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バーキン片手に靖國神社

自衛隊観艦式体験記~「見よ堂々の」

2012-10-16 | 自衛隊

お詫びと訂正がございます。
昨日のログで「気がついたら観閲部隊が」といいつつ、受観閲部隊の艦の写真を掲載してしまいました。

昨日のシルエットクイズ、正解は425「ましゅう」だったわけですが、
「ましゅう」は受観閲部隊でかつ、訓練展示隊であるため、観閲部隊と同じ方向から航行してきて、
このあと前方でUターンするために、このとき猛スピードで観閲部隊を追い抜かすところだったのです。

このクイズには、艦名こそ違ったものの「洋上補給の訓練展示に参加した補給艦では?」
という答えを下さった方、「満州に似た名前」と限りなくニアピン賞のさくらさん、
そして、ある意味当てて当然の元自衛官鷲さんの「ましゅう型補給艦」というほぼ正解、
三人が三人ともそれなりに正解という素晴らしい成績で、予想通り、
このブログ読者のレベルの高さが証明されたわけですが・・・

え?エリス中尉はなぜわかったのかって?

そりゃあなた、パンフレットに参加補給艦は「ましゅう」って書いてるんですもの。
シルエットさえ確認できれば誰にでもわかるって(爆)


「ましゅう」は、この後の訓練展示で「はるゆき」「せとぎり」に、洋上で餌やり、
じゃなくて給油を見せてくれます。

本日はしかし、わが艦「ひゅうが」の連なる「観閲部隊」の写真を中心にお送りします。
冒頭の「嗚呼堂々の大艦隊」は、画面右から

403 潜水艦救難艦ちはや 176 護衛艦ちょうかい 129 護衛艦やまゆき

4203 訓練支援艦てんりゅう 177 護衛艦あたご


「ちはや」「やまゆき」は横浜新港から、「あすか」「ちょうかい」は木更津公共埠頭、
そしてこれには写っていませんが、残りの観閲部隊のうち

105 護衛艦いなづま 103 護衛艦ゆうだち

は横須賀から出航してきています。

関東圏4つの港から、それぞれ別々に出航した10隻の艦船が、いつの間にかこうやって、
隊伍を組んで今や艦列をなし、観閲海面へと向かっていたのでした。

観閲部隊の先頭には103 護衛艦ゆうだち(4,550t)が立ちます。



103 護衛艦ゆうだち

「ゆうだち」は我が「ひゅうが」の三分の一強の大きさ。
エリス中尉、艦上でO氏の防大の先輩、護衛艦の艦長から定年時は内幕勤めだった、
という元自衛官のA氏に非常に長時間(胸元が日焼けで炎症を起こすくらいの時間)
お話を伺っていたのですが、A氏のお話によると、この観艦式、
全てが秒刻み単位でプログラムされ、それを制御し、実行するということが
「艦隊の力の見せ所」でもあるわけで、全艦気の抜けるところなど一瞬もない、
と言うほどの緊張を強いられるのですが、その中で

「おそらく最も責任重大で重圧を感じる」

艦が、この「先導艦」。つまりこの「ゆうだち」であるということです。
先導艦の指揮によって観閲部隊は航行するわけですから、つまり「ゆうだち」の航海長、
あるいはタイムキーパーを務める航海士などは
「生きた心地がしない」
というくらいのプレッシャーを感じているはず、なのだとか。



甲板にいる人の数を見れば、「ひゅうが」がいかに大きな艦であるかが分かりますね。
きっと結構揺れたのではないでしょうか。
ところでなぜ「ひゅうが」の二つ先を航行していたフネが、このとき艦首を左にして見えているかというと、
これは艦船観閲が終わった後、相模湾沖でUターンし、「ひゅうが」とすれ違った瞬間だからです。






144 護衛艦くらま (5.200t)


これもA氏のお話によると、旗艦、とくに観艦式本番の旗艦はやはり一国の総理が乗るわけですから、
一般人にはあまりにも行動制限が多く、ストレスフルな乗艦となるでしょうとのこと。
と言うことは、この日(10月8日)「くらま」に乗った方々は確実に本番の参加者よりラッキーだったと。

詳しい方、教えていただきたいのですが、本番に観閲官たる内閣総理大臣が洋上で乗艦するとき、
ヘリはこの「くらま」の二階か下甲板どちらに着艦するのでしょうか?
そして、航行中の、風もあるであろう洋上で、首相を乗せるヘリ、さぞかし緊張することでしょうが、
こういうのも「技倆ナンバーワン」みたいなパイロットが特に指名されて選ばれるんでしょうか。

読者のある方の報告によると、観艦式本番の様子は自衛隊のHPで生中継されていたそうです。
後日ビデオでも公開されると思うので、見てみることにしましょう。

余談ですが、この方の報告によるとこの日野田総理は、その訓示で

「領土や主権を巡る様々な出来事が起きている。
新たな時代を迎え自衛隊の任命は重要性を増している。
諸君が一層奮励努力することを切に望む」

そして、海軍五省を読み上げたそうです。
選挙が近いからって日頃の行いに倣わず保守に媚びるのもどうかなと言う気はしますが、
さっそく新聞が
「旧軍を意識した首相の訓示は論議を呼びそうだ」
と、さも中立ぶって実は「その筋の方々」を煽っているので笑いました。

・・・・もうさ、マスゴミ、この世から滅びていいから。




ところで、観艦式に先立ち、関東の各港では集結してきた護衛艦の一般公開が行われていました。
指定の時間にそこに行けば簡単に中を見学できたわけですが、
この「くらま」だけは、公開は勿論、どこに停泊しているかも明らかにされていませんでした。

皆さんは勿論この意味がおわかりですね?
観艦式当日、首相の乗る艦に、前もって見学者を装い忍び込んで爆発物を取り付け、

「40ノット以下に速度を落とすと爆発する」

なんて脅迫をするテロリストがいないとも限らないからです。(たぶん)

さて、「ゆうだち」「くらま」「ひゅうが」に続く観閲部隊の四番艦は・・・



176 護衛艦ちょうかい(7,250t)

この「ちょうかい」というと、やはり旧軍時代の重巡洋艦「鳥海」を想起します。

「重巡洋艦鳥海の見た零戦」
というタイトルで、零戦乗り坂井三郎がガダルカナルから傷ついて帰ってくる途中、
傷ついた目に認めた重巡がこの「鳥海」ではなかったか、と書いたことがあります。

坂井自身は戦後「このときの重巡は青葉だった」とはっきり書いているのですが、
一方で作家の丹羽文雄がその著書「海戦」において「ふらふら低空で滑空する飛行機」
(零戦とは書かれていない)を見たという話を書いており、
これが坂井機の可能性もある、
という、単なる「推測話」をしてみたわけです。

しかしながら小説「海戦」で表現されている当時の周りの状況と、
坂井がラバウル帰投直後に撮られた写真の時間的整合が取れないないため、
このことは、もはや検証することの出来ない「歴史のちょっとした謎」で終わりそうです。
(この項を読んだ皆さん、くれぐれもこれは『推測』ですので本気にしないようにね)

「鳥海」はレイテ沖海戦で被弾、駆逐艦「藤波」の魚雷で処分されますが、その後、
「藤波」は敵空襲により撃沈、藤波乗員共に総員一人の生存者もなく戦死しました。

閑話休題、
その名を次ぐ艦としては四代目になるのが、この「こんごう型四番艦」の「ちょうかい」です。




177 護衛艦 あたご

それにしても、gooブログの「フォトブログ」申し込みをしていて
今回ほど良かったと思ったことはありません。
護衛艦の写真、縮小してしまうと、実につまらなくなってしまうので、
出来るだけ最大のサイズでお見せしておりますが、
こういうことができるのもどうやら「フォトチャンネル」に登録しているかららしい、
と今日になって実感しているわけです。

この「あたご」は、観閲部隊の五番艦、しんがりを務める艦で、
実は「ちょうかい」より少しだけ大型です。
しかし、たかだか250トンの違いは、並んで航行していてもわかりません。

前述の坂井三郎が「(見たのは)青葉だった」と言った件ですが、
「青葉」(9千t)と「鳥海」(1万2千t)は同じ重巡でも大きさはかなり違うので、
見間違う可能性はないのではないか、とも思うわけですが、
洋上で比較するものがない場合、正確な大きさを把握するのはまた至難の業だと思いました。

我われは何度も言うように「観閲する側」ですから、受観閲艦はもれなく見ることが出来ましたし、
同じ観閲部隊の艦も周りの海を後になり先になりして(必ずしも艦隊の隊形は固定ではない)
その姿を見る機会がありましたが、意外とちゃんと観ることが出来なかったのが、
「観閲付属部隊」の五艦の後方のフネです。
付属部隊は、艦隊の外側を航行しており、受観閲部隊がその真ん中を航行するので、
こちら側からは盲点になってしまっていたのです。
それでも何とか全艦影を確認することが出来ました。



105 護衛艦いなづま(4,550t)

夏前に呉で見学した106「さみだれ」とは同型艦で、そのときも隣に仲良く停泊していました。
また会えたね!

6102 試験艦あすか(4,250t)

この「試験艦」というのは何かと言いますと、各艦に搭載する装備を、
「取りあえず積んで試験してみる艦」ということのようです。
搭載武器は勿論、誘導装置、ソナー、塗料に至るまで、何でもかんでも、
この「あすか」で運用前のお試しがされます。
さらに、有事にはいきなり駆逐艦に変身することもできるのです。

「身体張ってる」漢(艦ではなく)です。

少し画面をスクロールして「ちょうかい」の艦影と見比べてみて下さい。
艦首の形が、この「あすか」はぐっと前方に突きだしているでしょう?
これは、艦底にバウソナーOQQ-21試作型を付けているため、
投錨したときに錨がソナーに当たらないような配慮なのです。

そして興味深いのがこの「あすか」という艦名。
勿論奈良県の明日香村に史跡のある大和朝廷「飛鳥」から取られています。
これは、試験艦の命名が
名所・旧跡の文明・ 文化に関する地名」という基準から来ているのだとか。



403 潜水艦救難艦ちはや(5,450t)

潜水艦の事故の際出動する深海救難艇を搭載しています。
この救難艇もまた潜水艦です。

潜水艦事故は、旧軍時代「未帰還の潜水艦のうち半数は戦没では無く事故だった」
と言われるほど多く、またひとたびこと起これば生存の可能性の低いものでしたが、
科学の進歩と共に深海救難のノウハウが出来てきて、現代においては
このようなフネもまた運用されることになったということです。

あの「えひめ丸」事件の時は、愛媛県の要請で事故海面で遺体の収容に当たりました。

 

129 護衛艦やまゆき (3.050t)

もうこのあたりになってくると、艦隊の写真からトリミングしたものしかありません。



かろうじて、受観閲部隊がこの「やまゆき」と我々「ひゅうが」の間を航行しているとき、
「いせ」の向こうにその姿を認めることが出来ました。
そして、観閲付属部隊後尾のこのフネに至っては



4203 訓練支援艦 てんりゅう (2,450t) 
(左側)

全写真を目を皿のようにして見ても、これしか見つかりませんでした。

この訓練支援艦、というのは、世界的にも珍しい存在で、自衛隊独特のもののようです。
つまり、護衛艦が対空ミサイルなどの訓練をするときに、その標的を打ち上げる係。
なんと、それ専用艦艇です。

これも元掃海艇艦長A氏のお話によると、その「デコイ・ミサイル」、勿論それを狙って訓練艦は
ミサイル発射するわけですが、当たったら当たったで後片付けが面倒?なのと、やはりエコなのか、
「当てたことにして当てない」のが、「皆様の自衛隊」の基本方針なのだそうです。

しかし、狙わせておいて当てるな、とはご無体な注文ではあります。
実際にも「当たっちゃう」ことが多いそうですが、
わりとマジで狙いに来て、見事命中させ、内心

「やったったった!」と快哉を叫んでいても、口では

「うっわー当てるなって言われてたけどうっかり当たっちゃったwやべーやべー」

などと言っているのではないか、と邪推する心の汚れたエリス中尉。
反論受け付け・・・・・ません。



まっすぐ並んで進む「ちょうかい」「あたご」、そして・・・・・・・・

・・・・・・・あれ?

「あきづき」?

うーむ、いつの間に、受観閲部隊の旗艦「あきづき」が後ろに来ていたのだ。
フネの航行速度は遅いようで速く、見えていたと思ったらすぐに見えなくなり、
それは今後展開される観閲や訓練展示の予定に添って、
各艦が緻密に動いていると言うことでもあるのですが、
このようにあとからチェックしてみると「あれ?なんでこんなところにこの艦が」
ということがいくつかありました。

「あきづき」は、もしかしたら観閲部隊の後ろにくっついたまま観閲されたのかしら。



というわけで、受観閲部隊の観閲記は、次回。
いつものことながら、いつになったら終わるのか、うっすら不安になりつつ、明日に

続く!


自衛隊観艦式体験記~「ひゅうが」発進す

2012-10-15 | 自衛隊

今このページを製作している10月14日日曜日、
この日は本番の自衛隊観艦式が行われている日です。
窓から外を見やれば、どんよりとした曇り空に、
おそらく洋上では「暴風」にもなると思われる冷たそうな風。

うふふふ。

ヒトが悪いと言われるかもしれませんが、8日に参加しておいてよかったわ。
さくらさんも、そう思ったでしょ?

比較も何も観艦式などというものに参加したのが生まれて初めてなので、
エリス中尉、実は本番と予行演習の違いは全く想像もつかないのですが、
いだたいた資料その他を検討したところ、最も大きな違いは

「祝賀航行部隊」(海外から参加する艦船)の有無
US-2が海面に着水するかどうか

くらいではないかしら。
・・・まあ、どちらも見られなくて、(カナリ)残念では残念でしたが。

しかし、お天気も良く、しかも観閲艦の真後ろを航行する「ひゅうが」で
警備の大変な足手まといの総理大臣もいない(←悪意)8日に
これを経験できたというのは、なんてラッキーだったのでしょう。

天気が良く、あまりに日差しが強くて、胸元が日焼け(炎症レベル1)してしまい、
あわててクリニックに駆け込んだのは個人的には「困ったこと」でしたが。

でも、本日、赤☆様(個人的趣味で、様付け)は、VIPエスコート役で参加なさっているの。
午後からは雨だったし、お風邪を召さないように気をつけていただきたいものです。
勿論、赤☆様以外の参加者の方もね。

ところでこのブログ的に、「ひゅうが」はいつ発進するんだ?
と思われた方、今日こそ出航するつもりです。

・・・・・・ん


もう一息我慢していただいて、観艦式の航行がどのように行われるかを説明します。




これを見て初めて知ったのですが、観閲官、つまり総理大臣は最初から乗っているのではないんですね。
三浦半島沖に出たとき、おそらくヘリで?観閲艦、今回は「くらま」に乗船するわけです。
退艦も勿論ヘリでしょう、
しかし、くらまはそんなに大きくないのにどうやってヘリ発着させるんだろう?

これは、忙しい(と世間的にはされている)総理大臣を、
出港前から帰港までフネに縛り付けるわけにはいかない、ってことなんでしょうか。
われわれの「ひゅうが」は観閲艦と同じ黄色コースを進みます。
一足先に出港した「くにさき」など「受観閲艇部隊は、相模湾を観閲部隊に向かってやってきて、観閲海面ですれ違います。
この図では紫のラインの受観閲部隊は全く逆方向から進んでくるように見えますが、実際は、この画面の左手で合流し、
たとえば「くにさき」はUターンして、観閲されるラインを進んでくるわけですね。

それにしても、このタイムテーブルの細かいことに注意下さい。

観閲12:00~12:26
訓練展示12:41~13:38

って、分単位で決まってるんですから。
これもまた海自の旧軍以来伝統の「艦隊力」の証明なのでしょう。



甲板から望むMMみなとみらい地区。
横浜には、自衛艦旗がよく似合う。



これは右舷側に向けて撮っていますが、このころには全員が乗艦済み。
左舷側に(訓練展示は左舷側で行われる)もうすでに場所がないので、
ロープのぎりぎりに毛布を敷いている人たち。
「くにさき」を見送ってさらにしばらく経った頃、ついにアナウンスがありました。

「出航します」



おりしもそのとき、前甲板中央に軍楽隊集結。

軍艦か? 軍艦マーチ来るか?

・・・って、・・・・・・あれ?・・・・・もしもし?

なぜ軍楽隊の制服が緑色をしているんですか?

そう、「ひゅうが」乗り組みは、陸上自衛隊の東部方面音楽隊だったのです。
残念だ、なんていうと陸自さんに大変失礼なのですが、
観艦式には実質数十の艦船が参加するわけで、アメリカのように
艦船付きの軍楽隊がいるわけでもない我が自衛隊の楽隊は、
こうやって一時に多くの楽隊が稼働しなくてはいけないときには、
陸軍と空軍の加勢を頼まなくてはいけないというわけです。

指揮者のタクト一閃、軍艦行進曲開始。



この軍艦行進曲と楽隊についてはまた日を改めて書きたいことがあります。
勿論行進曲軍艦を出港と共に聴いた感激は何物にも代えがたく、
「ああ、遂に」
という思いとこれから待ち受ける航海への期待に思わず胸は高鳴りましたが、

やっぱり海自の音楽隊で聴きたかったなあ・・・・軍艦行進曲。

楽隊はこの後いくつかのマーチを演奏しました。
折しも楽隊が演奏を始めるころ、「くじらのせなか」のドック向こうには、



なんと、あすかIIが入ってきたではありませんか。
豪華客船あすかII、この区切り一つ一つが居住区のコンパートメント。
たくさんの乗客がこのベランダに出て「ひゅうが」を見ていました。




すかさずここでランドマークタワーの写真と並べてみる。
覚えておられるでしょうか。
エリス中尉がその昔、陸士卒の建築家N氏と懇談し、

○ランドマークタワーはN氏が作った
○あすかIIもN氏の設計で、震災のときN氏はあすかIIに乗っていた

という話を聞き、それをアップしたのを。
(『ある陸軍軍人の戦後』参照)

Nさんの作品が今そろい踏み。
因みに、
「ぼくんとこで海自のヘリ搭載型護衛艦を作っているから」
とおっしゃったのはまさにこの方です。



そのときの艦橋デッキ。
出航のときは総員一瞬たりとも気を抜けません。(たぶん)

それにしても、軍艦行進曲と同時に動きだした「ひゅうが」ですが、
これほどの巨艦ともなると、まったく波に揺られている感じがありません。
それは沖に出て強風にあおられても、ほどんど変わりなく、
「左に舵を切りますので揺れます」
と予告アナウンスがあり、その後かなりゆったりと「ぐらっ」とするのですが、
それでよろめいたりグラスが倒れるような急激な揺れが来るということはほとんどありませんでした。

ですから、内海にいる間は、周りの光景が動かなければ航行していることすら気づかないレベル。
これほどの安定性であるからこそ、ヘリポートとして運用することが出来るのですね。

まさに「いつ動いたか分からないまま」、艦は横浜ベイブリッジに近づきました。

 


この巨大艦の全高はは、ベイブリッジの橋桁より7メートル低いものです。
7メートルというのは非常な余裕に思われますが、甲板から見上げた艦橋はいかにも巨大で、
この下を通過するのか思わず心配になります。

 

アナウンスは「7メートルありますから十分余裕を持って通過することが出来ます」
といっていましたが、皆真剣に上を見てしまいます。
ベイブリッジを下から見るのもほとんどの人にとっては初めての経験。
まさに今から通過する寸前はぎりぎりに見えるのに、
通過の瞬間をこうして写真を撮ってみるとやはり余裕があります。
不思議・・・・・。

 難なく通過しました。

このベイブリッジ通過は、巨大艦である「ひゅうが」にとって一つのイベントのようになっています。
この後、相模湾沖に出るまでは、皆艦内をうろうろしたり、お弁当を食べたり、
あるいは時折行われる艦内のデモを見学したり、自衛官を捕まえて質問攻めにしたり(笑)して
時間を過ごします。

こうしている間にも艦隊は各港から集結してきて、「嗚呼堂々の我が艦隊」と相成るわけです。

自衛官に質問する人たちははあちらこちらに。



あそこにも。



ここにも。
こういう「質問攻め」するひとたちは圧倒的におじさんです。
ある程度のことを知って興味もあり勉強している、或いはマニアレベルも圧倒的にこの年齢層なのでしょう。



甲板にはどちらかというと、この写真のようにお歳を召した、
「海軍の釜のメシ喰って数十年」みたいなおじさん自衛官がうろうろしていて、
むしろこういう年齢の自衛官が、これまでの知識と経験を生かして一般人からの質問に答え、
広報を大きな活動の骨子とする自衛隊への理解を深めてもらうべく、
積極的にここに配置されている(つまり接待係として)といった印象を受けました。

常識的に考えて、自衛官が数百人が勤務している艦ですから、ここで一番多いのはジョンベラ、
つまり水兵さんたちのはず。
しかしながら、水兵さんは廊下の要所要所に案内としてずっと立たされていたりするくらいで、
不思議なくらいこの日、艦内でこのセーラー服を一定数以上見ることはありませんでした。

決して目に触れないところで、若い人は汗を流しているってことでもあるのでしょうが。

それとも、若いやんちゃ盛りのボーイズを甲板に放ったりしたら、たとえ本人にその気は無くても、
女の子に「サインして下さい!」「これわたしのメルアドなんですけど~」などと、
アプローチされてしまうとついついあらがえず、結果として問題を起こしてしまうからでしょうか。

・・・・と、つい勘ぐりたくなるくらい、甲板の上は「そんなことだけは決して起こりそうにない」
ものの分かりすぎるくらい分かった、つまり安全そうな自衛官ばかりが配されていたような気がします。
たまに若い士官がいたと思ったら、指輪をしていたり。

え?
なぜ、自衛官の薬指までチェックしてるんだエリス中尉、って?

それはもう、わたくし、このブログでいろんなことを語るためには、
あらゆる方の気持ちになって、あらゆる角度からこの自衛隊というものを観察し、
考察することを任務とまで考えて今回の観艦式に臨んでいるわけですよ。

そこから、自衛隊がどのような考えでこのような対策や配置を決めたのか、
どういった懸念がされたのか、こういったことを想像するのか、たまらなく楽しいのでございます。


そうこうするうちに、左舷にはふと気づけばこのような光景が!



いよいよ観閲部隊が行き足を揃えて集結してきたのです。
近くの士官に乏しい知識で「これ、○○○○ですか?」と質問すると、なぜかかれは
「海上自衛官必携!すぐわかるポケット艦影辞典」みたいなのをポケットから出して、

「え~あれは・・・・」

とずいぶん長時間かけて調べ、

「そうです。詳しいですね」

うーん、意外と自衛官って他の艦のこと知らないのね。
ちょっと安心したようながっかりしたような。
隊員同士で、どこかの戦争映画で見た「艦影シルエット当てクイズ」なんてやったりしないのかな。

と言うわけで、次回は海面に集まってきた艦隊の写真をアップしていきます。
どうぞ引き続きご覧下さい

ところで皆様、このシルエットで艦名が分かる方おられますか?








 


自衛隊観艦式体験記~そして「くにさき」は征く

2012-10-14 | 自衛隊

われわれが自衛艦「ひゅうが」に乗り込んで、しばらくしたころ、
ドックで隣に停泊していた「くにさき」が一足さきに出航していきました。

この観艦式というもの、観る方も観られる方も、洋上に出て行いますが、
伝統的に海軍時代から日本では、海上で観閲部隊と受観閲部隊がすれ違う方式を取っています。

1347年、英仏戦争が行われたとき、国王エドワード三世が出撃前の艦隊を観閲したのが、
観艦式の起こりです。

以後、各国の海軍が観閲式を慣行として行うようになったのですが、現在においても、
多くの海軍は受艦部隊(観られる方)が洋上に投錨し、観閲艦がその前を航行する方法、

「停泊方式」

が主流となっているのですが、我が海軍じゃなくて海上自衛隊は、このすれ違う方法、

「移動方式」

を取っています。
これは艦隊単位で考えても非常に難易度の高い方法で、
さらに海自では、それのみならず訓練展示をも行うわけですから、
このあたりにも旧軍から受け継がれた伝統の実力が現れているのだそうです。

 

スタンバイ中の信号手を発見したので、ズームで撮影してみました。
当たり前のことですが、手旗信号って、現在も使われているんですね。
全てのことが電化されて通信も容易になった今でも、手旗の方が便利なこともあるのでしょうか。



われわれが「ひゅうが」にこれから乗り込まんとするとき、お隣の「くにさき」は、
まさに人員全て乗艦を終え、出航準備の最後の段階に入っていました。
一時間「ひゅうが」より早く洋上に出るもののようです。
「ひゅうが」乗艦は8時がリミットで、受付が7時に始まったとすれば、「くにさき」組は、
おそらく朝もまだ暗いうちから大桟橋に来なくてはいけなかったのではないでしょうか。




出航準備のため、ブイに掛けてあったロープを巻き上げている・・・のかな?
この赤いベストの人が、その作業を一人でやっているようにも見えます。
当ブログ軍事顧問(勝手に任命)の鷲さん、ご存じですか?



この人たちはおそらく地上居残り組?
お見送りの体勢になって並んでいます。
水兵服が並んでいると「か~も~め~の水兵さん」
という歌をつい思い出してしまうのはわたしだけでしょうか。
カモメと違って冬服ですが。



「くにさき」と「ひゅうが」の間からベイブリッジを臨む。

ところで、「くにさき」ですが、一時間も早く出航するのは、これが「観られる側」、つまり
「受閲艦隊の一員だからです。
「観る側」が観閲部隊5隻、付属部隊5隻の計10隻。
「観られる側」は・・・・
数えるのが面倒なので、この表をご覧下さい。



モニターによっては横に並ばないかもしれません。
縦になってしまい見にくかったらスミマセン。

受閲艦艇部隊の旗艦となっている「あきづき」は、先日、元海幕長の講演を聴いた日、
デビューした新鋭艦です。
実は赤☆氏は、この式典に出席して、そのあと講演をなさったというわけ。
(ちなみに、この式典にもさりげなく『参加したいなあ』と言ってみましたが、そのときは
元海幕長の御威光を借ることのできる以前でしたし、そもそもこういう式典に出るには
『関係者』が原則なのだそうで、さすがに不可能でした)

各艦は、横浜、横須賀、木更津の三カ所の各港から出港し、実地海面で集結します。
航行が進むにつれ、周りに一隻、また一隻と艦船が増えていく様子は、
あなたがたとえ艦船や海自のファンでなくとも、その壮観さに血湧き肉躍ること請け合いです。
(自衛隊広報部になり替わりまして宣伝してみました)



皆取りあえず毛布を敷いて「場所を確保」するのですが、実際は、
広い艦内をくまなく探検したり、自衛官を捕まえて話を聞いたり、
訓練部隊の展示を見たり、音楽を聴いたりしていると、
一所でじっとしていることなどまず無いと考えて良いかと思います。
出航してまだ内海を航行しているときには皆座ってお弁当を食べますが、
それが終われば毛布はほとんど用済みになります。
しかも、沖に出ると「いかに強風」(知ってます?この軍歌)状態で、
甲板にじっとしていることが非常に困難になってくるので、
目の色変えて場所取りをする必要は全くありません。

そうこうしていると、いよいよアナウンスが
「くにさきが出航します」と告げました。



軍艦旗が、美しい。
艦尾に並ぶ海の男たちのシルエット。
さんざんブログでお話ししてきたので、何百回も見たような気になっていましたが、
実は生まれて初めてだということに気づきました。

そして、こういった美しい礼式を目の当たりにして、
自分がなぜ海軍というものに心惹かれてきたのか再確認したような気がします。



「くにさき」はドックの停泊位置から、バックで出て行きます。



「くにさき」は8.900tの輸送艦です。
映画「聯合艦隊司令長官 山本五十六」の撮影に使われたそうです。
山本司令が井上成美と歩くシーンかな?(←適当)
オフィシャルサイトのスタッフ日誌によると、撮影が終了したとき、「くにさき」乗員が
スタッフを「帽振れ」をして見送り、思わぬことに皆感動。役所広司は「感涙した」とのこと。
そうでしょうなあ・・・。



船首側の乗員。
よく見ると水兵さんもいるぞ。
甲板向こう側では士官が何かを点検していますね、
こういう答舷礼のとき、自衛官はどのような気持ちなのでしょう。
慣れてしまって日常的な行為というか、ルーチンなのでしょうか。
それとも、やはり「海の男として誇らしい」気持ちが湧き起こるのでしょうか。





かわいらしいタグボートが、押して方向を調整します。
この前日、乗馬に行って馬の可愛らしさに魅せられたのですが、
フネも・・・・・可愛いですよね。
こういう小さいフネが大きな艦船を押している様子、なぜだか分かりませんが、
思わず胸がじ~んとしてしまいます。
軍艦を擬人化して「萌え」たりする人々の気持ちがこういうときはよくわかります。
理解して下さる方、いますよね?





タグボートの船首を見て下さい!
ちゃんと「ここを押しましょう」みたいな白い部分を押していますね。



出て行くフネの人は皆(自衛官以外は)皆手を振ります。
こちらも皆手を振って見送ります。
そこで、ふとエリス中尉、思いました。

帽振れは?帽振れは行わないのか?

礼式で舷に立っているときは旧軍でもしなかったのかもしれませんが、
「日本海海戦」の映画「海ゆかば」では、出稿のとき全員が帽振れしていたんだけどなあ。

あの美しい海軍の慣習は必ずどこかで受け継がれているはず、
・・・・・・なんですが、今回それを確認できなかったのは残念です。



右から二人目の自衛官、こちらを見てないで手を下ろしなさい。(教育的指導)

あれ?「くにさき」は甲板にジープを、しかも見える限りでは二台も乗せているぞ?
誰か陸自の偉い人でも運んできたのかしら。
実は、我が「ひゅうが」の船首側右舷には

ごらんのようにクレーンが積まれていたんですよ。
何に使うために乗せられていたのか、聞けばよかったなあ。



そして「くにさき」は征く。
ああ、かっこいいなあ・・・・・・。
受観閲艦である「くにさき」、観閲実地海面ですぐまた逢おう!

タグボートは右舷左舷、各一隻ずついたのがこのとき初めて分かりました。


というわけで(まだ出港もしていないけど)次回に続く!







おまけ*
鷲さんの指摘により無罪と分かった右から二番目の自衛官のアップ。


自衛隊観艦式「ひゅうが」乗艦

2012-10-13 | 自衛隊

自衛隊観艦式。

三年に一度のこのイベント、
このブログを始めていなかった三年前は、はっきり言ってあることすら知らなかった、
こんな人間が、今年の観艦式には是非行ってみたい!といきなり思いました。
しかし、行きたい行きたいと口ではいいながら、何もしない妻のために、
我が夫TOは、まずアメックスのデスクに電話をしました。

「はがきを出して下さい」

これが返事でした。
締め切りの日も教えていただいていたのに、ちょうどその頃、
元海幕長とお知り合いになったので、
「もしかしたら、これで何とかなるかも」
と軽く考えて、さらに何もしないまま一般申し込み期日は過ぎてしまいました。

ところが本人がのほほんと構えて何もしない間にも、
TO→わたしに仕事を依頼してくれた方Hさん→防大卒会社社長O氏→赤☆氏、イ○ミ氏
という流れでチケット獲得のため皆が動いて下さって、ふと気づけばいつの間にか、

観艦式観覧が実現していました!

わーいわーい。
でも、とれたのは本番の今日13日ではありません。予行演習の8日です。
つまり、まさに本日、観艦式本番が行われているのですが、エリス中尉はもうすでに経験済み。

その理由は、そのことを言い出したのがぎりぎりだったことと、
さらに一緒に行くHさんのご都合が8日しか取れなかったためです。
でもいいの。
本番で、最高指揮官の内閣総理大臣がいると、旗艦でなくても
皆ぴりぴりして、とくに警備とかが大変らしいから。

それに安倍さんになってからならともかく、今回の観閲官は野田総理。
民主党代表と同じフネに乗るのなんか、まっぴらだわ。
もっとも、野田氏の父親は自衛官らしいから、「観閲式にでたくないから出なかった」鳩山、
「自分が観閲官であることを知らなかった」菅の二人よりはマシと言えますが。


この日は秋晴れの気持ちのよい気候に恵まれ、
まさに観艦式日和。
することは本番と全く一緒なのだから、むしろ当日より良かったかもしれません。


それでは、このブログに来られる方に、
余すところなくこの観艦式の模様をお伝えしようと、切歯扼腕して?ブログをアップしていきます。
写真もできるだけたくさん掲載しますので、一日では終わらないと思います。



今回のチケットですが、O氏が、赤☆さんに5枚、イ○ミさんに5枚頼んで下さっていました。
どっちかが駄目になった場合に備えて保険を掛けたそうですが、なんとどちらも取得に成功。
10枚もの入場券をゲットしてしまったため、我々の「チームO」は総勢10名になりました。

チームはO氏夫人は勿論、夫妻の最近知り合ったライオンズクラブの知り合いやら、
H氏の秘書やら、知り合いの新聞社社長やその孫や、ちょっとしたご一行様になりました。
皆で関内駅に朝7時に集合し、大桟橋に向かいます。



護衛艦が二隻いるのが見えてきました。
わたしたちは前夜「予習」しておいたんですけどね。(自慢)
この桟橋には「くじらのせなか」という愛称が付いています。



このゲートでは特に何もチェックしません。
左の自衛官は
「チケットがないと入れません」というだけの係。



まず見えてきたのは「くにさき」。
観閲部隊の編成には二種類あり、観閲艦(総理大臣が乗る)を取り囲む観閲部隊、
そして観閲付属部隊(お供って感じですか)があります。



つなげるのに失敗しましたorz
真ん中の切れてしまった艦名は上が「ちょうかい」下が「やまゆき」。
これを見ていただくと分かりやすいかな。

我々の乗るヘリ搭載型自衛艦「ひゅうが」は、観閲部隊のなかでも最も重要な?「随伴艦」です。
随伴艦は、先導艦(ゆうだち)に続く観閲艦の「くらま」の真後ろに陣取って進みます。
つまり、我々の乗った「ひゅうが」はある意味一番の「特等席」なわけ。
訓練展示も、旗艦の横ですから、ばっちりよく見えるという、ラッキーな配置です。

対してこの「くにさき」は、受閲艦艇部隊ですから、「観閲される側」のフネ。
第6群の先頭に立ちます。



「くにさき」の甲板では出航準備中。



しかし、働く海の男というのは遠目にもかっこいいですなあ・・・。



「くにさき」は「ひゅうが」より一足先に出航するので、もう乗艦は終わっています。
テントの下の自衛官たちは、集めた「乗艦証明」などを整理しているのでしょう。



艦の中に入れば、いかに広くてもそこはフネ。トイレに行くのは大変です。
というわけで、あなた、忘れてませんか?とばかりに受付付近にあるトイレ。
どうでもいいが、なぜ錨のマークが付いている・・・・。



ここで手荷物検査を受けます。
鞄の中もみなチェックするんですよ。
たとえ一人や二人が飛び道具を振り回しても、
瞬時に屈強の男たちに押さえつけられるのは目に見えてますが、
人質を取られてしまったり、爆弾を仕掛けられると困るしねえ。

そこで皆さん、赤字にご注目。

「旗、垂れ幕、ビラその他の配布物の持ち込みを禁止」

実はエリス中尉、今回護衛艦に乗ってみて、あまりにもたくさんの人々が
自衛隊のこうした催しに喜々として参加しているのに正直驚きました。
しかも、こんなにたくさん乗っているのに、「観艦式のフネのチケットはなかなか手に入らない」
なんて言われているんですよ?
よっぽどたくさんの人たちが「観艦式を見たい!」って熱く思っているってことですよね?

そして少なくとも「オスプレイ反対」ってやっている人は、こういうものに乗ろうとは思わないよね?

わたしなどはおめでたくもそのように思ってしまうわけですが、
「自衛艦に乗りたがるのは自衛隊が好きだから」というのはいわば「性善説」による判断。
中には乗り込んでおいて「自衛隊解体」を叫ぶビラを撒こうとする輩もいるかもしれません。
で、あえて「旗垂れ幕ビラ配布物」お断り、と。

しかし、そんな勇気のある左翼、いるかしら?
自衛官より先に、周りの「自衛隊ファン」にタコ殴りされそうじゃないですか。



ここで、金属ゲートを通ります。
ぴーぴー鳴ったら改めてチェックする大きな虫眼鏡みたいな機械も、
まったく空港と同じものが使用されていました。

この後、住所氏名を書いたチケットの半券を、身分証明書と共に見せます。
ちゃんと名前を確認していました。あたりまえか。
息子には保険証を持たせましたが、見てくれなかったそうです。

 

この入り口(夜の大桟橋の項で閉まるところの連続写真を撮った、あれです)
から乗り込みます。



見上げるとこんな風に艦橋が聳え立っています。
威風堂々、と言う言葉がつい浮かびました。
秋山真之なら「ガイじゃのう~!」と言うところです。



お迎えの自衛官が手をさしのべてくれています。
足下がお悪いので、ここでよろめく人がいるのでしょう。
手を出したら、しっかり握ってそのままエスコートしてくれそうな雰囲気です。



これが入ったところ。
本来ヘリなどが駐機されるスペースではないかと思われます。
震災後、「ひゅうが」は災害の際の訓練が行われたそうですが、
このスペースにかなりの人員を収容できるでしょう。
勿論その際にはヘリポートとして使用されるのでしょうが。

画面右手に見えているのが「海軍毛布」。
希望すれば何枚でももらえるので、甲板でシートにしてみなそこに座ります。



大抵の人間はこんなところに来るのは初めてなので、珍しげにきょろきょろ。
椅子がたくさん並べてあるので、ここに座って過ごすのかしら?と座り込んでいる人がいますね。
ここは訓練展示が終わった後、長時間甲板にいると日差しが強く風もあるので、休憩するために
設けられているスペースなのです。
航行の後半には、ここでショー?や演奏会が行われました。
そうでないときも、常に海上自衛隊紹介のための映画が上映されています。



そして、次に皆気づくのが、この椅子の置かれたのと反対にある巨大なエレベーター。
今、それが降りてきています。
本来これでヘリを甲板に上げます。
人であれば驚くほどたくさん一度に甲板に上げることが出来ます。
エレベータは航行中ずっと15分に一回稼働していました。

なんでもこのエレベーター、「ひゅうが」ができてすぐの一般公開の際、
当初予定になかった見学者を乗せてのデモを行い好評だったようです。



制服を見るとこうやってやたら話しかける人多数。
制服の方も、「今日はそれが仕事」ですから、積極的に話に応じます。
それでは、この艦載機用のエレベーターに乗ってみましょう。



このまま甲板までせり上がっていきます。

ちょうど上が艦橋。

と言うわけで、ついに「ひゅうが」の甲板に到着。



え?どこが甲板なの?
ビルが見えてるし、全然甲板と思えない、って?
この護衛艦「ひゅうが」は、我が海上自衛隊の保持する最も大型艦。
13.950tで、ひゅうが型自衛艦の一番艦。
旧軍の伊勢型戦艦二番艦であった「日向」に次ぐ二代目で、
自衛隊のものとしては初代になります。

あまりに広い甲板なので、フネの上にいるようなカットが撮れません。


ちなみにこれが艦尾に向けて撮った写真。
♪仰ぐほま~れ~の~ぐ~んか~んき~♪
しかし自衛隊旗がなければ、これもどこの写真だか全く分かりませんね。
だがこれを見よ。

どうだ!

まごうことなくこれは海自の誇る巨大護衛艦の堂々たる姿。
さて、これからどんな旅がエリス中尉を待ち受けているのか。

(まだ出航もしていないけど)次回に続く!

 

 


セーラー服あれこれ

2012-10-09 | 海軍

残暑はどうにか去りましたが、なかなか余韻が消えない
「海軍リス戦隊」シリーズでございます。

え~と・・・・・これ、さりげなく何度も断っていますが、全てエリス中尉の作品じゃないの・・・
誰も突っ込んでくれないので、説明のしようがなくて・・・・。
ご意見、ご感想など、何か文句がありましたら伝言承りますので、
どうかよろしくお願いします。

さて。

突然ですが、エリス中尉の出身中学は制服がセーラー服でした。
冬は紺サージに夏は白の、今の感覚で言うとおしゃれとは言いがたいものですが、
着ているときはそれなりに気に入っていたものでございます。

割と最近、出身高校からの校内誌が届けられ、それによると、制服が改訂されたとのこと。
女子は今風の、タータンのスカートにエンブレム付きのもの、そして、男子は詰め襟を廃止して
紺ジャケグレーズボンといったものに変わっていました。
なんでもその昔家庭科の先生がデザインした、という代物で、カッコワルさは筆舌に尽くしがたく、
何度も中学のセーラー服を懐かしんだエリス中尉としては慶賀に堪えないところです。

いっとき、スカートを引きずるセーラー服が不良のトレードマークになり、
その頃、私学ではセーラー服を廃止してブレザーを採用することが流行したのだそうです。
私学は「制服の可愛さで応募する」というスイーツ受験者を狙って、有名デザイナーに
制服のデザインを依頼したりしました。

公立とはいえ、我が母校のセーラー服はいまだ健在なりや、と考えたエリス中尉、
ある日グーグルマップで学校に行ってみたところ、生徒を発見。
なんと、いまだに全く変わりなく、昔のままの制服ではありませんか。
安心したような、ちょっとがっかりしたような。

そして、男子生徒はこれも変わらず黒の詰め襟金ボタンの学生服。
しかし当時は何も考えませんでしたが、こうなってつらつら考えてみると、
この「詰め襟セーラー服」は、いずれも帝国海軍の軍服にルーツがあったんですね~。

女子は言わずと知れた水兵さん。
そして、男子は予科練の七つボタンそのままです。

ボタンのない、前テープの将校タイプの制服は、学習院ので有名ですね。
海軍将校の中には、学習院の制服をそのまま着ていた人もいたとか。
中学時代からサイズが全く変わっていなかったのでしょうか。

左から、帝国海軍、フランス海軍(現在)イギリス海軍(現在)の水兵服三種。
フランス軍はさすがというか、帽子につけられた赤いボンボンと縞のシャツ、
カラーの背中側の色が違うことや袖のラインが粋です。
だけど、あまり強そうに見えないような気もします。

「甲飛予科練の憂鬱」という項で、「飛行士官になろうと思ってきたのに、
いきなり4等水兵としてジョンベラを着せられた」ということが、
難関を突破してきた若者達をいたく失望させたという話をしましたが、
「空の少年兵」で(エリス中尉の目には)カッコよく見えていた彼らのジョンベラ、
なにしろ物資不足であまり素材が良くなく、遠目にはともかく、米仏、ましてや
アメリカ軍のものと比べると、かなり粗末なものであったようです。

ご存じとは思いますが一応説明しておくと、セーラー服は元々イギリスで生まれました。
海軍の制服として生まれたので、あの襟は、風が強いときに後ろに引っ張り上げ、
集音器代わりに使う実用だったとか、昔は長髪をポニーテールにしていたので、
洗濯のできない船の上は汚れやすい襟だけ取り替えられるデザインが便利だった
とかいう説がありますが、実のところはわかっていません。

上図は、同じ人体をひな形にしたのでほとんどシルエットに違いはありませんが(笑)、
実はイギリス軍のセーラー服が一番ズボンが「ラッパ」度が高くダブダブしています。

いずれにしても、海中に転落したときも素早く脱ぎ去ることができるように、
上も下もダブダブしているのです。

海軍ではこれをジョンベラと呼び、それはそのまま「水兵さん」の呼称でした。
ジョンベラとはJohn Bullのことなのですがジョンブルとは「イギリス人」そのもののこと。
ジョンブル・スピリット、というと日本で言う大和魂です。
いわば元祖に敬意を払ってつけられたといえましょう。

ちなみに本家ジョンブルのジョンベラの襟には三本線がつけられています。
エリス中尉の通っていた学校のセーラー服も線は三本でした。
この線は、
「ナイル、トラファルガー、コペンハーゲン」
の三大勝利を意味しているということですが、
帝国海軍がセーラー服のデザインをイギリスから拝借したとき、線を一本にしたのは、
さすがに遠慮というものだったかもしれません。

冒頭のウィーン少年合唱団がセーラー服を着ているのは、元々ヨーロッパを中心に
子供服のデザインとして1800年代の後半から爆発的に流行ったことからきています。
この場合の「仕掛け人」はビクトリア女王で、王室付きのヨットマンの制服が気に入り、
子供用に仕立てさせて我が子エドワード王子に着せたところ、大ヒット。
もともと「大人が着るもの」を、子供が着るという「コスプレ」的可愛さが受けたのでしょう。
イギリスを中心にヨーロッパ中の流行にまでなったということです。

ウィーン少年合唱団は1498年の設立という大変な歴史を持っていますが、
この「セーラー服ブーム」に乗っかって制服を変えた時期があったのでしょう。
因みに、冒頭の団員の疑問にお答えしておくと、
確かにオーストリアは海がありませんが、全欧での大流行だったので、
海のあるなしにはあまり関係なくデザインとして選ばれたのだと思います。

このウィーン少年合唱団のおかげで、セーラー服を制服に採用する日本の少年少女合唱団は
かなりの数現存しているようです。


実際に学校の制服としては1920年、大正9年頃から女子学生の制服として現れ始め、
戦時中は「セーラー服にもんぺ」が定番となっていました。

現在、制服にこれを採用している学校は一時に比べ減ったのですが、
セーラー服の売れ行きは全く減っていないそうです。
というのも「セーラームーン」をはじめとする、日本の「萌え」業界が、海外に
「Sailor Fuku」を伝え、これがコスプレ的におしゃれであるという認識が全世界に広まったからです。

タイ、サウジアラビアでは「セーラーフク」が女子校の制服に採用され、人気だとか。
元々イギリス発祥の軍服で、子供服だけでなく、女性用にもデザインされていたはずなのに、
こと女学生用のセーラー服は「日本発」ってことになってしまったらしいですね。


さて、最後に我が海軍について一言だけ。
昭和20年4月、すでに水上部隊の勢力はすっかり疲弊し、主たる戦いのほとんどは陸上基地の航空艦隊に移りました。
前年には連合艦隊司令部は東京近郊に場所を移す「オカの連合艦隊」となっていたのです。
そして、第二艦隊は戦艦「大和」を旗艦として、わずか9隻の二水戦を引き連れ、海上特攻に出撃しました。
水上艦隊最後の戦闘。

大和特攻に赴く水兵たちは、みな「艦隊の男」の象徴であるジョンベラをまとっていました。

しかし、大和は轟沈し、連合艦隊の全てが消滅すると共に、誇り高き「ジョンベラ」も消滅したのです。
乗るフネのない水兵たちはそのときから草色の第三種を着用することとなりました。

そして、そのまま、昭和二十年八月十五日を迎えます。
ジョンベラたちがネイビーブルーのセーラー服をまとうことは二度とありませんでした。


今日の海上自衛隊に採用されているジョンベラをつぶさに点検してみると、
袖の形を除いて、全く旧海軍の軍服そのままのデザインであることに気づきます。
ペンネントの錨マーク、所属艦の名前が入るのも全く同じ。

世界中の海軍が当たり前のようにセーラー服を水兵の制服にしているのですから、
変わりなくても当然なのですが、何でもかんでも「旧軍とは違います」という感じで
変えてしまった(第一種軍装カムバ~ック!!)自衛隊にしては、やるじゃない!
とついほっとしてしまったエリス中尉であります。









夜の大桟橋・護衛艦

2012-10-08 | お出かけ

週末の夜、横浜大桟橋に行きました。



護衛艦が観艦式のために停泊しているのです。

 

荷を積むのを監視している当直?将校。

 ヘリ空母「ひゅうが」です。

 

舷門をカール・ツァイスレンズで望遠激写。
水兵さんがいる!



ありさんのようにみんなが荷物を持って積み込んでいます。
作業が終わって、門を閉めます。

       

このあたりになると、中のみんなは外に向かって手を振ってくれています。
結構ギャラリーが多かったんですよね。
デートでたまたま来たらしいカップル、凄いカメラを携えている「ファン」も。
自衛官の皆さんも、こうやって熱く関心を持つ人たちがいることで、
少しは励みになったりするのでしょうか。

  

というわけで、閉まってしまいました。

 

8時頃でしたが、結構外から帰って来る乗員多し。
いちいちちゃんと敬礼で迎えるのが軍隊だなあと、あらためて感心。

 

「ひゅうが」については、また後日ご報告することがあります。
お楽しみに。






映画「善き人のためのソナタ」

2012-10-07 | 映画

     

いつもそうするように、タイトルから説明すると、この映画の原題は
「Das Leben der Anderen」(他人の生活)と言います。

もしかしたら本質を言い表すにおいてこの原題を超えたかもしれない、
と思われるこの映画のタイトル、「善き人のためのソナタ」
今回は評価するぞ映画配給会社の宣伝担当の人!


旧東ドイツの国家保安省シュタージ
によって、生活のすべてを監視されていた劇作家
ゲオルク・ドライマン

留守中に仕掛けた盗聴器でゲオルクの部屋の屋根裏部屋に24時潜伏し、
その「他人の生活」を全て監視する、シュタージの諜報員、HGW XX/7ことヴィースラ―大尉
(保安省、と言いながら階級が軍隊式であるのに注意)

本人ではなく、周りの芸術家に「西側思想」の者が多いという理由での監視対象でした。


この映画が世界に与えた衝撃は、一人の人間の生活のすべてが国家によって
一挙手一投足監視される社会が、わずか前に実在したという事実でしょう。

ベルリンの壁崩壊以前、東ドイツは、理想の社会主義国家形成のため、
国民に対し徹底的な情報統制と言論弾圧を行いました。
国家の体制に不満を持ち、西側と通じようとするものを取り締まり、投獄するために、
このシュタージ(Staatssicherheit、英語ではstate securityに相当する語)は、
市民の生活を監視し、告発し、市民の中にも協力者という名の「スパイ」を送り込み、
情報網を張りめぐらせたということです。
その初期にはナチスドイツ時代のゲシュタポ出身者が採用されたという噂もありますが、
それが噂とは思えないというほど、全盛期のシュタージの弾圧は苛烈であったということです。


ゲオルクと、同棲している女優のクリスタ・マリア・ジーラントの生活を部下と交代で
観察し克明に記録するヴィーラントの諜報任務が始まります。
最初こそ冷徹に任務に邁進するヴィーラントですが、芸術家たちの苦悩や葛藤、
彼らが自由を求める声、そして恋人たちの会話を毎日のように聞くうちに、
一枚ずつ薄紙をはがすように、監視対象である男に感情移入してしまうのです。

文学。音楽。自由。そして、愛。

彼は盗聴という道義的罪を犯すうちに、今まで自分の知らなかった精神世界の扉を開き、
いつの間にかそこに足を踏み入れている自分に気づくのでした。

彼の中で、次第に何かが動き始めます。

決定的なきっかけは、恋人のクリスタに眼をつけた大臣のヘムプフが、
彼女の薬物中毒をたてに脅迫し、女優を続けることと引きかえに関係を迫ったことでした。
女が男を裏切る様子を、ヴィースラーは自分でも想いもよらぬ苦痛を以て見守ります。
愛し合っていたはずの男女が、自分の属する組織によってその関係を蝕まれていく様子を・・。


彼女が初めて大臣に凌辱を受けて帰ってきた夜、どちらもがそれについては触れず、ただ
「抱きしめていて」
と女は男に要求し、男は全てを察していながらそれに答えてやる。
どうしようもない、どこに持っていきようもない「受難」に、
社会主義国家の弾圧下にある二人の男女はこうして耐えるしかないのです。

その様子を、体躯を折り曲げ、胸を押さえた苦悶の姿勢で聴くヴィースラー・・・。


そんなある日、7年間活動を禁止されていた、ゲオルクの友人である演出家が自殺します。
演出家はその数日前に行われたゲオルクの誕生日に一冊の楽譜をプレゼントしていました。

「善き人のためのソナタ」(Sonate vom guten Menchen)

自殺の報を聞いたゲオルクは、演出家へのレクイエムとしてその曲を演奏します。
身じろぎもせず屋根裏のヴィースラ―はその響きに聴き入るのでした。

「レーニンはベートーヴェンの熱情ソナタを批判した。
これを聴くと革命を達成できない。
この曲を聴いた者は
本気で聴いた者は―悪人になれない」

ゲオルクの部屋からブレヒトの詩集を持ち出し、その世界に逍遥したばかりのヴィースラ―は、
この曲と、このゲオルクの言葉を全霊で受け止めます。

レーニン自身が革命を悪と考えていたかもしれないのと同じように、
ヴィースラーもまた、正しいと信じていた国家の正義が、
実は自由や、愛や、個々の人間の存在を否定する「悪」であることに気づきます。
そしてこの曲を聴いてしまったがゆえに悪に手を貸すことが困難になる自分を見出すのでした。

ヴィースラ―は自分でも押さえられない衝動に突き動かされ、背任行為を始めます。

大臣のもとに行こうとするクリスタの前に現れそれを諌め、
あるいは階下で起こっている芸術家たちの「たくらみ」を聞かなかったことにし・・。
「善き人のためのソナタ」を「本気で聴いてしまった」ヴィースラ―は、
ついには部下の報告をねじ曲げることすらするようになり、


ある日、ついに自分の輝かしいキャリアの全てを失うことになるのです。


ドイツ統一後、シュタージの諜報活動が世間に公表されました。
この映画でゲオルクがそうするように、当時の資料は保存されて閲覧することができ、
それによって当時、自分が如何なる諜報をされていたのか、そして、
自分の友人や知人、時には親族の誰がスパイとして自分の情報を当局に流していたのか、
といったことを、人々は知ることができるようになったのです。

ある資料では国民の約10人に一人は密告者であったという報告もあります。

ヴィースラ―を演じたウルリヒ・ミューエは、自身がシュタージの諜報対象でした。
統一後知ったところによると友人のほとんど、そして妻までが密告者であったというのです。

社会主義国家の監視下にあったときは、あくまでも水面下の問題であったのが、
統一後、これらの情報が公開され、人々がそれを白日のもとに見ることになってから、
旧東ドイツの人々にもたらされたのは激しい人間不信であったと言われています。

今まで信じていた人間関係が、信頼が、これによって一挙に覆されたためでした。
これがため自殺したり精神に異常をきたした人もたくさんいたということです。


この映画でも、統一後、シュタージ博物館で資料を閲覧したゲオルクが、
シュタージの捜索がアパートに来たとき、部屋を飛び出し、
事故で死んだ恋人クリスタの密告の証拠を発見し、衝撃を受けるシーンがあります。

クリスタはシュタージの尋問を受け、
「女優をやめるかゲオルクが西側に向けて記事を書いたことを密告するか」
と迫られたとき、何と当初は尋問官に向かって
「一緒に楽しまない?」
といって、逃れようとするのです。

まともな世の中であれば決して起こり得なかったであろう彼女の裏切り、
さらに決して外に出ることもなかったであろう醜い一面。

人間性を社会体制が完膚なきまでに抹殺し、醜悪な部分がさらけ出される。
戦争におけるのと同じような「価値観の歪み」がもたらされたことこそが最大の悪であり、
統一後に開けられたパンドラの匣からもたらされた「密告社会の真実」は、
その後、旧東ドイツの人々が背負っていかなければならない十字架となったのです。


だからこそ。
「対象者」に共感し、彼らを救うために背任の末失墜した諜報員HGW XX/7の行為は、
生きるためには恋人や家族でさえ売る社会にあって、
ただ純粋に「善き人」として為した、崇高とも言える自己犠牲であったのです。

統一後何の作品も書くことができなくなっていた作家、ゲオルク・ドライマンが、
資料を見、全てを知り、そして書いた「善き人のためのソナタ」。

冒頭画像は、書店員に「ギフト包装は?」と聞かれ、

「Das ist fuer mich.」(わたしのための本です)

と答える瞬間のヴィースラー。


あの狂気の社会の中で、彼こそが・・・いまや、世間の誰にも顧みられないこの彼こそが、
勇気ある抵抗者であり、作家にとっての英雄となったのです。
その書には英雄のコードネームと共に、感謝が献じられていました。



美しい映像、心臓を掴まれるような美しい音楽、そしてこのミューエの演技。
この瞬間のために何度でも観たくなる真の名作です。







大和の上を飛んだ

2012-10-06 | つれづれなるままに

夢の中でこんな景色を見たことがあるような。
mizukiさんに誘われるまま、セカンドライフの旅をしました。
ヤマト・メモリアムにご招待いただき、行ってきました。

夜だったので、海面に照る月明かりがとても幻想的・・。
操作に慣れていないので、階段から墜ちてしまったため、
テレポートで艦橋の上に連れて行っていただき、上空から
大和を眺めました。

mizukiさんのお話によると、この大和は、作者さんが
「もう休ませてあげたい」というご意向をお持ちのため、
主砲も銃座も、二度と火を噴かないのだそうです。

上空から眺める大和は、それは幻想的でした。


mizukiさんがこの後フィレンツェに連れて行って下さったのですが、
先に行って呼んで下さるまでのあいだ、
軍艦旗と中将旗の入る場所で記念写真を撮ってみました。

アバターはエリス中尉です。
登録のとき何種類かのアバターから選んだっきりなので、
衣装もそのまま、何のアレンジもしていません。

mizukiさんは自衛隊風のコスチュームで登場。
いいなあ。
そのうちわたしも第二種風の衣装を見つけるぞ。

しばしバーチャル世界の不思議な空間に遊んだ一夜でした。






甲飛予科練の憂鬱

2012-10-05 | 海軍



「空の少年兵」という、海軍省制作のドキュメンタリー映画をご存知でしょうか。
以前に書いたことのある「勝利の礎」とともに一枚のDVDに収められています。
「勝利の礎」が海軍兵学校の学校生活を描いたものであるのに対し、こちらは予科練の入隊試験から、
飛行練習生としての訓練の様子をナレーション付きで説明したものです。

この入隊試験の様子についても、ブログ開設当初、一度書いたことがあります。
採用試験に水野某という占い師が出てきて、骨相を見、飛行機に乗るのに向いているかどうかを宣託し、
それによって採用を決めた、という話です。

先日、防大卒のある方に自衛隊における航空適性検査について伺ったとき、
「人相は大事なんですよ」
とおっしゃっていました。
なんでも一番重要なのが「鼻筋がまっすぐでないといけない」
のだそうで、その方も「はっきりした理由はわからないが」ということですが、
おそらく「耐圧」に重要なファクターなのではないか、とのこと。

旧軍で「人相」を観るに当たっても、もしかしたら鼻筋のゆがんだ人間には水野氏のセンサーが
「不適任」に反応していたのかもしれません。

どちらにしてもこれからいえることは、飛行機乗りの鼻筋は、冒頭画像のイケメンパイロットのように
まっすぐに通っているらしい、ということですね。



さて、この映画をあらためて観てみると、映画の最初で

「渡洋爆撃の海鷲たちがかつていかに逞しく鍛へられ飛行機を征服したか
これは
決死的な 撮影による 生きた記録である」


と、練習生より、自分たちの苦労をまず自画自賛しています。
どのように決死的であったかと言うと、カメラマンが練習機に一緒に乗り込んで、
なんと練習生のアップを撮影したりしているのです。
今ならともかく、当時のでかいカメラを、しかも狭い操縦席に持ち込んでの撮影。
カメラマンの機はきっと教官が操縦したのでしょうが、それでも接触事故なども起こりうるわけですから、
かれらは生きた心地がしなかったと思われますし、ついつい自分の苦労をタイトルで訴えてしまったのでしょう。

それはともかく、この映画の見所は、練習生たちが見せる機上での表情。
練習過程が進み、今までは後ろに乗る怖い教官が、
「一人で行って来い」
という瞬間がやってきます。
待ちに待った単独飛行です。

少し前に、現代の初飛行におけるパイロットの感慨について
読者の鷲さんにお伺いしたところ、
「その夜、感激の涙がこぼれた」
というお話を聞くことができました。
今も昔も空を目指した青年たちの初飛行における感慨はちっとも変わらないのです。


さて、カメラは飛行機に固定されているらしく、ものすごいアップで練習生の表情をとらえます。
上空に上がったとき、風圧に震えるかれの表情は、隠しても隠しきれない興奮と喜びに溢れています。

いろんな「初飛行」の話を、あちこちで見ると、最初に単独で空に上がった練習生は例外なく、

「てやんでえこんちくしょうめ!」

なんて言葉が思わず口をついてでてきたり、眼下の景色を見ながら放歌高吟するものだそうです。

この映画でその記念すべき単独飛行をフィルムに収められたこの練習生。
確かにそれは記録に残され、未来永劫人の目に触れるという光栄に浴したことになるのですが、
叫んだりわめいたり歌を歌ったり、という解放感は味わえなかったわけで、この点少し気の毒な気もします。

そのように予科練習生の実態がつぶさに見られるこの映画「空の少年兵」のフィルム。
戦後アメリカに没収されたたった一本を残して散逸してしまったわけですが、
この復刻に際しても、当時の資料がどうも見つからなかったらしく、
どこをさがしても、いつ制作されたのかがわかりません。
しかし少なくともこれは1942年(昭和17年)11月以前のものであることだけははっきりしています。

なぜか。

この映像に出てくる練習生が、みなジョンベラ、つまり水兵服を着ているからです。


冒頭画像の男前は、海軍一飛曹、木村惟雄
第一期甲種予科練習生として、昭和12年(1937年)、横空に入隊しました。

この年、海軍は、甲種飛行予科練習生制度を設けました。
予科練そのものは1929年には既に存在していたのですが、戦争開始をにらんで更なる搭乗員増員が急務となったためです。

この木村一飛曹が旧制中学四年のときでした。
ある日かれはこのようなポスターに目を留めます。

「海軍飛行士官募集―海軍省」

木村一飛曹は、当時海軍兵学校を目指して勉強していました。
空駆ける飛行士官となって国に貢献したい、という、当時の青年なら普通に持つ、憧れ半分の願望です。
このポスターの一言に、かれは飛びつきました。

厳しい競争を潜り抜けて、これから兵学校に入学できたとしても、必ずしも飛行機に乗れるとは限らない。
士官になれるのなら、甲飛も兵学校も同じではないか。
いや、こちらのほうがずっと効率的で、話が早い。

憧れの航空士官になれる絶好のチャンス、そう考え、木村一飛曹は一も二もなく甲飛受験を決めました。
そして、さっそく受験手続をして、受験。

そんな青年たちの試験の様子が、この「空の少年兵」に記録されています。
学力、体力、体格ともに選びに選ばれた最終合格者、その倍率、なんと80人にひとり。
当時の旧制高校、大学予科受験とおなじレベルで、まさに超難関校並みの倍率でした。

木村一飛曹は、兵学校を目指していたくらいですから、おそらく超優秀な学業成績であったのでしょう。
その難関の試験を突破して、晴れて甲飛練習生となります。

と   こ   ろ   が   。

横空に入隊してびっくり。
いきなり着せられたのは、水兵服。(ジョンベラ)。

「ちょ・・・・飛行士官っていうから応募したんですけど。
詰襟の短ジャケットは?
錨マークの襟章は?
そして、あの短剣は?」

恰好ばかりではありません。
士官になれるというから応募したのに、海兵団で訓練中の新兵と同じ階級の四等水兵からのスタートです。

中には完璧に勘違いしたまま、入団早々指導の下士官に命令口調で話しかけ、
いきなり殴打されて現実を知った気の毒な練習生もいたということです。

難関突破して意気揚々と誇り高く入隊してきた彼ら、おそらく一人残らず、
「話が違う!」
と心の中で叫んだことでしょう。 

要するに、飛行兵欲しさに、海軍省は、待遇も進級も「兵学校に準ず」と喧伝し、純真な青少年の心を騙したのです。
いや、騙すというのは人聞きが悪い、というなら、別の言い方で言うと

「100パーセントでないことを『確実』と思わせ、逆にデメリットは全く説明しなかった」

ということです。
ちなみに募集要項はこのようなものでした。

「きわめて短年即ち僅々約5年半にて既に海軍航空中堅幹部として、
最前線に於いて縦横無尽にその技量を発揮するのである。
次いで航空特務少尉となり、爾後累進して海軍少佐、中佐ともなり得て、
海軍航空高級幹部として、活躍することができるのである」

特務少尉は、「本ちゃん」の兵学校出とはまったくその権威、待遇に於いて似て非なるものでした。
しかも、この段階での少年たちにとって「少佐、中佐」は雲の上の人並みに憧れでしょうが、
よくよく注意してみると、それ以上の階級になれるとは一言も書かれていません。
つまり、何年務めてもそれ以上にはなれない、ということでもあるのです。

どちらにしてもどんなブラック企業ですか海軍省。

「騙された。海軍はうそつきだ」

期待を裏切られた練習生たちは、飛行隊では決して口にできない不満を、故郷に帰って発散しました。

「予科練には来るな」

そんなことを地元の出身校で堂々と言ってはばからぬ練習生が後を絶たず、不満はさらに膨れ上がり、
ついには第三期生がストライキを起こすという、前代未聞の事態に発展してしまいます。
収束させるために高松宮が仲介に入るという、これも前代未聞の始末となったこの事件は、
海軍省の制定した制度そのものに対する不備、欠陥をまさに象徴していました。

そんな彼らの不満を抑えるために、海軍省は苦肉の策として、彼らにもっとも不評であった「ジョンベラ」を廃止します。
そして、あらたに「桜に錨」の七つボタンも凛々しい、予科練の制服を制定したのでした。

この映画「空の少年兵」には、皆が水兵服で登場しています。
それゆえこれが制服制定の昭和17年11月以前のものである、と判断するわけです。

さらに、この練習生たちの訓練は霞ケ浦で行われていることから、
かれらは木村一飛曹のいた第一期生(横空)ではなく、
訓練場所が移転になった昭和14年3月以降から昭和17年11月の間に在隊した期生であるということです。

この映画の彼らが3期、つまり件のストライキ組であった可能性もあります。

さて、制服改定後、案の定というかなんというか、
「七つボタン効果」は抜群で、予科練志願者はどっと増えることになります。
海軍省にしてみれば、「お国のために戦うのに待遇もヘッタクレもあるか」といったところでしょうが、
トラブルはそれだけではすみませんでした。

甲種が制定となると同時に、それまでいた予科練習生は

「乙飛」

という名称に改称されました。
うーん。
前にも書きましたが、これはいかんのではないか?
先任者のプライドってものを全く考慮していません。

なんだかんだ言って甲種はきわめて早く昇進できました。
二か月で一等飛行兵(のちに半年に改正)、5年半くらいで少尉任官です。 
これに対し、乙種の昇進は、一等飛行兵になるのに約三年かかるのです。

おまけに乙、って何?
おつかれの乙?
学校の成績が甲乙丙でつけられていたころに、これはないんじゃない?

そんなこんなで、甲と乙の間にも当然のことながらいがみ合い、じゃなくて対立が生まれてしまうのです。
しかも、こんな不公平なことをしておきながら、当初甲乙同じ航空隊に所属させていたというのですから。
(末期には対立が深刻になって航空隊を別にした)

なんというか、戦争という外の大事に当たっているのに、
大事な大事な飛行兵にこれだけやる気をなくさせてどうする。
海軍省の理屈は、つまり「非常時であるから文句言うな」ってことだったんだと思うのです。
しかも制服ごときでなんでやる気が出たりでなかったりするんだ、と、
おそらく全員が兵学校出の海軍省幹部は苦々しく思ったことでしょう。

でも、わかってないね。

制服。呼称。

こんな、しょせん「外っつら」が、実は結構人の心を大きく動かすんですよ。
ましてや、彼らのような多感な若いころには。
ぶっちゃけ、命を懸けるべき大義だけでは、なかなか若者のハートをつかむことができないものなのです。
かれらだって一つしかない命、同じ賭けるならもう少しかっこよく死ねるようなお膳立てをしてくれよ、
と内心誰しも思うのではないでしょうか。

そして、そういうセンスのないことをやっているのが、
何を隠そう、かつて短剣詰襟に憧れて兵学校に入った連中だったりするわけですね。
彼らはつまり、そういう自分たちのかつての感覚というものをさっぱり忘れてしまったか、
あるいは憧れの的たるスマートなネイビーは自分たち士官だけで十分、とでも思っていたのでしょうか。

当初案が出た、七つボタンに佩刀、全予科練生が期待した「憧れの短剣姿」は、
兵学校の反対で実現しませんでした。


それにしてもこの映画では、どの青年もきりりとまなじりをあげ、口元も固く結び、
皆が戦う男の表情をしています。
かれらに施されたのは文武両道の、完璧な教育。
英語あり、物理あり、スポーツでは武道、水泳はもちろん、ラグビー競技をする姿もあります。

そして、すべての厳しい過程を終了し、卒業するかれらが敬礼をしながら歩を進める姿。
それがかれらの蛇蝎のように嫌っていた水兵服姿であるにもかかわらず、
その凛々しさ、逞しさは圧倒的迫力で心を打ちます。


ジョンベラのあなたたちは自分が思っているよりずっとかっこいいですよ。



画像の木村一飛曹は、真珠湾攻撃で初陣を飾り、その帰還後も武運強く戦い抜きました。
ミッドウェーでは被弾する直前の赤城から、板谷少佐の乗機に飛び乗って、発艦し生還しています。
赤城から発艦できた零戦は、木村一飛曹の乗った一機だけでした。



参考:零戦の栄光 より、「わが初陣の翼下に真珠湾燃ゆ」木村惟雄


銀座の達人

2012-10-04 | お出かけ

先日もう少しで元海幕長に再びのお目もじがかなうところであった、という
あの会合の日、我々は実は銀座に宿泊しておりました。
お酒の出る会合で最終的にバー「ヨーソロ」に行かねばならない(ってことはありませんが)
その性質上、未成年の息子を連れて行くわけに行かなかったのです。

かれはしかし、Macと食べ物さえ与えておけば何時間でも一人でいられるという
「今時の子供」であるので、ホテルの一室で待たせることにしました。

理由はそれだけではありません。
われわれが結構気に入っていた「ホテル西洋銀座」が、来年の春には営業終了するというお知らせが飛び込んできたのです。
何度もお茶を飲んだりしましたが、ここには泊まったことはありません。
一度最後に泊まっておこうか、とTOが言い出したので、朝食、アフタヌーンティー、
さらに100ドルの割引券のついたお得なプランを利用することにしました。

というわけで銀座に向かいます。



途中で防衛省前を通りかかったら、このようなものを目撃。
ぜんがくれん、ってあの全学連?まだあったんだ・・・。
全員マスクしてオスプレイ配置反対のシュプレヒコールをしています。
やはりオスプレイ反対しているのってこういう人たちなんですね。
オスプレイ、鬼畜米の象徴のように言うからどんな恐ろしい武器かと思ったら、
なんでもただの輸送機なんだそうで。
元幕僚長も「絶対に安全です」と言っていたし。
もしどうしても墜としたければ、航空領域でわざわざ凧揚げをして
パイロットをムカツカせ、操縦を誤らす、という手もないではありませんがね。

何か問題があるとすれば、中国までの航続距離があって、
中国が日本のこの配備を無茶苦茶嫌がっているということくらいかな。

誰か、こういう人たちの前で遼寧やワリヤーグの写真を持って対抗するバイト、しません?

(実は遼寧に離発着できる艦載機も、またそれができるパイロットもいないそうで、
発艦はカタパルト頼み。まさに仏作って魂入れず状態らしいというのが、
平和的っちゃ平和的ですが←嫌味)

それにしても、ここは中国とは違い、憲法でほとんどの言論の自由を保証されている日本。
どんな活動でも勝手にすればいいけど、あんたたちまだ学生でしょ?
学生には学生の本分ってもんがあるんではない?
だいいちこの暑いのに(この日は暑かった)マスク着用してるけど、それは何のためにしているのかしら?
何年かたって就職活動するときに公安のリストに載っていたら差し障りがあるからかしら?
上級国家公務員試験でも受けるつもりがあったりするのかしら?

どちらにしても、顔も見せられないってことは主張に殉じる勇気もないらしい、
ということだけはよくわかりますね。
決して皮肉ではなく・・・って皮肉かこれ。

 

ホテル到着。
金曜日の夜だというのになぜかアップグレードしてスィートルームにアサインしていただきました。
テーブルにはウェルカム・フルーツが。
その昔、このホテルは「ホテル西洋銀座なら泊まってもいいわ」とバブルの頃のタカビーな(笑)ギャルが、
マルキンな(苦笑)バブルオヤジにおねだりするといった、敷居の高いので有名なホテルだったそうです。
今やその面影もないというわけではありませんが、まあ、時代(とき)は流れたというべきなのでしょう。
なんでもここは「コンシェルジェ」という「ホテルよろず相談窓口」制度を
日本で最初に導入したホテルなのだそうです。
銀座という立地上、フロントロビー、カウンターもなく、デスクが置いてあってそこでチェックインする、
という本来ならマイナス点を、こういう形で逆手に取ったのが当時は新鮮だったようです。



息子が最近大きくなって、大人三人で宿泊するということになってしまったため、
部屋にはローラーウェイ(エキストラベッド)を入れてもらいます。



やたら無駄に広いバスルーム。
エリス中尉の立っている場所にはベッドが優に2台入るようなスペースがあります。
はっきり言ってこのスペースが何の役に立っているのかさっぱりわかりません。

ホテルに着いてから約束の時間まで何時間かあったので、ヘアカットをしにいきました。
あまり美容院に行かないエリス中尉、夏の渡米前に切ったっきりです。
ホテルに教えてもらって、近所のサロンに歩いて行きました。

つい撮ってしまったインパクトのある看板。

どうやらヒサヤ大黒堂のビルのようです。
銀座にあるんですね。
因みにサロンはこの右側のビルです。

 

この日の銀座と、部屋からの眺め。メルサの向こうに東京タワーが見えます。
・・・しっかし、こうしてみるとつまんない眺めだこと。

「ただの、日本一土地の高い場所にある商店街」である銀座ですが、
昔からそこは「特別の場所」でした。
「花の銀座」なんて言葉もありますし、我が家に送られてくる「銀座百景」という小冊子には、
毎回各界の著名人が
「いかに銀座はわたしにとって特別の場所であったか」
を熱く語っています。

以前「士官候補生東京行状記」という項で、地方出身の士官候補生が、
卒業後の練習艦隊に出発する際、皇居、靖国遙拝のため東京でしばらく過ごすので、
その間東京出身者を案内に立てて銀座に繰り出した、という話を書いたことがあります。

また、兵学校出身者のうち、霞ヶ浦で航空学生生活を送るものは、少尉時代、
週末になると東京に繰り出す者と土浦でうろうろする者、二手に分かれていたそうです。

東京出身者始め、都会人を気取る者は、みな銀座でお洒落で粋な女給さんを相手にグラスを傾け、
地方出身者になると気後れと東京不案内もあって、どうしても地元に繰り出すしかなかったそうです。
銀座のお姉さんとはかなり風情の違う「ドノウラ(土浦のこと)ねえちゃん」を相手に
ちびりちびりやる地方出身者の悲哀を、長野県出身の作家、豊田穣氏が書いていました。

 

朝ご飯は、ルームサービスで。
二人分の朝食が付いてきます。
TOの頼んだ和食と、わたしのホワイトオムレツ(あまり上手とは言えなかった)。

 クロワッサンも、全く「普通」。

朝ご飯の後、何をするでもなく部屋で過ごし、チェックアウトがこれもサービスで4時なので、
アフタヌーンティも部屋でいただきました。
ティールームでいただきたかったのですが、ここのアフタヌーンティは超人気のため、
予約だけで前日には席が埋まってしまうのです。
このアフタヌーンティは、二人分がプランに入っています。

 三人で食べても少し残りました。

 

4時ぎりぎりまでいてチェックアウト。
先ほども話したように、このホテルにはフロントのカウンターはありません。
この机で全ての業務を行いますので、二つしか無い机が埋まっていたら、後ろで立ったまま
ぼーっと待っていなくてはなりません。

もしかしたら、このあたりも営業終了にいたる「事情」の一因となっていたりして・・・。

 

チェックアウト後、車をホテルに置いたまま、銀座に繰り出しました。
繰り出した、というほどたいそうなものではありませんが、
息子の学校の宿題、ポスター製作のために紙を買いに行く必要があったのです。
幸いホテルのすぐ近くに伊東屋が。
ここにいったん足を踏み入れたら、しばらくは出てこられないほど
「筋金入りの文具好き」であるところの我が家の面々、
案の定全ての買い物が終わって出てきたときにはあたりはとっぷり日が暮れていました。

お昼ご飯を食べなかったので、そろそろ小腹も空いてきました。
TOの提案で、お堀端にリニューアルしたパレスホテルに行ってみることに。

  

昔「宮様も外人もお泊まりになるホテル」
というのがキャッチコピーであったこのホテル、老朽化が進んで全面的に立て直し、
最近オープンしたばかり。
この日はちょうど東京駅駅舎完成に向けて、何かイベントがあったので、
丸の内一帯は多くの人が溢れていましたが、さすがにここは少し離れて位置しており、
中は人影もまばら。



しかしわたしたちが行ったのは、ホテル本体ではなく地下のテナント部分です。



ここに「錫専門店」があって、一輪挿しや錫のバスケット(柔らかいから手で曲げられる)、
そしてこのような風鈴を売っているのです。
これから涼しくなるのに、風鈴?
でも、ここの風鈴は「オブジェ」として飾るためのもので、年中売っています。
「冬用風鈴」としてか、雪だるまのモチーフもありました。
一番ウケたUFOタイプ。
TOと息子が「欲しい」というのを
「吊るところがない」と頑強に反対したわたしですが、多勢に無勢で押し切られてしまいました。
家に持って帰り、マグリットの絵の前で写真を撮ってみましたが、まだ吊るところは見つかりません。

そんなこんなで時間をつぶし、夕飯に突入。
この地下にある「野菜専門店」。

鶏のパイケース包み焼き。

 

そしてこれ!
先日しんさんと「秋田料理」について盛り上がりましたが、そのなかで
「イブリガッコ」ってなんでしょう、という話になりました。
このコロッケ、その名も「イブリガッコのコロッケ」。
コロッケのポテトの中に、アクセントとして刻んだイブリガッコが入っているのです。
所々見える茶色い部分がその沢庵のスモークである(そうですよね?)イブリガッコ。
こういう食べ方は邪道なのかもしれませんが、
おそらく生まれて初めてイブリガッコを食べるわたしには、この使い方が気に入りました。
単調なポテトの中にスモーク味の歯触りの良い沢庵(の切れ端)。
シェフは秋田の人に違いない、と勝手に予想。

ホテルといっても地下ですから、お値段もとてもリーズナブル。
この店、おすすめです・・・・って、名前を忘れてしまったんですが。



わたしは東京出身ではありませんので、銀座に想い出というものがありません。
しかし、なぜか銀座は歩いていても、他の渋谷や六本木にはない「格」を感じます。
もし銀座が「中国人相手の安売り店を増やす」などということになったら、
「核弾頭打ち込んでやる」
ときっぱり言い放ったTOの知り合いの「超愛国主義者」がいるのですが、
わたしも遠からず同じ意見です。

東京に一つくらい敷居の高い、「手出しのできない町」があってもいいじゃないですか。

皇居の周りは、「外国資本に抑えられないように、三菱系の『超国粋企業』が頑張っている」
ということですが、銀座ロータリーの方によると、「怪しい店は断固として入り込ませない」
と目を光らせていても、端っこにはじわじわと「怪しい」のが進出してきているそうです。

核弾頭でも何でも使って、この「大人の町、良き銀座」を死守して欲しいと思います。

兵学校67期卒の某氏が、笹井醇一中尉の思い出の中で、
「銀座の達人であるかれに、銀座裏の手ほどきを受けた」
と語っている文章があります。
東京出身の笹井少尉はおそらく週末には実家に帰ったり、皆を銀座に案内したりしていたのでしょう。

「あこがれの銀座」を、笹井少尉に連れられた新少尉たちは、どのように眺めたのでしょうか。
そしてまだ戦争が始まっていない時代、そこにはどのような人々が歩いていたのでしょうか。
いかにも戦前からあるような建物や碑には、そこをそぞろ歩いた人々の姿さえ彷彿とさせる、
銀座にはいまだにそんな空気があります。

昔からの人々の思いがそこに留まっている、やはり銀座は特別な場所なのです。






あの日の安倍晋三

2012-10-03 | 日本のこと

ランチに3500円のカツカレーを食べただけで、「庶民感覚が無い」と叩かれる政治家がいます。
かたや、渋谷の会員制クラブ、入会金1500万円也での飲食の際、
バケツに入った氷に2500円払っても、原発事故の処理もまだめどが立っていない頃に
毎日料亭で食事をしても、何も言われない政治家たちがいます。


渋谷の会員制クラブで食事した政治家は、代々政治家の家の出で、
大会社の経営者一族に連なるサラブレッドみたいな血筋です。
ですから、そんな人間が1500万円の入会金を払って、どんなつまらないクラブで
(エリス中尉、実は一度事情があって、ここで食事したことがあります)
何を食べようが「まあ、そんなもんかもしれませんね」と思うのが普通の感覚。
原発事故騒ぎのまっただ中に料亭で夕食を食べる首相だって、
被災者には業腹でしょうが、やはり総理ともなれば、人目に付かないところで
食事なり密談なりをしなければならない毎日でもあったでしょう。
どちらも端がとやかく口を挟むべきでもないし、そもそもかれらは庶民でもありません。

自民党の総裁選挙で安倍晋三氏が党首に選ばれました。

火を見るよりもはっきり明らかに、マスコミのバッシングが始まるだろうと予想していたら、
なんといきなり「昼にカツカレー喰った」ということで大騒ぎしているので、
エリス中尉、脱力感と怒りとで頭がクラクラしてしまいました。

マスコミは、外国人から献金をもらっていたり(野田、菅、前原)
オクスリ関係の犯罪歴のある男性と東京が災害に見舞われているときに不倫旅行したり(蓮舫)
国会内で携帯の競馬のサイトを見ていたり(小川)マルチに関わっていたり(山岡)することよりも、
昼にカツカレーを食べることや、難病にかかることの方が「叩くべきである」と思っているようです。

なんと、朝日新聞に至っては、あの「一発だけなら誤射かもしれないから、
北朝鮮はノドンミサイルを中央区築地5丁目3の2に打ち込んでもかまわないよ」
と言ったとか言わなかったとかで名をはせた若宮啓文という主筆が、

「安倍晋三を叩くのは朝日新聞の社是である」

って言いきったって言うんですからね。
新聞社が総力挙げて政治家とはいえ一人の人間を社是によってバッシングする。
なんなのこれ。

しかし、日頃の行いがアレな朝日新聞が社是で叩かなくてはならないくらい、
彼らにとって都合が悪いのなら、それはきっと日本にとっていい政治家なのに違いない」
って思ってしまいますわ。悪いけど。

さてところで、このマスコミが、自分たちに都合の悪い政治家を叩くときの決まり文句、
「庶民感覚」ってなんなの?

麻生総理にカップラーメンの値段を質問し、揚げ足をとるきっかけを作ったと言うことだけで
憲政史上に名前を残すであろう民主党の女性議員を、実はエリス中尉、知っております。
決して友達ではありませんが。

麻生総理の「庶民感覚」を鋭く国会で追及したこの議員、本人はインターナショナル校卒、
夫は六本木のインテリジェントビルに入っている、有名な法律事務所の弁護士です。
自宅は外国人の駐在員専門アパートで、家には家政婦さんを雇っていました。
おそらく彼女はカップラーメンの値段など、知るよしもないでしょう。
少なくとも、人に庶民感覚を問う資格に欠ける人物であることだけは保証します。

こんど出逢ったら思わずその件について問い詰めた上
「おまえが言うな」の一言を、時期衆院選落選予想と共に送って差し上げたいと思うくらい、
わたしはこの人物に対してむかついてもいるわけですが、予想するに、彼女は、
一応「主婦感覚(笑)」を売り物にしている政治家なので、民主幹部に鉄砲玉として
この質問をさせられただけなのかもしれません。

だけど考えて下さいよ。

大会社の経営者で、吉田茂の孫がカップラーメンの値段を知らなかったからって、
それがいったい政治とどんな関係にあるって言うの?

今回だってそうです。

胃腸の調子が決して思わしくない58歳の男性であれば
「カツカレーは重たいから、昼はソバで」となるのが普通ではありませんか。
それをあえて、カツカレー。
選挙に勝つためにゲンを担いで「カツ」にしたのです。
ほほえましいじゃないですか。
おまけに、安倍さんはおそらく自分の一挙一動が報道になることを予想した上で、

「もうカツカレーだって食べられるんですよ!」

とアピールするつもりもあったのかもしれません。

都内のホテルの飲食物の尋常でない高さを知っているものなら分かりますが、
このカツカレーは、都心の一流ホテルのメニューとすれば高くも何ともありません。
しかもその後これは会場費込みの値段で、そこにいた自民党議員全員が食べたとのこと。

だいたい菅元総理も代表選のときはカツカレー食べてるじゃないですか。
なぜ一言も報じなかったの?

まったく、バッシングするネタの無いうちから、鵜の目鷹の目とはこのことでしょうか。
笑ってしまったのが、みのもんたが「庶民感覚がない」と非難していたと言うのですが、
年収数億円の人間の言う庶民感覚って、いったいなんなのかしら。

超余談ですが、TOが某所でみのもんた様ご一行を見かけたそうです。
なんと、一緒にいたテレビ局か広告代理店だかのスタッフが
「半島式の飲み物の飲み方(横を向いて口のところだけ覆う)をしていた」といって、
かれはかなり驚いていました。
みのもんた様だけはしていなかったらしいですが。



実はここだけの話ですが、我が家の身内に、安倍政権下で、
「ある制度改革のためにあることをするためのあることをしていた」人間がおります。
それは、大きな声では言えませんが、それが成ったがために、ほにゃららな人たちが
ほにゃららできなくなった、という、わたしに言わせれば「あっぱれ」な政策だったわけですが、
この制度の内容がそうだったように、安倍氏が
「正しい日本人のための日本」
を作ろうとしていたことは、その人物からの話から十分理解できました。

マスコミは安倍政権始め自民三代総裁の行った「有効な政策」についてはほとんど報じず、
新聞からテレビ、末端のスポーツ誌に至るまでが、口をそろえてただヒステリックに安倍氏を叩くだけ叩き、
ノイローゼ寸前まで追い詰め、やめざるをえない状況に追い込んでおきながら
党首に選ばれたとたんに「前回任期途中で放り出した無責任な政治家」とレッテルを貼り出しました。
まさに「誰がそうさせたんだ」という言葉が口をついて出るわけですが。

(そういえば当時、「アベする」=「仕事を放り出す」という言葉が流行っている、
と「アサヒった」メディアもありましたね)

わたしは安倍政権下で「清き水に住めなくなった」連中、そして、
「安倍さんに正しい日本を作られては困る連中」
「戦後レジームの闇に日本人をとどめておきたい連中」が糸を引いて、
マスコミにバッシングをさせていたのだと、身内の話を聞いたときはっきり理解しました。


三年前のきょう、十月三日、政治家中川昭一氏が亡くなりました。
前にも書いたことがありますが、わたしはその葬儀に参列しました。
出棺を見送る列の、エリス中尉が立っていたちょうど向かいに、安倍夫妻が立っていました。
中川氏を乗せた霊柩車が列の間を進んだとき、口々に人々は叫びました。

「中川さん!ありがとうございました」
「さようなら!」
「安らかに眠って下さい」

そして、車が門から姿を消したとき、ひときわ背の高い安倍さんが、
まるで周りから切り離されたように、浮き上がって見えました。
車の行方を見届けた参列者の目は自然と安倍氏に吸い寄せられました。

「安倍さん、日本をお願いします!」
「日本を頼みます!」

と言う声が次々に上がる中、安倍さんは、憤怒とも見える悲痛の形相で立ち尽くしていました。

あのお葬式のとき、政治家として奔走し、ついに斃れた中川氏の死を、
安倍さんはどう捕らえていたのでしょうか。
執拗に自分を傷つけようと牙をむくメディアとの戦いについに負けた自分と、
日本のために命を賭した中川氏との政治家としての覚悟の違いでしょうか。


わたしは、あのとき安倍さんが「政治家として今度こそ死ぬ覚悟を決めた」
のではないかという気がしているのです。
今回、前にも増して険しいと想像される棘の道をもう一度歩もうとするからには、
安倍さんにはすでにその覚悟があるのでしょう。

次期選挙で自民党が政権与党となるのはもはや確実なことのように思われます。

第一次安倍内閣時代に次々と法律を成立させたように、(マスコミは報じていません)
今回も、スピード感を以てたとえば河野談話の白紙撤回や、米国との関係回復、
経済の回復はもちろんですが、周辺国との外交を
「右手で握手しながら左の拳を握りつつ」やっていただきたい。

そして、団塊世代との対決が予想される(だからこそ朝日などが社是にしてまで叩くのですが)
戦後レジームからの脱却に初めて踏み込む政治家として、歴史に名を刻んでいただきたい。


任期中まともなことは何一つせず、こっそり人権法案を閣議決定した民主党。
驚くべきことに90人の「帰化人」議員がいるというのです。
火のないところに煙は立たないといいますが、現総理始め「某国団体」から献金されていたり、
その団体から組織的な応援を受けて政権与党になっているのは事実ですから、
あながち噂だけではないかもしれません。

マスコミの応援によって彼らは国政を握ったわけですが、あまりにも拙劣で、かつ「やり過ぎ」、
今回マスコミがどう印象操作しようと下野はまず間違いないところでしょう。

ところが、当の民主議員は、安倍氏が自民党首に決まったことを受けて

「安心した。すぐに化けの皮がはがれるに違いないから」

などと言っているようです。
メディアの意見を鵜呑みにする愚民はたくさんいるかもしれませんが、それ以上に
「覚醒した」国民は、もう二度と騙されないと思いますよ。

それにしても、言うに事欠いて化けの皮がはがれる、とは・・・。
まさにこれでしょう。

「おまえが言うな」


 

 


板倉光馬少佐~回天指揮官の苦悩

2012-10-01 | 海軍

             

板倉光馬
大正元年(1912年)11月18日小倉市出身
海軍兵学校61期
伊54潜、呂34潜(航海長)、呂34潜、伊69潜(水雷長)を経て
伊176潜、伊2潜、伊41潜艦長
2005年(平成17年)93歳で死去


二回にわたって人間魚雷「回天」を開発し、その開発過程で殉職した黒木博司大尉と、
最初の回天戦に出撃し本懐を遂げた仁科関夫中尉についてお話してきました。
板倉光馬少佐が、その二人の回天隊の指揮官となり、その開発を、訓練を、そして出撃を
見送ったということにも触れたのですが、この回天基地のある大津島に板倉少佐が赴任したのは
昭和19年、9月1日のことでした。

前々回お話した黒木大尉の殉職はこの赴任からわずか5日後です。
この日付を見たとき、しばし信じられない思いでした。

板倉少佐は「特攻部隊を指揮できる資格など自分に無い」と渋ったものの、
命令を断ることもできず、「指揮官先頭」として自分が一番先に行くことを決意して着任しました。
早々にその意向を具申し、上官からは
「回天隊員の育成が先決である」
とそれを却下され、さらにはやる板倉少佐を、黒木大尉と仁科中尉がやはり
「今一番大切なことは回天隊員を育てることです」
と説得しにきたという一連の出来事が、全てこの数日の間に起こっていることになるからです。

あまりにも短い日々の間に、奔流のように様々なことが決定され、
ある者は生きることを定められ、ある者は死んでいきました。
あの頃、戦争のさなかに生きた人々の運命の苛烈なことに、ただ凝然とする思いです。

板倉夫妻は最初の子供をちょうどこの9月に授かっています。
仁科中尉ら回天の隊員は皆喜びました。

「自分たちは子孫を残してゆかれないけども、指揮官、坊ちゃんをしっかり育ててください」

殉職によって黒木大尉を失い、阿修羅と化して回天隊を率いていたその当時、
仁科中尉は新しく命が生まれくることに対し、このような言葉をかけました。

自分たちの死が守るものは、即ちこのような次の世代の日本人なのだ。
かれは自分の死の意義を、奮い立つような気持ちと共に確認したのかもしれません。

この二カ月後、仁科中尉の「菊水隊」は出撃しました。
出撃の際、板倉少佐が
「俺もすぐ行くからな」
と声を掛けると、仁科中尉はニコニコと笑って
「指揮官は七へん目くらいに来てください」
と言いました。

出撃12日後の11月20日、仁科中尉は戦死します。
このときの攻撃によって、油送艦「ミシシネワ」が轟沈しました。

その頃、めったに家に帰ってこない板倉少佐が呉の自宅にかえってきた様子を、
夫人の恭子さんが語っています。
軍刀も外さないまま上に上がり、畳に転がって、顔を覆って泣きながらとぎれとぎれに、

「仁科たちはいまごろ・・・・・それに俺は生きている・・・・・・・」



回天については出撃した搭乗員のインタビューを始め、「特攻の島」(漫画)も含めて
いくつかの資料に目を通しましたが、さらにインターネットでもかなりの情報を見つけました。

その段階で、あるHPを見つけました。

以前「海軍のせいで戦争は起こり海軍のせいで戦争は負け、
多くの人命が失われたのはこれ全て海軍の無能の所為である」
と、海軍ばかりを非難するサイトについて少し触れたことがありますが、
どうやらこれもその同じ作者の手になるものではないかと思われました。

回天の仕組みや、その作戦、その他詳細に図解までして検証しているので何気なく見ていたら、
説明の合間合間に、「だから馬鹿」「だから無能」「だから低脳」などの罵詈雑言と共に
「東京裁判をもう一回してこいつらを裁くべきだ」と言う文言がくまなく挟まれており、
正直、そのあまりにも感情的で冷静さを欠いた部分が、
他の、きちんと自分なりの考察をした部分を台無しにしている感は否めませんでした。
もしかしたらこの編者は海軍特攻で肉親を失いでもしたのでしょうか。

特攻で我が子を失った家族が、その身を抉るような悲しみをどう耐えたか。

戦中こそ「お国のため」「軍神」「特進」
という言葉でそれは維持されましたが、戦後、「日本誤謬論」「日本悪玉論」
(「自虐論」とは言いません。これらの提唱者は決して「自分を責めている」のではないからです)
がまるで良心的日本人の総意であるかのようになってしまったこの日本において、
最愛の肉親を失ったやり場のない怒りを、
「戦争を起こした日本」
「特攻を考案した海軍」そして
「特攻を組織した上層部」「出撃を下命していながら生き残った上官」
にかれらが向けたとしても、それはいたしかたないことであったように思われます。

昭和37年(1962)、回天搭乗員の遺族と生存者が「回天会」を立ち上げました。
その会に、板倉光馬氏と夫人の恭子さんは参加したのですが、恭子さんは何度か参加するうちに
他の参加者から何とも言えずよそよそしい、非難するような視線を投げられるのに気付きました。
会を重ねるたびにその視線に耐えてきた恭子さんでしたが、何回目かに意を決して発言しました。

板倉指揮官が最初の出撃に自分が往くことを具申し黒木大尉や上層部にとめられたこと。
子供が生まれたとき、仁科中尉らが喜んでくれたこと。
その子供が翌年亡くなったとき、人前では「自分の子供が死んだくらいで帰るわけにはいかない」
とさえ言っていた板倉指揮官が、皆に騙すように家に帰された深夜、息子の亡骸を抱いて

「あんたが生まれて、俺は何時死んでもいいと思っていたのに、どうして死んだのだ」

と泣いているのを見た回天隊員が

「人は鬼参謀で血も涙も無い人だと言うが、この人の下で死のうと思った」

と他の隊員に泣きながら語ったこと。

敗戦の報に接し自害しようとしたとき、隊員の自決があり(橋口寛大尉)
自分の使命は死ぬことではなく彼らを死なせまいとすることだと覚悟したこと。

その話が終わったとき、一人の元下士官搭乗員が進み出て
「奥さん、知りませんでした。申訳ありません」と言いながら泣きだしたのをきっかけに、
他の者も次々に恭子さんの側に来て、皆で泣いたのだそうです。


「戦争」という絶対的な罪悪の下に命を失った家族を持つ人々が、その「直接の責任」
を、誰かに求めることでその空虚の充填をしようとする心理は、ごく自然なものです。

しかし、歴史の中に組み込まれ、逆らうべくもない流れの中にある個人はあくまでも非力で、
命じるものもまた命じられ、個々の意思など全く意味を持たなかったのです。

板倉恭子さんは、戦後仁科関夫中尉の母親とも偶然の邂逅をし交流を温めました。
仁科中尉の母親によると、彼女に向かって

「あんたの息子があんなものを作らなければ家の息子は死なずにすんだ」

などと言う遺族もいたということです。

黒木大尉が回天を開発したのはこれが航空特攻に繋がることを期してのことであった、
という話を黒木大尉について語る稿でお話しましたが、実際は回天の初出撃よりも早く、
全く別の源流から神風特攻は生まれるべくして生まれました。

「自死によって未来の日本人が生きること」

これが、大西瀧治郎長官にとっても、黒木博司大尉にとっても、
日本が特攻作戦を選択するべき真の理由でした。

当時の日本人が追い詰められた状況、その精神的な揺籃からすでに
「生きることは死ぬことと見つけたり」という死生観を持っている日本人が
このような歩みを進めたのは、言わば必然というものではなかったかと、わたしは思うのです。

つまり、大西長官や黒木大尉がいなくても、
「誰かがそれをやった」
のではないでしょうか。




前述のサイトの運営者は、回天の開発者の黒木大尉さえをも、その武器としての欠陥性や、
作戦の稚拙さは勿論、特攻兵器を生み出した醜悪な思想の持ち主として断罪します。
この運営者の不思議は「陸軍」「大本営」は非難せず、そして「予備学生」を被害者としていることで、
もしかしたら、ただ「海軍兵学校」が嫌いなだけなのかと思わないでもないのですがそれはさておき。

「ひめゆりの塔の怖さ」という項でも指摘しましたが、あの時代に、あの流れに
組み込まれたものにしか説明できないことがあります。

「かくすれば かくなるものと思いつつ やむにやまれぬ 大和魂」

先日、任務の遂行に殉じた自衛官の話をしたときにもこの句を挙げました。
誰だって死ぬのは怖い。
しかし、現代においても、人はそれをも凌駕する「自死の意味」に殉じて振る舞うことがあります。

そして、人に死を命じるなら自分がまず征くべきであると考え、
板倉光馬少佐のように自死の道を選ぼうとし、実際にもそうした指揮官たちもいました。

その指揮官たちの苦悩も顧みず、低劣なもの言いで、ただ断罪し非難するこのサイトの運営者は、
自分が仮にその時代に指揮官の立場で、命令を受けなければ板倉少佐のように
・・・・・・例えば、
「無駄な特攻は出さないでほしい」と具申し、
激昂した上層部の抜いた白刃に囲まれたとしたら、どのようにふるまえたというのでしょうか。

「そんな仮定はありえない」

ともしそういう立場にある自分すら想像できない、というのなら、
そもそも戦争で戦った人々を糾弾する資格は、あなたには、ない。