現実主義的な臨機応変の対応を褒めていたことを思い出します。
 でもイタリア人のやり方を日本人が真似て成功させるの、たぶんぜったい無理です。

 日本人というと・・・ 
 いつもやるとは限らないにしても、現実における成功可能性の小ささを無視してなにかの大義、なにかの目的のために猪突猛進する、それも集団的に幻想を抱いて---みんなで一生懸命頑張れば、きっとできるんだ! 友情、努力、勝利! 少年ジャンプだ! プロジェクトXだ!---というのがかなり好きなんだと思います。
 冷静に考えたらほとんど勝つ見込みのないような、そういう勝負に突っ込んで行く。こういうのはやっぱり日本人の性格なのかもしれないし、結局なんとかいっても最終的に日本人の強みってこれしかないのかもしれません。
 そう思うと複雑な心境です。

 イタリア人に限らず、世界のだいたいの人にとって、こういうのは奇異に見えると思いますよ。日本語専攻してかなり日本滞在歴も長く、日系企業で働いたりしてきたフランス女性が、

「そのやり方でうまくいくことがあるのは認めるけど・・・ でもそれでうまくいくのって日本人だけだと思うよお」

としゃあしゃあと言ってのけたのを聞いたことがあります(ちなみに、実も蓋もないようなことを平然と言ってしまうというのは、なんかフランス的性格といえるような気がしますね。 (^_^;) )。

 でも、大革命からナポレオンの頃はフランス人もわりと少年ジャンプ的なところ、あったかもしれません。ナポレオンの有名な言葉、

 Impossible n'est pas francais.

なんかその現れのように思います。
 このせりふは、「不可能はフランス語(あるいはフランス的)ではない」という訳が適当でしょう。わたしの知るかぎりナポレオンは「余の辞書に不可能という字はない」てな尊大なことは言わなかったみたいです。
 たぶん彼はこれ、わりと好きなフレーズだったのでしょう、何度も使ったみたいです。たとえばこれなんかでわかりますが、部下を励ますために使ってたのかなと思います。「陛下、不可能です!」と弱音を吐く部下に「不可能って、フランス語ではないね(だから不可能だなんて言葉を使うな。不可能なんて言うな。もう少し頑張ってやってごらん)」と叱咤激励するための言葉なのでしょうね。
 それでつい頑張っちゃったフランス人は欧州を制覇、モスクワまで行ったわけです(もちろん背後には革命とか自由思想の伝播とかありますが)。

 というわけで、民族、国民の性格とかいっても、永遠不変のものじゃないと思いますよ。(たとえば日本の場合、史上かつてなかったほど子供たちが「壊れやすくなった」ということを念頭におかないといけない時代になっていると思います・・・)

 ジダンが頭突きしたのは、彼のアルジェリア人的性格のゆえか、フランス人的性格のゆえか・・・ 考えているうちにこういう「○○人だから」こうである、というタイプの思考法自体がもっている有効性と限界とがみえてくる気がします。

 ジダン話の最後は、あらぬ方向に話がとびました。 m(_ _)m 

 これで終わりにします。 (^_^)y


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