English, yes, but,... とイスラム国とかなんやかんや


 せっかく出てきたブログを書く気力が委えないうちにひとつ大きな話を書いておきます。

 日本で英語教育をもっと推進して日本のひとの英語能力をあげることは最重要課題で急務である、というのはその通りです。そのために国や大学や他の教育の場が努力をすべきだというのは、全くその通りだと思います。

 ただわたしはだからといって、日本の人たちを二流のアメリカ人にするべきではないし、また世界のアメリカ以外のひとたちを二流のアメリカ人にする手助けをするべきではないと思います。

 さらに言うと、「アメリカ」はここでは「資本主義の、市場の、グローバル経済の都合」ということと密接に関わりあっていると思います。

 ここでわたしが立ち戻りたいのは、マルクスより前の、フランス革命の理念です。「自由」と、「平等」と、それから後から付け加わった「兄弟意識」というやつです(「博愛」とか「友愛」とか言うより、わたしはこの訳を提案します。このことについてはまた別のところで書きたいです)。

 「またフランス語系人が革命ごっこを称揚しおって」という声が聞こえそうですが、いや、そうでもないと思います。なぜなら2015年の現時点で日本にとって最大の問題は「中国」なのであり、中国に思想的に対抗するには、「自由」を追求する精神を補完する「平等」追及の精神まで立ち戻らざるをえないから。中国から日本を理念的に護ってくれるのは、マルクスじゃなくて平等の精神のはずだと思うのです。

 平等の精神を失うということは強者に、「他のものはわたしたちに従うことが正しいことだ」と、漠然と、一般的に、信じさせるということを意味します。
 パレスチナにユダヤ人国家を作っても、アラブ人たちはその文明の威光に、自然に従って、まつろっていくだろうという漠然とした思いがイスラエル建国時に西洋にありはしなかったか?
 「アラブの春」だからとある種「浮かれた」気分で(「見ろ、最終的には西洋的価値観が勝ちをおさめるのだ」というわけなので)、シリアの「独裁者」アサドが倒れるに任せるのは結局いいことだ、という思いが西洋に一般的になっていなかったか?

 人間としての尊厳、ひととしての平等が多くのひとにとって脅かされている状態を放置したからこそ、「ISIL」みたいな怪物が生まれてしまったのではないでしょうか。

 知る人はまだあまり多くはないですが、フランスも一昨年あたりから方向転換して、「英語の世の中」に合わせて行く方針をとっています。
 でも、なんとかフランスの尊厳の確保を模索しながら、です。
 カナダのケベックだと、それはもっと切実で、徹底していると思います。

 日本は、英語の世の中に合わせると同時に自らの尊厳と世界諸民族の平等を模索するフランス、ケベックに合わせるべきであって、やみくもに英語とアメリカ合衆国Estados Unidosとある種の資本主義に盲従するべきではないのです。

 最後に、フランス語の学習って、実に英語学習に役立つもの、1066年以来の英仏の言語と、文学の歴史を勉強すれば、そのことは明白なのだ、ということを付けくわえます。

 問題は日本人が英語をできるようになることであって、フランス語教育を潰すことではないでしょう?

 というようなことを言うとまた「フランス語だけ延命をはかりおって」と言われそうなんですが、フランス語が諸言語の平等、諸民族の尊厳の擁護ということを言わなかったら、どこが言うんですか、と言いたいです。

 反論のある方は、おっしゃってください。できれば匿名でなく。
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