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板倉光馬少佐~回天指揮官の苦悩

2012-10-01 | 海軍

             

板倉光馬
大正元年(1912年)11月18日小倉市出身
海軍兵学校61期
伊54潜、呂34潜(航海長)、呂34潜、伊69潜(水雷長)を経て
伊176潜、伊2潜、伊41潜艦長
2005年(平成17年)93歳で死去


二回にわたって人間魚雷「回天」を開発し、その開発過程で殉職した黒木博司大尉と、
最初の回天戦に出撃し本懐を遂げた仁科関夫中尉についてお話してきました。
板倉光馬少佐が、その二人の回天隊の指揮官となり、その開発を、訓練を、そして出撃を
見送ったということにも触れたのですが、この回天基地のある大津島に板倉少佐が赴任したのは
昭和19年、9月1日のことでした。

前々回お話した黒木大尉の殉職はこの赴任からわずか5日後です。
この日付を見たとき、しばし信じられない思いでした。

板倉少佐は「特攻部隊を指揮できる資格など自分に無い」と渋ったものの、
命令を断ることもできず、「指揮官先頭」として自分が一番先に行くことを決意して着任しました。
早々にその意向を具申し、上官からは
「回天隊員の育成が先決である」
とそれを却下され、さらにはやる板倉少佐を、黒木大尉と仁科中尉がやはり
「今一番大切なことは回天隊員を育てることです」
と説得しにきたという一連の出来事が、全てこの数日の間に起こっていることになるからです。

あまりにも短い日々の間に、奔流のように様々なことが決定され、
ある者は生きることを定められ、ある者は死んでいきました。
あの頃、戦争のさなかに生きた人々の運命の苛烈なことに、ただ凝然とする思いです。

板倉夫妻は最初の子供をちょうどこの9月に授かっています。
仁科中尉ら回天の隊員は皆喜びました。

「自分たちは子孫を残してゆかれないけども、指揮官、坊ちゃんをしっかり育ててください」

殉職によって黒木大尉を失い、阿修羅と化して回天隊を率いていたその当時、
仁科中尉は新しく命が生まれくることに対し、このような言葉をかけました。

自分たちの死が守るものは、即ちこのような次の世代の日本人なのだ。
かれは自分の死の意義を、奮い立つような気持ちと共に確認したのかもしれません。

この二カ月後、仁科中尉の「菊水隊」は出撃しました。
出撃の際、板倉少佐が
「俺もすぐ行くからな」
と声を掛けると、仁科中尉はニコニコと笑って
「指揮官は七へん目くらいに来てください」
と言いました。

出撃12日後の11月20日、仁科中尉は戦死します。
このときの攻撃によって、油送艦「ミシシネワ」が轟沈しました。

その頃、めったに家に帰ってこない板倉少佐が呉の自宅にかえってきた様子を、
夫人の恭子さんが語っています。
軍刀も外さないまま上に上がり、畳に転がって、顔を覆って泣きながらとぎれとぎれに、

「仁科たちはいまごろ・・・・・それに俺は生きている・・・・・・・」



回天については出撃した搭乗員のインタビューを始め、「特攻の島」(漫画)も含めて
いくつかの資料に目を通しましたが、さらにインターネットでもかなりの情報を見つけました。

その段階で、あるHPを見つけました。

以前「海軍のせいで戦争は起こり海軍のせいで戦争は負け、
多くの人命が失われたのはこれ全て海軍の無能の所為である」
と、海軍ばかりを非難するサイトについて少し触れたことがありますが、
どうやらこれもその同じ作者の手になるものではないかと思われました。

回天の仕組みや、その作戦、その他詳細に図解までして検証しているので何気なく見ていたら、
説明の合間合間に、「だから馬鹿」「だから無能」「だから低脳」などの罵詈雑言と共に
「東京裁判をもう一回してこいつらを裁くべきだ」と言う文言がくまなく挟まれており、
正直、そのあまりにも感情的で冷静さを欠いた部分が、
他の、きちんと自分なりの考察をした部分を台無しにしている感は否めませんでした。
もしかしたらこの編者は海軍特攻で肉親を失いでもしたのでしょうか。

特攻で我が子を失った家族が、その身を抉るような悲しみをどう耐えたか。

戦中こそ「お国のため」「軍神」「特進」
という言葉でそれは維持されましたが、戦後、「日本誤謬論」「日本悪玉論」
(「自虐論」とは言いません。これらの提唱者は決して「自分を責めている」のではないからです)
がまるで良心的日本人の総意であるかのようになってしまったこの日本において、
最愛の肉親を失ったやり場のない怒りを、
「戦争を起こした日本」
「特攻を考案した海軍」そして
「特攻を組織した上層部」「出撃を下命していながら生き残った上官」
にかれらが向けたとしても、それはいたしかたないことであったように思われます。

昭和37年(1962)、回天搭乗員の遺族と生存者が「回天会」を立ち上げました。
その会に、板倉光馬氏と夫人の恭子さんは参加したのですが、恭子さんは何度か参加するうちに
他の参加者から何とも言えずよそよそしい、非難するような視線を投げられるのに気付きました。
会を重ねるたびにその視線に耐えてきた恭子さんでしたが、何回目かに意を決して発言しました。

板倉指揮官が最初の出撃に自分が往くことを具申し黒木大尉や上層部にとめられたこと。
子供が生まれたとき、仁科中尉らが喜んでくれたこと。
その子供が翌年亡くなったとき、人前では「自分の子供が死んだくらいで帰るわけにはいかない」
とさえ言っていた板倉指揮官が、皆に騙すように家に帰された深夜、息子の亡骸を抱いて

「あんたが生まれて、俺は何時死んでもいいと思っていたのに、どうして死んだのだ」

と泣いているのを見た回天隊員が

「人は鬼参謀で血も涙も無い人だと言うが、この人の下で死のうと思った」

と他の隊員に泣きながら語ったこと。

敗戦の報に接し自害しようとしたとき、隊員の自決があり(橋口寛大尉)
自分の使命は死ぬことではなく彼らを死なせまいとすることだと覚悟したこと。

その話が終わったとき、一人の元下士官搭乗員が進み出て
「奥さん、知りませんでした。申訳ありません」と言いながら泣きだしたのをきっかけに、
他の者も次々に恭子さんの側に来て、皆で泣いたのだそうです。


「戦争」という絶対的な罪悪の下に命を失った家族を持つ人々が、その「直接の責任」
を、誰かに求めることでその空虚の充填をしようとする心理は、ごく自然なものです。

しかし、歴史の中に組み込まれ、逆らうべくもない流れの中にある個人はあくまでも非力で、
命じるものもまた命じられ、個々の意思など全く意味を持たなかったのです。

板倉恭子さんは、戦後仁科関夫中尉の母親とも偶然の邂逅をし交流を温めました。
仁科中尉の母親によると、彼女に向かって

「あんたの息子があんなものを作らなければ家の息子は死なずにすんだ」

などと言う遺族もいたということです。

黒木大尉が回天を開発したのはこれが航空特攻に繋がることを期してのことであった、
という話を黒木大尉について語る稿でお話しましたが、実際は回天の初出撃よりも早く、
全く別の源流から神風特攻は生まれるべくして生まれました。

「自死によって未来の日本人が生きること」

これが、大西瀧治郎長官にとっても、黒木博司大尉にとっても、
日本が特攻作戦を選択するべき真の理由でした。

当時の日本人が追い詰められた状況、その精神的な揺籃からすでに
「生きることは死ぬことと見つけたり」という死生観を持っている日本人が
このような歩みを進めたのは、言わば必然というものではなかったかと、わたしは思うのです。

つまり、大西長官や黒木大尉がいなくても、
「誰かがそれをやった」
のではないでしょうか。




前述のサイトの運営者は、回天の開発者の黒木大尉さえをも、その武器としての欠陥性や、
作戦の稚拙さは勿論、特攻兵器を生み出した醜悪な思想の持ち主として断罪します。
この運営者の不思議は「陸軍」「大本営」は非難せず、そして「予備学生」を被害者としていることで、
もしかしたら、ただ「海軍兵学校」が嫌いなだけなのかと思わないでもないのですがそれはさておき。

「ひめゆりの塔の怖さ」という項でも指摘しましたが、あの時代に、あの流れに
組み込まれたものにしか説明できないことがあります。

「かくすれば かくなるものと思いつつ やむにやまれぬ 大和魂」

先日、任務の遂行に殉じた自衛官の話をしたときにもこの句を挙げました。
誰だって死ぬのは怖い。
しかし、現代においても、人はそれをも凌駕する「自死の意味」に殉じて振る舞うことがあります。

そして、人に死を命じるなら自分がまず征くべきであると考え、
板倉光馬少佐のように自死の道を選ぼうとし、実際にもそうした指揮官たちもいました。

その指揮官たちの苦悩も顧みず、低劣なもの言いで、ただ断罪し非難するこのサイトの運営者は、
自分が仮にその時代に指揮官の立場で、命令を受けなければ板倉少佐のように
・・・・・・例えば、
「無駄な特攻は出さないでほしい」と具申し、
激昂した上層部の抜いた白刃に囲まれたとしたら、どのようにふるまえたというのでしょうか。

「そんな仮定はありえない」

ともしそういう立場にある自分すら想像できない、というのなら、
そもそも戦争で戦った人々を糾弾する資格は、あなたには、ない。