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甲飛予科練の憂鬱

2012-10-05 | 海軍



「空の少年兵」という、海軍省制作のドキュメンタリー映画をご存知でしょうか。
以前に書いたことのある「勝利の礎」とともに一枚のDVDに収められています。
「勝利の礎」が海軍兵学校の学校生活を描いたものであるのに対し、こちらは予科練の入隊試験から、
飛行練習生としての訓練の様子をナレーション付きで説明したものです。

この入隊試験の様子についても、ブログ開設当初、一度書いたことがあります。
採用試験に水野某という占い師が出てきて、骨相を見、飛行機に乗るのに向いているかどうかを宣託し、
それによって採用を決めた、という話です。

先日、防大卒のある方に自衛隊における航空適性検査について伺ったとき、
「人相は大事なんですよ」
とおっしゃっていました。
なんでも一番重要なのが「鼻筋がまっすぐでないといけない」
のだそうで、その方も「はっきりした理由はわからないが」ということですが、
おそらく「耐圧」に重要なファクターなのではないか、とのこと。

旧軍で「人相」を観るに当たっても、もしかしたら鼻筋のゆがんだ人間には水野氏のセンサーが
「不適任」に反応していたのかもしれません。

どちらにしてもこれからいえることは、飛行機乗りの鼻筋は、冒頭画像のイケメンパイロットのように
まっすぐに通っているらしい、ということですね。



さて、この映画をあらためて観てみると、映画の最初で

「渡洋爆撃の海鷲たちがかつていかに逞しく鍛へられ飛行機を征服したか
これは
決死的な 撮影による 生きた記録である」


と、練習生より、自分たちの苦労をまず自画自賛しています。
どのように決死的であったかと言うと、カメラマンが練習機に一緒に乗り込んで、
なんと練習生のアップを撮影したりしているのです。
今ならともかく、当時のでかいカメラを、しかも狭い操縦席に持ち込んでの撮影。
カメラマンの機はきっと教官が操縦したのでしょうが、それでも接触事故なども起こりうるわけですから、
かれらは生きた心地がしなかったと思われますし、ついつい自分の苦労をタイトルで訴えてしまったのでしょう。

それはともかく、この映画の見所は、練習生たちが見せる機上での表情。
練習過程が進み、今までは後ろに乗る怖い教官が、
「一人で行って来い」
という瞬間がやってきます。
待ちに待った単独飛行です。

少し前に、現代の初飛行におけるパイロットの感慨について
読者の鷲さんにお伺いしたところ、
「その夜、感激の涙がこぼれた」
というお話を聞くことができました。
今も昔も空を目指した青年たちの初飛行における感慨はちっとも変わらないのです。


さて、カメラは飛行機に固定されているらしく、ものすごいアップで練習生の表情をとらえます。
上空に上がったとき、風圧に震えるかれの表情は、隠しても隠しきれない興奮と喜びに溢れています。

いろんな「初飛行」の話を、あちこちで見ると、最初に単独で空に上がった練習生は例外なく、

「てやんでえこんちくしょうめ!」

なんて言葉が思わず口をついてでてきたり、眼下の景色を見ながら放歌高吟するものだそうです。

この映画でその記念すべき単独飛行をフィルムに収められたこの練習生。
確かにそれは記録に残され、未来永劫人の目に触れるという光栄に浴したことになるのですが、
叫んだりわめいたり歌を歌ったり、という解放感は味わえなかったわけで、この点少し気の毒な気もします。

そのように予科練習生の実態がつぶさに見られるこの映画「空の少年兵」のフィルム。
戦後アメリカに没収されたたった一本を残して散逸してしまったわけですが、
この復刻に際しても、当時の資料がどうも見つからなかったらしく、
どこをさがしても、いつ制作されたのかがわかりません。
しかし少なくともこれは1942年(昭和17年)11月以前のものであることだけははっきりしています。

なぜか。

この映像に出てくる練習生が、みなジョンベラ、つまり水兵服を着ているからです。


冒頭画像の男前は、海軍一飛曹、木村惟雄
第一期甲種予科練習生として、昭和12年(1937年)、横空に入隊しました。

この年、海軍は、甲種飛行予科練習生制度を設けました。
予科練そのものは1929年には既に存在していたのですが、戦争開始をにらんで更なる搭乗員増員が急務となったためです。

この木村一飛曹が旧制中学四年のときでした。
ある日かれはこのようなポスターに目を留めます。

「海軍飛行士官募集―海軍省」

木村一飛曹は、当時海軍兵学校を目指して勉強していました。
空駆ける飛行士官となって国に貢献したい、という、当時の青年なら普通に持つ、憧れ半分の願望です。
このポスターの一言に、かれは飛びつきました。

厳しい競争を潜り抜けて、これから兵学校に入学できたとしても、必ずしも飛行機に乗れるとは限らない。
士官になれるのなら、甲飛も兵学校も同じではないか。
いや、こちらのほうがずっと効率的で、話が早い。

憧れの航空士官になれる絶好のチャンス、そう考え、木村一飛曹は一も二もなく甲飛受験を決めました。
そして、さっそく受験手続をして、受験。

そんな青年たちの試験の様子が、この「空の少年兵」に記録されています。
学力、体力、体格ともに選びに選ばれた最終合格者、その倍率、なんと80人にひとり。
当時の旧制高校、大学予科受験とおなじレベルで、まさに超難関校並みの倍率でした。

木村一飛曹は、兵学校を目指していたくらいですから、おそらく超優秀な学業成績であったのでしょう。
その難関の試験を突破して、晴れて甲飛練習生となります。

と   こ   ろ   が   。

横空に入隊してびっくり。
いきなり着せられたのは、水兵服。(ジョンベラ)。

「ちょ・・・・飛行士官っていうから応募したんですけど。
詰襟の短ジャケットは?
錨マークの襟章は?
そして、あの短剣は?」

恰好ばかりではありません。
士官になれるというから応募したのに、海兵団で訓練中の新兵と同じ階級の四等水兵からのスタートです。

中には完璧に勘違いしたまま、入団早々指導の下士官に命令口調で話しかけ、
いきなり殴打されて現実を知った気の毒な練習生もいたということです。

難関突破して意気揚々と誇り高く入隊してきた彼ら、おそらく一人残らず、
「話が違う!」
と心の中で叫んだことでしょう。 

要するに、飛行兵欲しさに、海軍省は、待遇も進級も「兵学校に準ず」と喧伝し、純真な青少年の心を騙したのです。
いや、騙すというのは人聞きが悪い、というなら、別の言い方で言うと

「100パーセントでないことを『確実』と思わせ、逆にデメリットは全く説明しなかった」

ということです。
ちなみに募集要項はこのようなものでした。

「きわめて短年即ち僅々約5年半にて既に海軍航空中堅幹部として、
最前線に於いて縦横無尽にその技量を発揮するのである。
次いで航空特務少尉となり、爾後累進して海軍少佐、中佐ともなり得て、
海軍航空高級幹部として、活躍することができるのである」

特務少尉は、「本ちゃん」の兵学校出とはまったくその権威、待遇に於いて似て非なるものでした。
しかも、この段階での少年たちにとって「少佐、中佐」は雲の上の人並みに憧れでしょうが、
よくよく注意してみると、それ以上の階級になれるとは一言も書かれていません。
つまり、何年務めてもそれ以上にはなれない、ということでもあるのです。

どちらにしてもどんなブラック企業ですか海軍省。

「騙された。海軍はうそつきだ」

期待を裏切られた練習生たちは、飛行隊では決して口にできない不満を、故郷に帰って発散しました。

「予科練には来るな」

そんなことを地元の出身校で堂々と言ってはばからぬ練習生が後を絶たず、不満はさらに膨れ上がり、
ついには第三期生がストライキを起こすという、前代未聞の事態に発展してしまいます。
収束させるために高松宮が仲介に入るという、これも前代未聞の始末となったこの事件は、
海軍省の制定した制度そのものに対する不備、欠陥をまさに象徴していました。

そんな彼らの不満を抑えるために、海軍省は苦肉の策として、彼らにもっとも不評であった「ジョンベラ」を廃止します。
そして、あらたに「桜に錨」の七つボタンも凛々しい、予科練の制服を制定したのでした。

この映画「空の少年兵」には、皆が水兵服で登場しています。
それゆえこれが制服制定の昭和17年11月以前のものである、と判断するわけです。

さらに、この練習生たちの訓練は霞ケ浦で行われていることから、
かれらは木村一飛曹のいた第一期生(横空)ではなく、
訓練場所が移転になった昭和14年3月以降から昭和17年11月の間に在隊した期生であるということです。

この映画の彼らが3期、つまり件のストライキ組であった可能性もあります。

さて、制服改定後、案の定というかなんというか、
「七つボタン効果」は抜群で、予科練志願者はどっと増えることになります。
海軍省にしてみれば、「お国のために戦うのに待遇もヘッタクレもあるか」といったところでしょうが、
トラブルはそれだけではすみませんでした。

甲種が制定となると同時に、それまでいた予科練習生は

「乙飛」

という名称に改称されました。
うーん。
前にも書きましたが、これはいかんのではないか?
先任者のプライドってものを全く考慮していません。

なんだかんだ言って甲種はきわめて早く昇進できました。
二か月で一等飛行兵(のちに半年に改正)、5年半くらいで少尉任官です。 
これに対し、乙種の昇進は、一等飛行兵になるのに約三年かかるのです。

おまけに乙、って何?
おつかれの乙?
学校の成績が甲乙丙でつけられていたころに、これはないんじゃない?

そんなこんなで、甲と乙の間にも当然のことながらいがみ合い、じゃなくて対立が生まれてしまうのです。
しかも、こんな不公平なことをしておきながら、当初甲乙同じ航空隊に所属させていたというのですから。
(末期には対立が深刻になって航空隊を別にした)

なんというか、戦争という外の大事に当たっているのに、
大事な大事な飛行兵にこれだけやる気をなくさせてどうする。
海軍省の理屈は、つまり「非常時であるから文句言うな」ってことだったんだと思うのです。
しかも制服ごときでなんでやる気が出たりでなかったりするんだ、と、
おそらく全員が兵学校出の海軍省幹部は苦々しく思ったことでしょう。

でも、わかってないね。

制服。呼称。

こんな、しょせん「外っつら」が、実は結構人の心を大きく動かすんですよ。
ましてや、彼らのような多感な若いころには。
ぶっちゃけ、命を懸けるべき大義だけでは、なかなか若者のハートをつかむことができないものなのです。
かれらだって一つしかない命、同じ賭けるならもう少しかっこよく死ねるようなお膳立てをしてくれよ、
と内心誰しも思うのではないでしょうか。

そして、そういうセンスのないことをやっているのが、
何を隠そう、かつて短剣詰襟に憧れて兵学校に入った連中だったりするわけですね。
彼らはつまり、そういう自分たちのかつての感覚というものをさっぱり忘れてしまったか、
あるいは憧れの的たるスマートなネイビーは自分たち士官だけで十分、とでも思っていたのでしょうか。

当初案が出た、七つボタンに佩刀、全予科練生が期待した「憧れの短剣姿」は、
兵学校の反対で実現しませんでした。


それにしてもこの映画では、どの青年もきりりとまなじりをあげ、口元も固く結び、
皆が戦う男の表情をしています。
かれらに施されたのは文武両道の、完璧な教育。
英語あり、物理あり、スポーツでは武道、水泳はもちろん、ラグビー競技をする姿もあります。

そして、すべての厳しい過程を終了し、卒業するかれらが敬礼をしながら歩を進める姿。
それがかれらの蛇蝎のように嫌っていた水兵服姿であるにもかかわらず、
その凛々しさ、逞しさは圧倒的迫力で心を打ちます。


ジョンベラのあなたたちは自分が思っているよりずっとかっこいいですよ。



画像の木村一飛曹は、真珠湾攻撃で初陣を飾り、その帰還後も武運強く戦い抜きました。
ミッドウェーでは被弾する直前の赤城から、板谷少佐の乗機に飛び乗って、発艦し生還しています。
赤城から発艦できた零戦は、木村一飛曹の乗った一機だけでした。



参考:零戦の栄光 より、「わが初陣の翼下に真珠湾燃ゆ」木村惟雄