日本人はフランス語を誤解している!・・・と思うけどなあ・・・
フランス語系人のBO-YA-KI
欧米へのあこがれ? 1
わたしは、たしかに日本人の伝統的な「美人」観には色白ということが基本的に入ってるかな、という気はします。ただしそれは労働する必要がなくて屋外で陽にあたらなくてもすむという上流階級へのあこがれと結びついていた美的感覚であって、本来、いわゆる「白人」の肌の色とは関係なくできあがった美意識だと考えています。
ついでに言うとかなり最近まで「美人」観は「豊満さ」と結びついていたと思います。人類の歴史の大部分で、大部分のひとは基本的に飢えていたのであって、太り気味ということはたくさん食べられる、上流階級の者である、ということを意味したと思うのです。
ありがたいことに日本は欧米諸国に植民地化はされずにすみました。アメリカ合衆国には占領されましたが(あ、今日は8月15日だな?)、まあ、やってきた米兵にはいろんな人種のひとがいたわけだし。
わたし自身、とくにいわゆる「白人」的美人スタンダードが、世界の唯一の美的価値観ヒエラルキーのトップにたつとは、思ってないと思います。(子どものころのアイドルは南沙織ちゃんだったしね) ある種の価値観と結びついたかたちで「白人」好きという人が日本にいるのは確かだと思いますが、いわゆる「黒人」好きというひともいるし、「アラブ人」好きという人もいます。幸いなことに。ありがたいことに。
(以上のことは、男女どちらについてもいえることだと思います)
以上、前置きです。(つづく)
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『日経』が反仏、あるいは嫌仏じゃないかと思うのは
昔、いしいひさいち氏が描かれたマンガでは、バイトくんや久保くんたちは「ギリシャ問題研究会」に入っていました。今からずっと以前にギリシャ問題がヨーロッパの焦点になることを予期しておられたのでしょうね。さすがです。(汗)
それはいいとして、ギリシャ問題はまだ予断を許しませんが、いちおうユーロ離脱、EU離脱という話は当座は避けられたように見えます。
これはたぶんフランスのオランド大統領ほかの政治家のひとたちがオモテになりウラになり必死で工作した成果かと思われますが、御存じスター経済学者ピケティさんも大統領と連携したか、ここしかないというタイミングでドイツの新聞Die Zeitで吠えましたね(6月27日)。
ドイツ語原文. フランス語版. 英語版
ピケティさんの主張にはこんな反論も出てますが、とにかく彼のことばがドイツの対ギリシャ強硬派のひとたちになんらかの影響力をもったのは間違いないように思います。
なんだか彼の姿は、かつてのヴォルテール、かつてのサルトルを彷彿とさせるところがありましたね・・・
それにしても『日本経済新聞』がピケティの吠え声を完全に無視したのは興味深いことでした。下手に報道したら「日韓基本条約」その他に話が及んで、「日本」の国益を損ないかねない、と思ったんでしょうか。
それは妥当な判断なんでしょうか。
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文系学部廃止に反論したいなら
「日本の文部科学省が日本の国立大学の文系を廃止しようとしている」という話が出てるんですが、この話の元のやつというのはこれなんでしょうか。
たしかに「教員養成系、人文社会科学系は、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換」と書いてありますね。
つまり社会的要請の高いことをやるようにしてください、でなければ廃業してください、ということですね。
うーん、これだけなら当たり前かと思いますよ。
「社会的要請」というのが、文系理系の別なく全てのひとが、ある種の文化体験を通じて、あるいは人生の指針をつかめるような思索を通じて、なんらかの意味で「豊かな人生を送りたい」というニーズに応えること、というのを含むのであれば。
そしてそういう体験・思索が、よりよき社会、よりよき世界にむかって人類が進んで行けるために必要な体験・思索であることが認められているのであれば。
いい機会なんだから、ここは「文系」も自分の使命をよく考えなおしてみたらよいのです(「ミッション再定義」ってまさにそういうことでしょう?)。
「自分は変わりたくない、旧態依然のままでいたい」あるいは「わたしがいちばん偉いのだ。みんな、それが分からんか!」というのが本心の人たちの言うことだったら、そんなもの聞く必要はないから気にせずに、自らの豊かな生へ、そして――未来の世代も含めた――万人の幸せへ向かって真摯に突進すれば、その行為自体が文系無用論への最良の反論になると思います。
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安全保障関連法案可決なら
ぜひとも日本でも「りんご」がもっと公教育で学べるようにすべきだと思います。とくに中等教育において。
「りんご」とは、「隣語」、となりの国々、地域のことばのことです。
日本からみれば、韓国・朝鮮とか、中国本土とか台湾とか、ロシアとか、フィリピンなどの言葉ということになります。
昔は、ある種の言語の学習は、ある特定の思想への共感、同調を示すものとして、日本国の国益を損なう危険に結びつくものとして政府当局に警戒されたのだと思います。
でも、もうそんな時代ではないでしょう。とくに若い世代においては。
いまはむしろ、草の根レベルでの近隣国との相互理解への努力が、世界平和のために一番大切なものとなっているはず。
安倍首相をはじめとする日本の指導者の方々、お願いいたします。
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「だいがくきょういん」もがんばんなきゃ
日本で大学というのは明治のころに、「おうべい」の進歩事情を把握するために作られたわけで、だいがくきょういんが基本的に上を向くのは、まあ当然だったんでしょう。で、その「上の方」には「おうべい」があったわけで、アルジェリアがあったわけじゃない。アルジェリアがないだけならまだしも、ブラジルも、カナダさえもあんまりないみたい。「おうべい」にあるnation stateの「こくご」にまつわるものだけが上にあった。
ここには、一直線に上に向かっていく動きしかない。
でも、精神的高みは、横方向にもある。
資本主義が、市場システムが、囲い込みをやってしまうから横方向の流通は阻害されている。
MOOCみたいなものもどんどん増えていくだろう。
さてだいがくきょういんはなにをする?
Comment agir ?
資本主義が作る垣根を、人と人との垣根に、抜け穴を作っていくこと。なぜなら「知」とは上方向にも横方向にも伸びていくものだから。
若い日本人に「戦え」というなら、せめてどういう人たちのためになぜ戦うのか、わかってもらうようにすべきではないんだろうか?
・・・とここまで考えれば、音楽業界がダウンロード時代に華やかさを失い、文学がアニメや漫画やほかのジャンルにシェアを奪われていくのも、悪いことばかりではないという気になる。
だって、資本主義が、市場システムが関心を薄くしてくれるから。
ほんとうの歌とか、ほんとうの文学って、これから息を吹き返す目があるかも。
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W.E.B.Dubois
CiNiiを検索していて気が付きました。
W.E.B.Duboisの邦訳って『黒人のたましい』The souls of black folkと『黒人論』The Negroしかないみたい。しかも後者は所蔵館一館しかないです。
ははあ、なるほど、こういうふうにしてあるわけか・・・
こういうのこそ、紹介しなくちゃいけない。
それには二つ理由がある。
ひとつは、世界のトレンドが、少数の選良が追及する高邁な理念より、多数が幸せになり心安らぐ思想を要求しているから(そして、現時点ではそういう思想を追求することこそが、逆説的に「高邁な理念」を追求することになること)。
もうひとつは、にっぽんの権力志向ばりばりの人たちにはピンとこない話かもしれないけど、結局そういうことをすることが21世紀において、最終的に日本を守る営みになるから。
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English, yes, but,... とイスラム国とかなんやかんや
せっかく出てきたブログを書く気力が委えないうちにひとつ大きな話を書いておきます。
日本で英語教育をもっと推進して日本のひとの英語能力をあげることは最重要課題で急務である、というのはその通りです。そのために国や大学や他の教育の場が努力をすべきだというのは、全くその通りだと思います。
ただわたしはだからといって、日本の人たちを二流のアメリカ人にするべきではないし、また世界のアメリカ以外のひとたちを二流のアメリカ人にする手助けをするべきではないと思います。
さらに言うと、「アメリカ」はここでは「資本主義の、市場の、グローバル経済の都合」ということと密接に関わりあっていると思います。
ここでわたしが立ち戻りたいのは、マルクスより前の、フランス革命の理念です。「自由」と、「平等」と、それから後から付け加わった「兄弟意識」というやつです(「博愛」とか「友愛」とか言うより、わたしはこの訳を提案します。このことについてはまた別のところで書きたいです)。
「またフランス語系人が革命ごっこを称揚しおって」という声が聞こえそうですが、いや、そうでもないと思います。なぜなら2015年の現時点で日本にとって最大の問題は「中国」なのであり、中国に思想的に対抗するには、「自由」を追求する精神を補完する「平等」追及の精神まで立ち戻らざるをえないから。中国から日本を理念的に護ってくれるのは、マルクスじゃなくて平等の精神のはずだと思うのです。
平等の精神を失うということは強者に、「他のものはわたしたちに従うことが正しいことだ」と、漠然と、一般的に、信じさせるということを意味します。
パレスチナにユダヤ人国家を作っても、アラブ人たちはその文明の威光に、自然に従って、まつろっていくだろうという漠然とした思いがイスラエル建国時に西洋にありはしなかったか?
「アラブの春」だからとある種「浮かれた」気分で(「見ろ、最終的には西洋的価値観が勝ちをおさめるのだ」というわけなので)、シリアの「独裁者」アサドが倒れるに任せるのは結局いいことだ、という思いが西洋に一般的になっていなかったか?
人間としての尊厳、ひととしての平等が多くのひとにとって脅かされている状態を放置したからこそ、「ISIL」みたいな怪物が生まれてしまったのではないでしょうか。
知る人はまだあまり多くはないですが、フランスも一昨年あたりから方向転換して、「英語の世の中」に合わせて行く方針をとっています。
でも、なんとかフランスの尊厳の確保を模索しながら、です。
カナダのケベックだと、それはもっと切実で、徹底していると思います。
日本は、英語の世の中に合わせると同時に自らの尊厳と世界諸民族の平等を模索するフランス、ケベックに合わせるべきであって、やみくもに英語とアメリカ合衆国Estados Unidosとある種の資本主義に盲従するべきではないのです。
最後に、フランス語の学習って、実に英語学習に役立つもの、1066年以来の英仏の言語と、文学の歴史を勉強すれば、そのことは明白なのだ、ということを付けくわえます。
問題は日本人が英語をできるようになることであって、フランス語教育を潰すことではないでしょう?
というようなことを言うとまた「フランス語だけ延命をはかりおって」と言われそうなんですが、フランス語が諸言語の平等、諸民族の尊厳の擁護ということを言わなかったら、どこが言うんですか、と言いたいです。
反論のある方は、おっしゃってください。できれば匿名でなく。
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これは、言わせていただきます
日本の大学はこれからどういう方向に向かうべきか、見定めるのがなかなか難しい時期です。
「大学」というものが一体なんのためにあるのか、よくは分からない時代になっています。
わたくしは「おそらく、何らかの様態で『細分化された知、情報を「『理解』し、自らのものとし、さらにそれを表現・発信できるように」後の世代に「託す」』役割を(カッコだらけで申し訳ありません)担うのがこれからの大学かと思うのですが、そのことは別の機会に触れることにして。
具体的問題はこれだと思います:これまで日本で「なじみがなく」教えられることの少なかった領域は、これからもやっぱり教えられることなく、したがって大多数の日本の人になじみがないままでこれからもずるずる行ってしまうのが必至ということになってしまうだろう、たとえその「なじみがない」領域がいま、そしてこれから勃興しようという地域、あるいは世界的な重要度を持ち、また持とうとしている地域と関わるものだとしても――ということです。
ひとつには少子化その他の理由により大学の教授陣の数が増えないということがありますし、もうひとつにはビジネスの、資本主義の、マーケットの論理が「人気のない」領域の拡充を許容しないということがあるからです。
そういう「人気のない」領域を今の日本で地理的に特定するならば、アフリカ、インドとインド洋、南米・・・などになるでしょうか。
いちばん問題となるのがイスラム教の優勢なアラブ地域です。
この地域がいま、そして将来的に世界的な重要性をもっていることは疑いありません。この地域の人たち、文化、政治、もろもろのものを知り、それに対処して自らと周囲をどのように導こうとしたらいいかを考えることは、喫緊の課題と言ってもいいでしょう。
しかしどうみてもいまこの地域は日本でイメージがいいとは言い難いです。「危険」「遅れている」「綺麗でない」などなど・・・そして「何を考えているのか分からない」。
これだけでもこの地域について苦労して勉強、研究しようという若者の数が限られてしまうのに、しっかり学べるところ自体がないというのでは、若者の側に動機ができたとしても受け皿がないことになります。
さらに若者の親御さんが「そんな危ないところにうちの娘、息子は行かせられない」という断固とした意志を持ってしまえば、現地で勉強しようというのもままならないことになります。この障壁を砕くのは容易ではありません。
日本は、国家あるいは別の権威が若者に「あなたはこれを勉強しなさい」と強制できるところではありません。そういう政体ではないのです。
放っておけば次の世代も、また次の世代も、いつまでも日本の無知状態は続くことになります。
世界的に重要な領域に関して「事情が良く分からないし、できたらあんまり触りたくない」という人間ばかり作るのでは、結局くにの取るべき方向性が誤るとともに、世界経済の場における「たたかい」に負け続け、くには疲弊し、何十年かのスパンののちにはくにの人々全体が貧困のなかに沈んでいくでしょう。
大学というもの、あるいはそれを構成する個々のインテリゲンチャには本質的特性として、自分が苦労して築きあげた「学」を、「専門」を永続化したい、後世に伝えたいという欲望があるわけで、既存の学問領域は、現在もっている権限、権力をもって既得権を永続化しようとします。たとえ時代の推移その他によってその領域に実質的価値がもはやあまりなくなっていたとしても。パーキンソンの法則はアカデミックな世界にもあてはまります。
既得権をもっている学問領域は、なんとか年齢の若いうちに若者を「とりこんで」しまうのが正しいことになります。人生の初期の段階にであった「好ましい」ものに関して、「脇目をふらずにストイックに追求すること」――幸か不幸かこういうのが日本文化は大好きで、基本的に肯定されます――が正しいことであると若い人の心に刷り込んでしまえばよいのです。その若い人たちが「自らの意志として」その「道」に進むことを表明するとすれば、これは日本の今のあり方においては、否定される契機はありません。日本の若者の人生の早いうちに自らの肯定的産物に接する機会を与えるという機会を与えられていない、独占から排除されている領域には、勝ち目がありません。ましてや「危険」で「遅れていて」「綺麗でない」と「思われている」領域には(ほんとうは日本のジャンクフードみたいな文化よりよっぽどましなものがそういう領域には豊かに息づいているわけなのですが。日本の「平均的」人間のレベルをはるかに凌駕した――という言い方が許されるかどうか分かりませんが――素晴らしい人々がそういう領域には生きているわけなのですが)。
こうふうにすることが、ある既成の「学」の専門家にとって合目的的行為であることは明らかだと思います。
そうやってある領域に安住した人々は年月を経るうち「わたしは正しいことを一生懸命やったのに、なぜくには落ち込んでいくばかりなのだろう?」と内心いぶかしがるかもしれませんが、そのまま老い、そして死んでいくでしょう。あるいはもっと悪いのは周りおよび後世のことには知らん顔で「わたしはわたしの好きなことがやれたのだからそれでいい」と自己正当化しながら老い、死んでいくことですが。常にある種の小さなサークル、クラブが存在してその内輪でその人の生き方が肯定され続けるなら、そういう生き方の否定的側面にはあまり目をやらずに生を全うすることができるでしょう。
結局のところ、日本の大学が思想的に危機に陥っているのは、悪いことではないと思います。特に今は、明治以来自明のものとしてあった「西洋」を最重要視する学のあり方が、西洋自身の地盤沈下、および中国を代表とする非西洋(しかも中華人民共和国はまぎれもなく西洋起源の思想、マルクス主義をまがりなりにも「中心に持っている」国家だというのが興味深いパラドクスですが)の勃興との否応なき対処の必要性によって再検討されなければならなくなっている時代ですから。
自ら起こしたものではないけれども、とにかく変革を余儀なくされたからには、日本の大学は現在、そして将来の世代が自ら時代と、世界に対処できるような学の創成を託するように努力を重ねていけばよいのです。
そうしましょう。
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Ginrei
Ginreiというのは金沢駅の建物の中にあった食べ物やさんです。
まあ、とくに特別なところもない、普通の食べ物やさんでしたが、ここの「海の幸定食」がわたしの気に入りで、他所にでかけるわけでなくても、時々食べに行ったものでした。
さて来春金沢にも新幹線が来るのですが、当然ながら駅や駅回りがずいぶん改装されて新しくなりました。
・・・でぶらぶら見ているうちにはっと気づいたのが「Ginreiがなくなってる」ということでして・・・
「新幹線がきます! 駅も綺麗にしました!」ですか。そりゃ、よろしおしたな・・・
ふつうお店が閉まる時には「閉店いたします。これまでのご愛顧ありがとうございました」という張り紙くらいお客は見せてもらえるのにね。閉店前にチャンスがあれば店のご主人から、実はこのたび閉店することになりまして、と言ってもらえたかもしれない。こちらからも、残念だけどこれからもがんばってください、って言えたかもしれない。
なにが切ないって、わたし、こういうのがいちばん切なく思えるんですね。
むかし地上げブームのころ、京都は百万遍北にあった「千里」がふっと消えたときも悲しかったです。あそこの「チキンカツ定食」の味は独特だったですから。ご主人がお客のかえるときにかける「ありがとうございましたっ」っていう挨拶のイントネーションも、面白いものでしたね・・・
経済は、資本主義は、マーケットは人間や、文化のことなんか考えないです。本来経済には「頭」はないので。
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