ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

甲板士官のお仕事

2012-04-09 | 海軍

       

全く画像とは雰囲気の異なる話からお付き合いください。
芥川龍之介が「ショート・ショート」とでもいう一口小話のような三篇の短編小説を、
海軍の艦船に乗りこむ若い中尉を主人公に書いているのをご存知でしょうか。

「三つの窓」という題です。

その一つの話に、甲板士官が下士官に懲罰を与える際、
「善行章を取り上げてもいいから、部下の手前ここに立たせるのはやめてほしい」
と懇願するのを無視して(そちらの方が合理的な罰だと信じて)いたところ、
下士官はそれを恥じて煙突に垂れる鎖で頸を吊ってしまったいうものがあります。

下士官の死にショックを受けたらしい甲板士官は何度も繰り返すのでした。

「俺はただ立っていろと言っただけなんだ。それを何も死ななくったって・・・・・」

(「芥川龍之介全集6」ちくま文庫、筑摩書房)

このように、甲板で起こる様々なことを仕切り、ねじを巻き、逸脱するものに罰を与え・・。
それが甲板士官の仕事です。

海軍では「尉官は勤勉、佐官は判断、将官は人格」と言われました。
どの世界でも同じですが、経験のない若いモンは、脚を使って身体で仕事を覚え、
ベテランとしてアブラが乗ってくると現場の的確な判断によって部下を動かし、そして、
それで結果を出して偉くなり、皆がへーこらしてくれるようになると、物事を俯瞰で見、そして
時には情も汲みつつ戦略的政治的判断をする「将器」、大きくは人格が必要、というわけです。

現場を知らない少尉中尉、つまり「初級士官」は、何より身体をまめに動かしてナンボ、
というのが、特にフネの上の海軍的常識となっていました。
甲板士官は、それこそガンルームの席を温める暇もなく甲板を朝から晩まで飛び回り、
「ニワトリ」とあだ名されるが如く、甲板のあっちこっちをつついてまわるのがお仕事。

兵67期、第三〇二空の零夜戦隊長であった荒木俊士大尉について書いたことがありますが、
荒木大尉が甲板士官であったとき、「髭の荒木」と怖れられた、という話をしました。
猛烈果敢に下士官兵をシゴいたことからついたあだ名です。
勿論のこと問答無用で鉄拳制裁も行ったのでしょう。

余談ですが、戦後下士官であった人の手によって書かれた海軍ものは、
士官のそれとは違った「下から目線」が、非常に面白い読み物が多いのですが、
必ずと言っていいほど「問答無用で殴る士官」への恨み、
ひいては海軍組織そのものに対する繰り言がどこかに入ってきます。

逆は決してあり得ないわけですから、
上意下達、階級絶対の「下」に行くほど、感情的不満が渦巻くのは当然のこと。
どんな理由があっても殴られて、
「ありがてえありがてえ」と無条件で思えるほど悟りきった人はめったにいないでしょうし、
「鍛えるのが仕事、恨まれて上等」の初級士官たちも辛い立場には違いありません。
・・・が、その話はまた別の日に。


こちらは元士官さん。
戦後、温かみのある闊達な文章で作家として成功した松永市郎氏(兵68期)は、甲板士官でした。
その海軍生活記「思い出のネイビーブルー」では、甲板士官としてしなければいけないことが、
これを読めばすぐわかる、といった具合に、そのお仕事ぶりが描かれています。

松永氏いわく、甲板士官とはいわば「事務長」でありかつ、港湾荷役業務と清掃業の作業管理者。
フネの中で何か・・・例えば食糧品買付のための人選が必要だとか、何処かの排水が詰まったとか、
そういったことが起これば、必ず誰かが呼びに来るので、すぐさま飛んでいきます。
フネの外でも、下士官兵が問題を起こせば、たとえ女郎屋でも頭を下げに行かなければなりません。

甲板掃除の監督は勿論のこと、
散々話題にした「ネズミ上陸」ですが、この際ネズミの再利用防止のためネズミのひげを切ったり、
まじまじとネズミの鼠相風体を観察して「輸入」(持ち込んだ)ネズミではないかの判断を下すのも、
実は甲板士官の重要な役目だったのです。
(先の『三つの窓』の第一話はネズミ上陸のこの輸入が話題になっています。
芥川は『軍艦金剛乗艦記』なども書いており、この経験から彼の中で『海軍ブーム』があったのかも)

時には兵たちの心をぐっと掴む「ご褒美」を与えたり、大岡裁きによって不満をなだめたり、
つまり、部下を鍛え上げながら、自分自身も否が応でも鍛え上げられる職場と言えましょう。

松永氏は練習艦隊で、ある甲板士官から「甲板士官は五感を働かせろ」と講義されたそうです。
眼で見て耳で聞き鼻で嗅ぎ、裸足で歩いて(画像)甲板の掃除の出来を判断する。
ここまではわかる。
「では、味覚はどんな場合に使いますか?」
この甲板士官は、あまり深く考えずに五感という言葉を使ってしまったと見え、
(おそらく苦しまぎれに)こんなことを言ったそうです。


「最初に兵員厠に行ったら、便器の中を指でこすりつけ、その指を舌で味わってみろ。
この後、放っておいても艦はいつもきれいになる」


・・・・松永中尉は、その後あくまでも四感で甲板士官の任務を乗り切りました。

しかし、前述の如く、いざ厠の汚水管が詰まってしまったら。
管を取り外して頭から色々なものをかぶることを覚悟の「特別作業隊」を編成の際には、
「わたしにやらせて下さい」と言う(しかない)のも、また甲板士官(これは候補生)の役目。
そして一人がこう言えば「わたしも行きます」と言う(しかない)のも残りの候補生甲板士官。

中甲板士官であった松永中尉は、彼ら一人一人を挙手の礼でマンホールに見送ります。
かくして作戦成功のあかつきに、頭からいろいろな汚水管の内容物を被った決死隊の
二目とは見られぬ、しかし神々しい姿を、涙のうちに迎えたそうです。

(この本、本当に面白いので、ぜひ一読をお奨めします)

さて、戦争末期にそれどころではなくなるまで、フネは、一般人も見学することができました。
どういう手続きを踏むのかは分かりませんが、
「その辺で遊んでいる子供を連れてきて案内した」林谷中尉のような例もありますし、
Sをガンルームに連れ込んでこっそり合コン?ということもあったそうですから、
比較的簡単にそれはできたのかもしれません。

松永甲板士官が候補生のとき、退役した老大佐が美人の孫娘を伴って見学に訪れました。
相手が元海軍軍人と言うので、あまりふざけたことも言えず、調子の出ないままに案内していたら、
「候補生、艦長のお名前は」
「はい、艦長は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
いつも艦長、艦長と呼んでいるので直ぐに出てきません。
仕方が無いので何か言おうとして
「これは残飯捨て口です。スカッパーと言います」
老大佐「・・・・・・・」
孫娘「・・・・・・・・・」
松永候補生「・・・・・・・・・・」

老大佐、今度は
「ところで候補生、副長は何とおっしゃるか」
いつも副長、副長と呼んでいるので(以下略)

その後すぐ、そそくさと「用事を思い出して」帰って行った二人を見て
「もしかしたら、あの孫娘(繰り返しますが美人)のお婿さん探しだったのか・・・・」
と純真な胸を痛めた松永候補生でした。


松永候補生が応対した老人のように、海軍軍人とお見合いさせるため、
お相手を抜き打ちでいきなりフネに連れてくる人がいました。

海軍軍人であれば、フネの上が一番輝いて、普段の数倍男前に見えるに違いない!
そういう判断のもとになされたゲリラ型お見合いでありましょう。
余談ですが、エリス中尉の卒業大学では、学内コンサートにお見合いの相手を招待し、
そのステージ上で光り輝く己が演奏姿を相手に見せつけ、その結果、
「卒業したら結婚するのー」
と指輪を見せびらかしていた級友(ピアノ科と声楽科)が何人かいましたが、
まあ、そういった計略、じゃなくて趣向ですね。

ところが。

もうお分かりでしょうが、甲板士官は散々述べてきたように、便利屋さんの親玉みたいなものですから、
一日中、如何なる事態にも迅速に対応するべく、フネの中ではそれなりのスタイルで職務に当たります。
ズボンの裾は膝までまくり上げ、裸足が基本。肩には懐中電灯、手には甲板棒。

白やネイビーブルーの軍服に短刀吊った粋な海軍士官を夢見ていそいそ乗艦してきたのに、
相手は棒きれ持った小汚い作業服の男だったので
おぜうさんは、すっかり幻滅してこの話を断ってしまいました。
馬子にも衣装の逆ですね。

そんな恰好に身をやつしていても
「この姿でこんな素敵な方なら、士官の姿になればさぞかし・・・・・」
と思ってもらえるほど「実力のある」士官さんではなかったということでございましょうか。








「男たちの大和」と「戰艦大和」

2012-04-07 | 海軍

昭和20年の今日4月7日14時23分。
戦艦大和が沖縄沖に沈没しました。
今日は、二つの大和映画について書いてみます。

テレビのなかったうちにディスプレイが届き、大画面で最初に観たのが「戰艦大和」であった、
という話をさせていただいたのですが、この映画「戰艦大和」、1953年作品の、勿論白黒です。

「連合艦隊」「山本五十六」「ミッドウェイ」・・・・・。
戦艦大和の出てくる映画は数あれど、「大和」とタイトルにつけ、大和が主人公の映画は、
「宇宙戦艦ヤマト」をのぞけば、この「戰艦大和」「男たちの大和」二つです。


かねがねこのブログを読んで下さっている読者の方は、
エリス中尉が2006年作品の「男たちの大和」にいかに点が辛く、逆に、
終戦後すぐに作られた白黒の戦争映画に評価が甘いかよくご存じだと思いますので、
この二つの映画をタイトルに選んだ時点で、だいたい結果ありきの、
「前者下げ、後者上げ」の内容ではないか?と思われたでしょうが、
誤解のないように言っておくと、「男たちの大和」は、良い映画だと思います。
ドラマとして。

戦争を舞台にした人間ドラマとして、この映画が感動的であることを否定はしません。
でも、それは普遍的なドラマとしてであって、
「大和を描く」「戦争そのものを描く」とはまた違う観点のものだと思うわけです。
「男たちの大和」の監督は、反戦をテーマにしている、とはっきり言い切っています。

といいつつ今日の企画は

「男たちの大和」と「戰艦大和」徹底というか一部比較!(今考えた)

もしかしたら語って行くうちに「男たち」のいいところも見つかるかもしれない(笑)
ということで、あまり偏見を持たずに粛々と比較をしていきたいと思います。

<原作>
誰の目を通して、映画という媒体で大和を語っているか、ということでもあると思うのですが、

「戰艦大和」は吉田満の小説「戦艦大和ノ最後」
吉田氏は若手士官として実際に大和に乗りこんでおり、
大和沈没時には駆逐艦「冬月」に救助された生還者です。
主人公といった役割の「吉村少尉」が、吉田氏をモデルにされて、
物語は吉村の独白と共に、吉村の見た戦艦大和の最後という形で進められます。

「男たちの大和」は、それが題名でもある辺見じゅん氏のノンフィクション。
戦後世代で、女性でもある作者が、生存者の証言聴きとりをまとめ上げたものです。

もうすでに、このあたりから両者の立ち位置というか語り口が、
全く別の次元になってしまっていることにご注意ください。

<主人公>
前者が、吉村少尉(吉田満)がそのまわりに起こったことを述べる視点なのに対し、
後者は、たくさんの聴きとり対象者の体験をまんべんなく語ることを目的にしており、
創作された架空の人物に、実際の証言にみられたエピソードを間配る、というもの。
かなりの変更がなされているので、原作をイメージして観た場合、混乱させられるという話も。

その中心的人物は、「戰艦」が士官、「男たち」が下士官と水兵
「男たち」は、インタビュー対象者が圧倒的に下士官兵が多かったらしく、
自然とこうなってしまったようです。
主人公は、特別年少兵の神尾一水
生き残った老神尾が往時を語る、という形でドラマは進められます。


<舞台>
「戰艦」は、ほとんどが大和の中に終始。
巡検の様子や、吊り床などのほか、大和の日常は士官室が多い。

「男たち」は、現代の人物と大和のかかわりから説明しなくてはならず、ただでさえ、
主人公の故郷やら幼馴染との何やかややら、描くことが多いので、大和の中のシーンは、
「舷門」「炊事場」「砲座」「士官室」「下士官の罰直コーナー」
が、ほんの少しずつ登場します。

先発の「戰艦大和」の表現を、どうしても意識せざるを得なかったと見えて、
「男たち」では、「戰艦」とのバッティングを避け、
「デッキ磨き」「海軍体操」など、「戰艦」とは違うシーンを盛り込んでいます。

「男たち」は前の項でも書いたように、25ミリ対空銃座が主な舞台。
実物大の模型セットを作ってしまったので、それを使わないと勿体ないとばかり、
戦闘シーン、訓練シーン、あの広い大和艦上の、ここばかりが画面に登場。
「男たちの大和」あらため「男たちの対空銃座」という方がふさわしい展開になっています。
「戰艦」のほうは、艦橋基部と、高角砲が実物大の屋外セットで作られたそうです。

「戰艦」が、機銃、高角砲、主砲が最後まで沈黙せず撃ち続けたという表現をしており、
各部署配属の士官たちを追う関係で、まんべんなく各配置の戦闘を語っているのに対し、
「男たち」はあくまで銃座優先。 (高角砲の持ち場が一瞬映りますが) 
神尾はじめ配置員は、最後の瞬間まで銃座を離れず敵機を攻撃し続けます。

<大和の最後>
「戰艦大和」は左に傾斜した大和が完全に転覆、大爆発を起こす様子を描写しています。
お金もなく、当時の稚拙な技術で、涙ぐましいほど史実に忠実であろうとするその姿勢に、
大和そのものにに対する愛を感じます。
模型まる分かりですが。

「男たち」の大和の最後は、左に傾いた大和の全体像が一瞬現れ、艦橋の皆の姿勢などから、
注意して見れば左に傾いていることがわかります。
(注意して観なければ勿論気付きません)
さらに、爆発も、爆発光と衝撃音だけで表現され、カメラが引くとすでに大和は沈んで、
爆発のあとの黒煙を噴き出しているシーン。
現代の技術を駆使していますから、このあたりは比べ物になりません。



<乗組員の人間模様>
「戰艦」は、いずれ死ぬ運命だからと婚約を破棄し、婚約者に「別の男性と幸せになれ」という
乗り組み士官の別れのシーンだけが唯一の「からみ」。
いつも妹の写真を恋人だと言いながら見せていた士官も戦死しますが、最後のシーンで、
その妹が兄の死を知らず手紙を読みながらはしゃいだりします。

軍医長の若い妻は、夫の帰りを待つ自宅で衣替えの真っ最中。
大切にたたんだ第一種軍装を夫が着ることは永遠にない、
ということを夢にも思わない幼な妻の姿に皆が涙をそそる、という演出。

「戰艦」の「親しいものも誰一人大和の死を知ることがない」という表現方法に対し、
「男たち」はご存じのとおり。

ここが、わたしがこの映画に良い点を上げられないポイントなんですよ。
乗組員と彼らにまつわる人々とのかかわり、これが実はつまり「男たち」のテーマですから、
主人公の神尾、内田、森脇はもちろん、脇役の西、唐木、常田(一水)、全員のエピソードが
複雑な家庭事情も含め、細々と描写されるわけです。

しかし、不思議なのは、乗員はともかくとして、最後の上陸をしたとき、
家族やら恋人やらが、全員「大和は死にに行く」って知っているんですよ。

神尾の幼馴染が「大和は沖縄にいくんやろ?かッちゃんも死ぬるんか?」
内田のなじみ芸者も「あんた、沖縄に行くつもり?」

お嬢さん、お姐さん方、ちょっと待った。

沖縄特攻は極秘行動。
大和に限らず、軍人には軍の作戦や行き先について何人たりとも口外してはいけない、
という軍機守秘義務があったはず。

なぜ二人とも死にに行くどころか、大和の行き先まで知っているんです?


<有賀艦長>

二つの映画で、この有賀艦長の最後の描き方は違います。

「戰艦」・・・部下に命じて羅針儀に体を縛りつけさせ、艦と共に沈む。
    「お供します」という部下に「生きて日本を造れ」と諭す。
「男たち」・・・指揮所に上がって戦闘を続けている間に、負傷し、沈没時羅針儀にしがみつく。
    周りの乗組員は全員戦死している。最後まで「総員離艦」を叫び続ける。

まさに巷間伝えられる有賀艦長の最後の姿はこの二通り。
前者は「戰艦大和ノ最後」から取られていますが、吉田氏はこれを見たわけではありません。
吉田著書中には、噂や未確認情報等、出版直後から抗議を受けたものも含め、
史実ではないことが含まれているそうですが、だからこそ「小説」と断っているわけで・・。

いくつかの証言によると、鉄兜を被り白手袋をした有賀艦長が羅針儀を握りしめていたこと、
そして第一艦橋まで降りてきてその後姿を消したことなどが伝わっています。
「男たち」の有賀艦長(奥田瑛二)は、こちらの説にそった最後を遂げています。


ところで本日画像に何の説明もないまま最後まで引っ張ってしまいましたが、
<臼渕磐大尉>
画像は、大和ミュージアムに展示されている臼渕大尉の肖像です。

今まで、臼渕大尉が映画に登場したのは二回。
まさにこの二つの映画であったわけですが、ちょっと、これどう思います?

伊沢一郎、41歳。
長嶋一茂、39歳。


いずれも、映画上で臼渕大尉を演じた俳優のその当時の年齢なんですが、
臼渕大尉が大和特攻時何歳であったかというと、

21歳

ですよ?
なんでそろいもそろって年齢が実際のダブルスコアな二人を使うかな。
昭和20年ころ、士官は兵学校を3年で卒業し、卒業後もあっという間に進級しましたから、
昔は年齢的にまだ少尉候補生であったはずの海兵70期はすでに大尉。

長嶋一茂の方は妙に若く見えるので、見た目30歳くらいかな?って感じでしたが、
この伊沢さんが・・・・。
どう見ても41歳以上でも以下でもない臼渕大尉で、本日画像の、
まだ幼さの残る、眉目秀麗白皙の秀才の面影、まったくなし。
一茂も、こちらはどこをどう見ても秀才に見えないし(←失礼?)。

臼渕大尉問題に関しては、どちらの映画にもダメ出しさせていただきたい。

そしてそう考えてみると、ガンルームで言いあいをしているガンルーム士官も、
「男たち」の方はどう見てもおじさんばっかり。
臼渕大尉よりも階級が下ってことは、士官、予備士官共に全員20歳そこらであったはずなのに。


「戰艦」の方は無名の丹波哲郎が少尉役で顔を出しています。
このとき丹波はすでに29歳なので、これも少尉にしては老け過ぎです。
(遅咲きの新人だったんですね、丹波さんって)
しかも、大和で最年少だった73期の海兵卒士官はこの直前中尉に昇進していたので、
つまり「少尉」は大和に乗っていなかったわけ。
吉田満はこのことも知っていたと思うのですが・・・・。

どちらの映画でも臼渕大尉は、吉田本に著される通り、士官と予備士官の間の争いを止め、
「日本の新生にさきがけて散る。まさに本望じゃないか」ということを言いますが、
「男たち」で使用されたこの場面に対して、吉田氏の遺族が「エピソードの無断借用だ」
とする抗議をしたとかしないとかの話を、どこかで読みました。

実はこのセリフは、吉田氏が「大和乗員の想い」を代表して臼渕大尉に言わせた、
つまり、結局「吉田氏の創作」ではないかとの説もあるそうです。

あらら。・・・・ってことは、創作物の無断借用、ってことになるのかしら。


「戰艦」で教導を務めた大和副官、能村大佐の役をするのが、藤田進
役名も能村大佐で、この映画でのもう一人の主人公でもあります。
能村大佐が実際に体験したことも盛り込まれており、沈没後、
浮遊物につかまって漂う乗員の中で、この能村大佐が大声で「生存者は姓名申告!」
と叫んでいるところに、米軍機の機銃掃射が襲ってくる様子も描かれていました。


<敵愾心>

敵に対する気持ち、例えば米英撃滅やら本土攻撃の敵やらのセリフはどちらも全く無し。
そもそも反戦目的に作ったと監督が公言している「男たち」は勿論、「戰艦」の方も、
戦いに赴く個人、死ににゆく大和に焦点があり、そこに「敵」は見えません。

「男たち」敵愾心に燃えて狂ったように銃座に座り続ける乗員が描かれていますが、
何に対して、という感じではなく、まるで「自然災害」と戦ってでもいるような粛々とした様子。
これは実際に戦争を経験した方たちが、不思議と「米英を憎む」というより
漠然とした敵、まさに災害としか言いようのない大きなものと戦っているようだったと、
一様に言っていることにも通じる気がします。

(勿論沖縄や、原子爆弾の投下された広島や長崎の被災者は除きます)


<描きたかったもの>

「戰艦大和」が大和とその最後を描きたかった、というのは万人の認めるところ。
では「男たち」は?
これはどう見ても「大和に乗っていた人間のドラマ」でしょう。

後者において、人間ドラマを優先したため省略された「大和ならではの逸話」があります。

菊水作戦発令の際、第二艦隊司令伊藤整一中将の命令で、
少尉候補生、傷病者、古残兵が艦隊から降ろされました。
実戦経験も配置もない、実質足手まといになりかねない候補生はともかく、
「大和の主」を自任していたある古残の下士官兵は、直接有賀艦長に談判に乗りこみ、
抵抗するも、結果的に説得されて涙ながらに艦を降りたそうです。

「戰艦」では、この様子がこのように描かれます。

艦を降りる古残兵に少尉が
「おやじのような年齢のお前に命令するようなことになったが、これも軍隊だ、許せ」
といい、言われた老兵が涙をこらえ、
「武運長久をお祈りします」と答える・・・。

これですよ。
こういうシーンを描いてこそ、戦争映画なの!

今回、この項を書くためにどちらの映画もじっくり観直してみたのですが、
「男たち」が映画として感動的であればあるほど、
「死なんといて!」やら「俺だって死ぬのは怖い」やら、「帰ってきたらお嫁さんにして!」やら、
戦争そのものでなく、それをまるで「災害」として捉えているかのような表現が多ければ多いほど、
「こんなもん、戦争映画じゃないやい!」
と反発してしまう自分がいる・・・。

「真珠湾からの帰還 捕虜第一号と呼ばれて」(でした?)というNHKのドラマに感じたように、
戦争そのものを、その通りに描くことと、
感動的なドラマを描いて感情的に反戦を訴えることを
、混同しないでいただきたい!

つまり、このテの映像創作物全てに対する不満が、結局確認できる結果に終わりました。

それから、もうひとつ。
<軍艦行進曲が劇中で使われたかどうか>。
これだけで、わたしは「戰艦大和」を評価したいです。音楽は芥川也寸志。


<結論>

最近の戦争映画って、どうして必ず「現代」とオーバーラップさせるんでしょうか。

もともと重傷でさらに戦闘で負傷した内田兵曹がなぜか生きていて、戦後養女をもらい、
その娘が父の死後、偶然出遭った神尾一水と一緒に、大和沈没地点で骨撒き。


この展開、ご都合主義も度が過ぎませんか?
だいたいもし生きていたなら、内田兵曹、絶対戦後神尾に連絡を取りませんか?
あらためて思うんですが「男たちの大和」の現代部分って、本筋に必要ですか?
無理して現代部分を創って、ほころびも出るし、全体が薄い感じは否めないし。
つまり、脚本が○○。(←適当な二文字を略)

「戰艦大和ノ最後」は戦後すぐ書かれましたがGHQの検閲に遭い、1952年に出版されました。
映画はそのわずか一年後、1953年に公開されています。
米国艦を撮影に貸し出そうという話もあったそうですが、「菊の御紋」をつけたいと言ったら
米側はつむじを曲げて話はなくなった、というくらい、まだ何かとピリピリしていた頃です。

しかし資料も情報も資金も限られた状況下で、この入魂ぶりは驚くべきだと思います。
稚拙な模型の戦闘シーンや、考証の甘さ、役者の演技の稚拙さもさほど気にならない
「現実を超えた映画」と言えましょう。

<各映画を一言で>
 
「戰艦大和」・・・大和に対する愛が、全てを超えた名作。
いわば愛国無罪、じゃなくて愛大和無罪映画。

「男たちの大和」・・歳をとって、海軍式の敬礼もきれいさっぱり忘れてしまうような
ボケた神尾一水の老後の描写などいらないから、その分「戦艦大和」を描くことに
専念していただきたかったと思います。

一言になってない





 


ハトヤマ・リスク

2012-04-06 | 日本のこと

うわー。

どうします?
「鳩山元総理大臣、イラン訪問中止要請を拒否」

つまり、野党の皆さんは勿論のこと、政府ですら「行くな」と言ってるのにそれを拒否したと。
二重否定は強い肯定。
何が何でも行くのね。

一体この訪問の目的は何なのでしょう。
実家がブリジストンだから、石油のお願い?
友愛による世界平和を説きに?
アメリカの悪口を吹き込む?

そして、世界中の反対を押し切ってまでイラン行きを強行するわけは?
ジミー・カーターみたいにノーベル平和賞を狙ってる?
友愛教の教祖として世界にアピール?

嗚呼全く、無能な働きものほど厄介なモノは無い、の生ける証左とは彼のことでしょうか。
今度は一体何にコントロールされているの?
地球が生まれて数億年、すべてを支配する宇宙の意志かしら?

当然のことながら、各方面から「やめろコール」が矢ぶすまの如く降り注いでいます。

外務省「首相経験者が軽率な言動をすれば日本外交に悪影響を及ぼす」
もし、首相経験者がまともな人間であれば、こんな意見はでなかったでしょうね。
まともなら。
それにしても軽率な行動をするとほぼ決めてかかられる首相経験者って一体・・。

官房長官「中止するよう政府として要請している」

外務大臣「あたかも政府の代表のように行って二元外交にならないように注意する」

野党議員「きっとろくなことにならない。羽交い絞めしてでも止めてほしい」

マスコミ「沖縄基地問題でもその発言で物議をかもしたので心配(する声が多い)」

国民「アルカイダに拉致されてコーランの流れるビデオに目隠しされて出演するの希望」
(一部)

この人、インドのシン首相に向かって、「仏教の精神で云々」と言って呆れられた前科も
あるんですよね。
インドに今仏教徒はわずか1パーセント弱しかおらず、ほとんどがヒンドゥーとイスラム教徒。
シン首相はシーク教徒です。(シーク教はヒンドゥーの一派でイスラムの影響を受けている)
前首相の管さんもそうですが、勉強はできてもどうやら教養というものがさっぱりないらしい。
少なくとも、自分が今から会おうとしている要人の国について、知らないなら知らないなりに、
調べてからことにあたろうという気も全くなかったらしい。

イスラム教の国に赴任して、手土産に人形を持っていく日本人ビジネスマンが顔色を変えて
止められたという話があるように、あるいは平和な日本からバックパック旅行をして、
拉致され殺害された青年の話が示すように、日本人の平和ボケは今や害悪レベルです。

しかもその平和ボケ日本人の中でもトップクラスにボケていると思われる人物が、
脳天にお花咲かせて行くわけですから、
(もっとも、行かれたら困るような人間を外交顧問に据えたのはどこのだあれ?って話ですが)
日頃意見が決して合わない与野党、さらにマスコミ、国民が、いまや

「うわあああああやめろ行くな」

と心と声を一つにしているのです。


・・・・・もしかして、これが鳩山由紀夫の目指す友愛のカタチ?


むこうで「ムハンマドの唱えるイスラムの友愛はわが民主党の友愛と同じ。
ところでぼくは友愛精神を広めるために自分の名前を友紀夫に変えてなんたらかんたら」
とか滔々と語って、唯一神教のイスラム教徒を激怒させてお仕置きされてこい。
万が一拉致られても、身代金はママのお小遣い分から差し引いて払ってもらえばいいんでない?

あ、個人で行くんだから、あくまでも「自己責任」でね。







映画「ブルー・マックス」~リヒトホーフェンになりたかった男

2012-04-05 | 映画

撃墜王マンフレート・フォン・リヒトホーフェンは、その飛行技術のみならず、
敵を尊重する騎士道にのっとった戦い方、優れた容姿と貴族の血を引くこと(男爵)などから、
第一次世界大戦中のスーパースター的存在でした。

映画「レッド・バロン」で、敵国であるフランスの、しかも歩兵にサインをねだられるシーンが
ありましたが、その名は広くヨーロッパ、アメリカ、そして日本にも鳴り響いていたのです。

同じドイツ軍のパイロットがその名に憧れ、第二のリヒトホーフェンになることをいかに熱望したか。
この映画は、ある下層階級の野心的な青年が撃墜王になることを目指し、軍に利用され、
そして失墜するまでを描きます。

主人公スタッヘル少尉

伍長上がりの少尉が航空学校で優秀な成績を取り、陸軍が航空部隊に赴任してきます。
この映画、ドイツ空軍を扱ったものでありながら、ハリウッド製作なので言語は全て英語。


隊長のハイデマン。胸に「ブルー・マックス勲章」が輝く「20機以上撃墜のエース」。
英語なので「ブルー・マックス」ですが、正式名は「プール・ル・メリット勲章」と言います。
プロイセンの勲章なのに何故かフランス語で直訳「メリットのための」。
ブルー・マックス或いはドイツ語でブラウアー・マックスは、その色から来た通称です。

この最高名誉勲章を得ることが、スタッヘルの野望です。


彼が父親の職業を報告しているときの皆さんの意地悪そうな顔。
スタッヘルの父は部屋数5つのホテルの従業員。
それを皆の前で報告することになり、屈辱を感じます。



しかし、成り上がりであるからこそ何としてでも欲しいブルーマックス。
隊長の説明を聞かず、首のブルーマックスをガン見するスタッヘル。



パイロットとして腕に自信のある彼は、出自をも大逆転できる、このブルーマックスに、
全てを賭けることを決心します。



初出撃で念願の初撃墜を喫する彼ですが、一緒に出撃した僚機を失います。



彼の撃墜を確認していた僚機の士官が死んだので、この撃墜は未確認扱いになります。



そうはさせまじと目を剥いて主張するスタッヘル。
「ここや!ここに落ちたんや!一機撃墜確実や!」(なぜか大阪弁)



「陸軍が未確認と言ったら未確認なの!」

とすげなくされるもあきらめられないスタッヘル。
豪雨の中、下士官にサイドカーを運転させ、撃墜した飛行機を探しに森の中へ。
もう、コイツ一人のために大迷惑。
部下も仕方がないから言うことを聞いていますが、内心「なんじゃこのおっさん」と
忌々しく思っているらしい表情を隠しません。
撃墜機は結局見つからずに、隊に帰ってきて、「御苦労」一言だもん。
全くいい性格してるわ~。
上にも下にも嫌われる、嫌われ者決定。



くやしまぎれにずぶぬれのまま、隊のエース、ウィリ・クリューガーに噛みつきます。
「撃墜機は20機っていうことですが、今まで未確認は?」
「あるとも。三機だ」
「なら撃墜数は23機ですね!」
「いーや、20機だよ(笑)」



隊長には
「搭乗員がいちいち撃墜した飛行機を探しに行って基地を留守にしてどうする!」
と怒られるわ、ウィルには
「君はどうやら僚機を失ったことより、未確認機の方が大事みたいだな」
と嗤われるわ、
皆からは


こーんな目で見られるわで、踏んだり蹴ったりのスタッヘル。
でも、こんな奴、誰にも好かれないですよね。

この映画が、決して悪い映画でも、つまらない映画でもないのに、全く有名でないのは、
この主人公が一貫して全く共感できないイヤーな奴のまま終わってしまうからではと思います。
最後まで、主人公に感情移入できる「それならばこんなになっても仕方ないね」みたいな、
情状酌量に値する「いい人エピソード」が一つもないのですから。



今度こそはと張り切って出撃した空戦で、敵機をキャプチャーしたスタッヘルは、
相手を強制着陸させるために誘導します。
が、後ろで死んだと思っていた狙撃手が息を吹き返したのを見るなり、スタッヘルは
パイロットごと飛行機を皆の目の前で撃墜してしまいます。



「なんだって、殺さないといけないんだ」
皆、スタッヘルのやり方に非難の目を向けます。
好かれている人間ならば、撃墜してしまったとしても何らかの事情があるかもしれない、
と思ってもらえる可能性もありますが、日頃の行いが悪くて、誰も
「狙撃手が生き返った」
というスタッヘルの言い訳を信用してくれません。


そんな皆の視線の中、挑戦的に敵機の機体番号を(布だから)ナイフで切り取り、
「撃墜確認を」と言い放ち、さらに嫌われるスタッヘル。



しかし、そんな彼に目をつけるお偉いさんが登場。
なんと、撃墜王クリューガーのおじさんでやはり伯爵のクリューガー司令
貴族のリヒトホーフェンに対し、今度は庶民出身の撃墜王スターを造ろうと目論みます。
このあたりこそが貴族の傲慢さとも言えるのですが、またそのヨメというのが(画像右)
絵にかいたような貴族ビッ×で、自分の甥、ウィリとできているんですねこれが。
見るからに肉食女のケーティ(ウルスラ・アンドレス)
この女優さん、腰ミノつけてマンモス時代の映画に出ているのを見たことがありますが、
きれいとかきれいでない以前に、猛烈に香水つけてそうなタイプですね。



甥の寝室に忍んでいくついでに、部屋を間違えたふりしてスタッヘルにコナかけるのも、
しっかり実行。
この手の女性を見ると思うのだけど、もう少し西欧の女性はたしなみというか、恥じらいを
知らなければいけないのではないだろうか。

しかし、そんなこんなで目先のご褒美ができたスタッヘル、頑張って撃墜数を伸ばし、
8機を落としたころ・・・。



狙われている赤いフォッカーDr.Iを助けて、自分が撃墜されてしまいます。



なんとそれは彼のアイドル、リヒトホーフェン男爵でした。
ここでもさりげなく「オレの友人だよ」と知り合い自慢をする貴族のクリューガー。
なんと、自分が助けたのはリヒトホーフェンだったのか!



とか言っていたら本人登場。
うわー、いい男。
しかし、周りのだれより背が低いのはいかがなものか。
185センチの身長で、死んだ時はまだ26歳ですぜ。
外国人は老けるのが早いとは言え、これはおじさんすぎる・・・。



礼を言われ舞い上がるスタッヘルですが、一緒にベルリンに来てオレの下でやらないか?
というリヒトホーフェンの誘いを断ります。
なぜなら、彼の野望はリヒトホーフェンになることで、部下になることではないから。
(だと解釈してみました。違っていたらごめんね)

そして決定的な事件が起こります。
スタッヘルが伯爵夫人と一夜を共にしたことを知ったウィリ、怒り心頭。
そんな二人が一緒に組んで出撃、ウィリはさっそく2機撃墜し、余勢をかって、
「やーいやーい、お前こんなことできないだろう」
と橋の下を飛行機でくぐって挑発。



負けん気の強いスタッヘルがさらに狭いところをくぐって挑発し返すので、
それに応じたウィリ、くぐれたのはいいけど、前を全然見ていなかったので木に激突。
もしかしたら、馬鹿ですか?
ウィリの飛行機は大破してしまいます。
驚くべきはこれを見ていたスタッヘルの表情。



薄笑い浮かべてるんですよ~。
引くわー・・・・。



おまけに、死人に口無し、クリューガーの撃墜を自分の手柄にするスタッヘル。
もう、この目を見てくだされば分かりますが、この人、危ない。

このあたりでちゃんとした人間に描いてあげないものだから、
観ているものはこいつの人格に見切りをつけてしまうわけですね。
どうしてここまで徹底的にこの主人公をクズに描いたのか、謎。



このクズっぷりをさらに強調する、ウィリの葬儀の後の二人の濡れ場。
こういう横顔を見ると、この女優さんの「底が知れる」というか、
「あれ?もしかしてあんまり綺麗じゃないんじゃね?」と思われる方も多いかと。
なんだか・・不自然な横顔だと思いません?

しかし、スタッヘルが、何かと出自に対して卑屈の裏返しのような、ナメた態度を取るので、
ビッ×といえども伯爵夫人、「下賤な平民ごときが何を言うの!」と腹を立てます。

ともあれ、ヒーローでっち上げ作戦は功を奏して、スタッヘルは今やヒーロー。
仕掛け人のクリューガーさん、大得意です。



ついに20機を超える撃墜数に達した彼に、念願のブルーマックスが与えられることに。
そして、その式典で新型の単葉機の試運転をさせようと軍は計画します。



式典前日、豪華なホテルの部屋を用意され
「とうとう俺もここまできたか・・・」と感慨にふけるスタッヘル。
感慨にふける間もなく、部屋に伯爵夫人が押しかけてきます。
ところが、何を思ったか、夫人、一緒にスイスに逃げましょう!
などと言いだします。



だって、ドイツはもうすぐ負けるんだから。
私と一緒にスイスに行って、わたしのお金で軍服を脱いで暮らすのよ!
スタッヘルにしたら
「いや、なんで俺が軍人やめてアンタと一緒に逃げなあかんの?」

「だって、ウィリと張り合っていたのも、わたしを取りあってたからでしょ?うふふ」

それ、ぜんっぜん違うから!全く勘違いだから!
こういう人いますよねー。
自分を張り合う男たちを見て喜びを感じる女。
「けんかをやめて~二人をとめて~わたしのために~争わないで~」
と言いながら実は得意になっている女。
それは違います、とあっさり男が言うと、



そして、くやしまぎれにスタッヘルがクリューガーの撃墜を横取りしたことを、
なんと知り合いの陸軍大臣とやらにいいつけます。
全く、こんな女に手を出すのが身の破滅ってやつですよ。

そして、いよいよ念願のブルーマックスがスタッヘルの首にかけられる時が来ました。
(冒頭画像)
その式典の最中、クリューガーに陸軍大臣から電話がかかってきます。
「スタッヘル少尉がクリューガー大尉の手柄を横取りしたという疑惑がある」
「それは・・・・どこからの情報ですか?」・・・ジロリ。



はい、アナタの奥さんです。
クリューガーは妻にこう言います。
「それを誰から聞いた?」
「本人から・・・」
「勲章まで受けたドイツの英雄だぞ!今さらどうしろというんだ!」



取りあえず、試験機はハイデマン隊長が代って操縦しますが、帰ってくるなり
ハイデマンは
「あの飛行機は危険です。帰って来られたのが奇跡だ」

ピコーン。(クリューガーがひらめいた音)

「あーもしもし、それでは、次にスタッヘル少尉に飛ばせてくれ」



得意満面のスタッヘル少尉。
自分が今からどんな飛行機に乗るのか、知る由もなかった。



万雷の歓呼に答えて自分の棺桶(予定)に乗りこむスタッヘル。



え?なんであの飛行機にスタッヘルが乗ってるの?
危ないってオレ言ったよね?
信じられない思いで飛行機を見つめるハイデマン隊長とその妻。(岡田茉莉子)



 怖い・・・。








「・・・・・・・・」

ところで、「どうしてそんな密告をしたのだ!」とクリューガー司令が伯爵夫人に訪ねますが、
その答えっていうのが、これなんですよ。



感想:
一人として、好感の持てる登場人物のいない映画というのは、
名画には決してなりえないということがよくわかりました。











知覧特攻平和会館~彼らに贈る言葉

2012-04-04 | 日本のこと

全国で特に特攻隊員の遺品や資料を中心に展示している記念館はここだけだそうです。

前回お話したように、ニューギニアから帰還してきた知覧町出身の元兵士が、
生きて帰ってきたことを、町の人々から罵られ、また責められたにもかかわらず、
いや、だからこそでしょうか、「死ななかったことへの贖罪」として、この事業を手掛け、
平和ヘの祈りの場として、特攻に行った若者たちの慰霊の場として、そして知覧のシンボルとして、
町の人々と一緒になって、この「特攻平和会館」を造りあげました。



隊員の遺影、遺書、遺品、そして四翅の飛行機(飛燕、隼、疾風、海中から引き揚げた零戦)
などが会館に展示され、知覧にはこれを見学する為に、毎日多くの人々が訪れます。

2007年の映画、「俺は、君のためにこそ死にに行く」は、興行的には失敗だったそうですが、
この知覧の特攻隊を今まで知らなかった人々にその存在を知らしめることになりました。
わたしが訪れたこの日、駐車場には自家用車は勿論観光バスがぎっしりと並び、
館内は展示ケースの前にじっと立っていると流れの邪魔になるほどの見学者がいました。

お茶、イッシー、砂蒸し温泉に加えて、この会館が立派な「観光資源」になっているのです。



敵機から認識しにくいように半地下で天井の低い兵舎、三角兵舎の内部です。
この穴蔵のような暗い場所で最後の日々を過ごしてから出撃していったことに、
特攻に対する非人道的処遇の一端を見て、見学者はショックを受けるわけです。


しかし、遺された写真の中で、少なくとも悲愴な様子をしている隊員は見当たりません。
子犬を抱いたり遊びに興じたり・・。
出撃前の瞬間に微笑みを浮かべている者すらいるのです。


会館内には映画も見られるホールがあり、定時には特攻隊員について展示された写真や
遺品を中心に説明するフィルムも見ることができました。
ちょうど開始時間だったので、家族で鑑賞しました。

前が空いていたのでわたしは最前列で一人座って観ていたのですが、
その説明映像というのが・・・・何というのか・・・・・。

例えば、この有名な写真がありますね。
この写真が撮られた翌日出撃していった振武隊の隊員たちです。



この象徴的な写真は、今や知覧特攻隊のシンボルとなっているようで、
鹿児島空港に降り立った途端、観光客はこの写真が使われたこの会館の宣伝を目にします。
このショートムービーではこの写真の説明もされるわけですが、こんな調子です。

「明日死ぬことがわかっていたら私たちならとてもこんな表情はできないでしょう。
これはきっと、彼らが国のために死んでいくことを覚悟していたからに違いありません」

そう、わたしが常日頃から戦争映画に対して苦々しく思っている、
「現代の価値観で彼らを語り、憶説から決めつけた結果ありきで同情する」
そういうお節介な感情操作。
まるで馬鹿に対して一から説明するようなやり方も同じです。

憮然としつつ(これは『落胆して呆然と』という広辞苑通りの意味でよろしく)前列に座っていた
エリス中尉の耳には、案の定、後方のそちこちから鼻をすする音が聞こえてきました。

誤解の無いように言っておきますが、わたしは誰よりもこういう写真に涙腺を刺激される人間です。
今まで、戦記や手記を山のように読むその過程で、溢れる涙で文字が読めなくなったことは
一度や二度ではありません。

しかし、ここのフィルムの、ただ資料を淡々と説明するに終わらず、余計な感情の誘導や操作で
「哀しいですね、かわいそうですね」と泣かせようとするやり方には、
はっきり言って苦々しいという感想しか持てませんでした。
(つまり映像を見て涙ぐみつつ、解説に対して怒っていたわけですw)

戦後日本人の、特攻というものに対する一般的な見方と言ったものが、
必ずしも、特攻で死んでいった彼等を表わすに正鵠を得ているものではないであろうことは、
例えば前回お話したような、「生きて帰って来た者に対する嘲り」や、手のひらを返すような
「戦犯呼ばわり」「特攻崩れという言葉の流行」などを考えると、想像するに難くありません。

勿論、彼らは死んでしまっているわけですから、
その処され方に対して、彼らがどう思うかを知る手立ては、永久にないわけですが。


今回、全館隈なく見学している行程で、わたしはむしろそれを見る善男善女の様子に、
複雑な思いを持たずにはいられませんでした。

「ああー、戦死が昭和20年4月って・・。
可哀そうに、あと4カ月で終戦やったのになあ」

団塊の世代の男性がわたしの横で呟いた一言です。

「かわいそう」と憐れみ、泣いて下さいと言わんばかりの演出入りのドキュメンタリーに涙を流す。
問題は、かれら特攻隊員がそういう目で見られることを望んでいたか、です。



回天の搭乗を命じられた小灘利春氏(海兵72)は、
「貴様らは人間魚雷だ」という一言を聞いたときの気持ちを「特攻 最後の証言」の中で
このように語っています。

聞いて喜んだんです。
潜水学校からは私を含めて七人行きましたが、
七人が一様に喜びました。
我々は命を失わなければならないが、その代わりに千倍、何千倍の日本人が生き残る。
日本民族をこの地上に残すためには我々が死ぬしかない。
それができるなら命は惜しくないと、その瞬間に悟りました。
その夜、遅くまで将来の期待を語り合ったものです。
その時の気持ちは今でも変わりません。


そして、小灘氏は基地回天隊28名の集合写真をインタビュアーに見せています。
「当時の雰囲気をいちばんよく物語るものです」
そう説明する写真は、全員が朗らかに微笑みを湛えています。
しかも写真が撮られた時点で、隊員は全員、何月何日何時頃、
自分がどこで死ぬかも分かっていたのだそうです。

特攻隊は悲惨で残酷な境遇にあったという話ばかりまかり通っていて、
当事者が反論しても、耳を貸してくれない。
テレビも映画も、
ただ非人間的な兵器に無理やり乗せられた被害者だという面でしか語らない。

そして肝心の「彼らが何のために回天に乗っているのか」の説明が全く無い・・・。

小灘氏はまた、海軍用語の監修を頼まれた映画「出口の無い海」で主役が言う
「俺は人間魚雷という兵器があったことを、
人間が兵器の一部となった悲しい事実を、
後世に伝えるために死ぬんだ」
というセリフに対し、抗議し修正をたのみましたが聞き入れられなかったそうです。


これも同じ構図です。
このような台詞は、平和な現在の価値観からしか生まれて来ないものなのではないでしょうか。
勿論、特攻隊員にもさまざまな考えの者がいますから、全員が小灘氏のように
「これが、もう本土に攻め込まれるしかない日本を救うための最上の方法だ」
というような想いで、死地に向かったわけではないでしょう。

しかし、ただ一つ断言できることは、どの程度の覚悟で往ったにせよ、自分の死後、
「可哀そうに」と憐れまれることだけは、彼らの本意ではないであろうということです。

ここで上映されたショートフィルムに感じた胡散臭さ、「可哀そう」と呟く男性への違和感は、
つまりそこで思考停止してしまっている平和ボケの日本人に対する憤りにも通じます。

そして本日冒頭に挙げたパンフレットの文言、
「永遠の平和を願いながら」ですが、
これもまた一見何の矛盾も無いようで、実は彼らの終局的な目的が
「敵を一人でもやっつけて日本を守る」、つまり戦争に日本が勝つことだったことを、
これも戦後の価値観で拡大解釈し、耳障り良く言い変えてしまっているのです。

ここで、特攻の是非や道義的な善悪を論じるつもりはありません。
あってはならない戦争が起こり、やってはならない作戦を日本は選択した。
たとえその道しか残されていなかったとしても、それが悲劇であることに変わりないでしょう。
しかし、その場にいて、特攻に身を投じた人々の当時の意志をも、後世の我々が意図的に
汎世界的なデュアリズムに添った解釈によって修正することは許されないと思うのです。


特攻隊員はかわいそう、こんな悲劇は二度とあってはならない。
だから戦争はいけない、平和を守りましょう。
こんな三段論法的平和論を振りかざす人々に、それでは聴きたい。

「それでは、もし明日、どこかの国が日本を占領する為に侵攻してきたらどうするのか」
前にも一度書きましたが、戦争は嫌だと言っているだけでは国は守れますまい。

 


ここにある隊員たちの家族に残した手紙や絶筆は、
まるで昨日書かれたような生々しさが、いらぬ解説などなくともそれ自体多くを訴えています。
例えば・・・。

「地獄の閻魔王よ
      帳面広げて待っておれ」


「俺が死んだら 何人泣くべ」

「小鳥の声がたのしそう
『俺も今度は 小鳥になるよ』
日のあたる草の上に 寝ころんで
杉本がこんなことを云っている
      笑わせるな」

横にいた若いカップルの女性の方が、展示を見ながら感極まってぐすぐすと泣きだしました。
そんな彼女をかわいくて仕方がない、という風に抱き寄せる男性。

前出の「特攻 最後の証言」始め、あの戦争に一度命をかけた元軍人たちは、
一様にこう言っています。

「国を愛することは、つまり愛する人たちを守ることにつながるのだ」

公と私は決して切り離せるものではない、公があって私もあるのだということ。
例えば13期飛行予備学生であった土方敏夫氏はこう言っています。

大きな国難に巻き込まれたとき、いつの場合でもその国の青年は
本当に純粋に国のことを思って立ち上がる。
(特攻というのは)一つのシンボルとして、そのような若者たちがいたことを、
素晴らしい歴史の真実として未来永劫遺しておきたい。


「可哀そう」と彼らを憐憫することなど、全くお門違いの勘違いであることがよくわかります。
特攻に命をかけた彼らに対して私たちが贈るのにふさわしい言葉はただ一つ、
「ありがとうございました」という感謝の言葉にほかならないのではないでしょうか。

そして、かれらが命をかけて守ろうとし、残してくれた日本を、この美しい国柄を愛し、
これからも日本人の手で守り抜いていくことこそ、彼らへの恩返しだと考えます。


涙ぐむ彼女を抱き寄せていたあの男性は、もし、この国に何か事あれば――
やはり決してあってはならないことですが――どうするのでしょうか。
愛国は罪、という戦後日教組教育を受けてきたかもしれない彼は、
「戦うのは自衛隊でしょ?オレの命は地球より重いから」とばかりに逃げるでしょうか。

それとも、土方氏が言うように、愛する家族とこの女性を守るために立ち上がるのでしょうか。






参考*特攻 最後の証言 :アスペクト出版 「特攻最後の証言」制作委員会








重巡「鳥海」の見た零戦

2012-04-03 | 海軍

この画像を描いていて、ふと気付いたことがあります。
この写真に写る搭乗員たちは、ほとんど全員が傷ついた坂井一飛曹を心配そうに見つめています。
しかし、おそらくこの中の誰よりも帰還した部下の身を案じていたにに違いない笹井中尉は、
まるで自分が坂井三郎であるかのように、目を伏せているのです。

このため、二人だけが周りから隔離され、あたかも濃密な空気に閉ざされているかのようです。


この白黒の写真では怪我の悲惨さが伝わってこない、と以前書いたことがあります。
そう、なんといってもかれが流した血の色が全くわからないのです。
というわけで、以前アップした
「1943年8月7日、ラバウル東飛行場に帰還し自力で歩く坂井三郎と台南空搭乗員」
を血の色を再現する為だけに、カラーで描いてみました。
血は、おそらく航空眼鏡の周りにこびりついていたのではないかと、
また元写真の坂井氏の様子から想像してこのように付着していたのではないかと想像します。


丹羽文雄著、「海戦」の伏字復刻版を読みました。
一日で一気呵成に読み終え、読後は何かとてつもなく心の深いところでしんと響くような、
冷たく冴え冴えとしたなにものかが次第に波紋を広げてくるような、そんな感動でした。

丹羽文雄が報道班員として、新聞記者ではなく作家として旗艦重巡「鳥海」に乗りこみ、
第一次ソロモン沖海戦をその目で見たのは、8月7日のことです。
日本海軍が一方的な勝利を収め、その夜戦能力の高さを示したと言われるこの海戦については、
ご存じの方も多いでしょうから、ここであらためての説明は避けますが、
この「海戦」は、軍人ではない、作家の目を通してこの戦いを描写した言わば「参戦文学」。

本質を見抜く濁りのない目、そしてその目で見たものを余すことなく掬いあげ、
従軍記者の筆では到底到達し得ない磨き抜かれた表現で文字にし伝え、
さらには、そこにあって本人すら気付かない心理の襞までを描き、真実を超える表現で、
戦争の何たるかを考えさせられずにはいられない境地にまで昇華させています。

これは「従軍作家」の目から見た戦況を国民に伝えるという目的を持ったものです。
しかし、この作家の筆は、戦後数十年を経た今日の価値観を以てしても全く矛盾の無い真理、
すなわち戦争の悲惨さとひいては虚しさまでもを、読む者に突き付けてやみません。

優れた小説はリアリティにおいても凡人の手によるノンフィクションを超える、
という例の嚆矢といえるかもしれません。
ましてやここに描かれた全ては、戦争に参加した人間自らの手によるものなのです。



私は祈った。
祈りながら、手が震えた。当たってくれと祈った。

やがて甲巡の艦尾の方も燃えはじめた。まん中が黒く切れている。煙であろう。
燃える艦首が海に映る反射であろう。
白みをおびた赤い油絵具をどろりと海上に落としたようであった。
すきとおる紅蓮の焔であった。生涯忘れられない色であった。
生涯思い出すたびに、心臓の一部が針を立てられるような痛みを覚えるであろう鮮やかな色の印象であった。
燃えながら敵は討っていた。

「つっこんでくる。つっこんでくる」
そう言われてみると、左舷に向かいサンフランシスコ型甲巡が艦首をこちらに向けて、
ぐんぐん接近してきた。
すでに敵艦は後半身を火焔につつまれていた。(中略)
操舵の自由を失っていたのであろう。
体当たりに突っ込んでくるより他に舵がとれない、悲しい身振りであった。
討ってきた。泣くばかりに討ってきた。私は奇妙な瞬間を待った。
討たれることが判っているのに身動きをしないのだ。無抵抗に最後を待っていた。


「これこそアメリカ海軍がかつて被った最悪の敗北の一つである」
とアメリカ人に言わしめたこの海戦。
鳥海上で戦死34名。負傷48の被害があったにもかかわらず、
その手ごたえに「勝利」を確信し、皆でラジオから流れる大本営発表に耳をすませます。
そして、「子供のようなきれいな笑顔で」静かに微笑みながらその喜びを皆が反芻する様子を、
丹羽はまた書きとめています。


今日は冒頭画像とこの「海戦」との関係について、お話します。

このソロモン沖海戦が行われたのが8月7日。
この鳥海を旗艦とする第八艦隊の出撃と相前後して、同日8時、
ラバウルから坂井三郎機を含む台南空の零式艦上戦闘機17機が出撃しました。

その空戦中、ドーントレスの銃撃で傷ついた坂井が、
不自由な視力、そして流血と戦いながらラバウルに帰還ました。

この帰路のできごとを坂井はこう記しています。

(「一万トン級の巡洋艦らしい」艦二隻を認め)
「列機と別れてから初めて味方を見た。わたしは泣き出しそうにうれしくなった。
助かった。
すぐ着水したら、助けてくれるかもしれない」
「わたしは高度を下げ、この二隻の軍艦の上を旋回し、すんでのところで着水しようとした」


一方、鳥海にいた丹羽が、同日このような出来事に遭遇しました。

「爆音じゃないか」
「敵機か」
辺りが騒がしくなった。私の耳にも、闇の中からかすかな爆音が聞こえてきた。
音のありかが判らなくていらいらした。
「味方の戦闘機が一機、かえりつつあります。傷ついています」
見張員が怒鳴った。彼の双眼鏡は空の闇まで見透かせるようであった。爆音が近づいた。
艦橋にぶつかりそうに唸り声が迫った。

「無事に基地まで戻ってくれよ」
爆音がさっと艦全体を包んだように聞えた。夜目にもはっきりと機体が見えた。
びっくりするほど低いところをとび、艦とゆきちがえた。
「よたよたしてる。飛行士は傷ついているのではないか」
「基地まではかえれないだろう。不時着だ」
「水艇でないから、さあ、うまくとび出せるかな」

私は胸の中で手を合わせた。
無事に基地まで戻ることが無理であろうと、戻ってくれと祈らずにはいられなかった。
私の瞼は熱くなった。それは暗かった。


いかがでしょうか。
これを読んだとき、わたしはこれが坂井機であることを信じて疑わなかったのですが、
肝心の坂井は「我が零戦の栄光と悲劇」(だいわ文庫)で、
「それは(重巡ではなく)巡洋艦で、青葉と衣笠だったことを知った」と書いています。
この記述ゆえ、丹羽のいた鳥海とすれ違ったのが坂井機であったという見解が、
その後どこからも出て来ないのだと思われます。

しかし、その時の坂井の視力がどんな状態であったかを考えてみましょう。
片目がまったく見えない状態で、しかも出血してから相当時間がたっており、
まさにたった一人で自分の体力と気力の極限に挑んでいた坂井が、
艦の種類(全長200mの鳥海に対して青葉、衣笠は185m)を見間違えたとしても、
何の不思議もありません。

もっとも、鳥海とすれ違ったころすでに夜になっていたのに、ラバウルに着いたときには、
画像を見てもお分かりのようにまだ陽は高く、明るくさえあり、
これも丹羽が見たのが坂井機と断定するには疑わしい材料です。


しかし「傷つきながらよろよろ飛んできて艦にぶつかりそうになるまで低空飛行をした」
というこの一文から、どう考えてもわたしにはそれが坂井機であるとしか思えないのです。

これが仮にこの推測通り坂井三郎の零戦だったとしましょう。

だが、わたしは思いとどまった。
この二隻の軍艦は、ガダルカナル沖の戦場へ急いでいるのだ。
もし彼らが、わたしを拾いあげるために止まったら、
わたし一人のために、戦場に急いでいる何千人もの足を止めることになるのだ。

この坂井の判断はまさに正鵠を誤らなかったと言えます。
坂井機が着水したら、その救助のために艦船は止まったかもしれませんが、
もしかしたらこの日の夜戦に大きな後れをとっていた可能性もあるのですから。


それでは、世間と坂井の認識の如く、これが坂井機でなかったとしましょう。

「水艇でない単機の飛行機」が、零戦であるとは、素人の丹羽は判断できなかったのか、
あるいは零式の名を知らなかったのか、機種については述べられていません。
因みにこの日出撃したのは
零戦17機、一式陸攻27機、九九式艦爆9機。
この機体が零である確率は高いと思われます。

この日、台南空からは河合四郎大尉の二番機吉田元綱一飛曹
大木一飛曹の三番機西浦國江二飛曹が行方不明になっています。


鳥海とすれ違ったこの飛行機の操縦士が、この日行方不明となったこの両人のどちらかで、
かれはやはり坂井三郎のように傷つき、ラバウルを目指して必死に飛んでいたが、
この後、誰にもその最後を看取られることなく、ひっそりと漆黒の海に消えて行った・・・・・。


この考えも、そう突飛な想像でもない気がしているのですが、いかがお考えでしょうか。


 

 





旅しながら淡々と写真を貼る~桜島

2012-04-02 | つれづれなるままに

鹿児島最後の朝、日の出とともに起きて、ラスト・ミニッツ砂むしに行ってきました。
Toと息子に一応声をかけてみましたが、全く生体反応が無かったので一人で出かけました。



前日七面の砂場がフル稼働していた砂むしもさすがにこの時間は閑散としていました。
10分から15分が適当、と言われましたが、隣の男性がいつまでもやめないので、
一緒になって30分近く頑張ってみました。
さすがにこれだけ埋まっていると、汗が滝のように流れました。



このホテル、白水館には「薩摩館」という美術館が併設されています。
創業者の米寿の記念、創業60周年記念事業として、この2月オープンしたばかり。



まるで壮麗な寺院のようです。
息子はゲームで製作する建物の資料として写真を撮りまくっていました。
展示場はボランティアの説明員が声をかけてきて、30分かけて説明をしてくれます。



金襴豪華なこの飾り棚、なんと金箔を貼ってあるのだそう。
薩摩焼には、本場薩摩のものと京薩摩があり、風土を反映して京は繊細、薩摩は大胆、
と作風の違いがあるそうです。
いずれにしても気の遠くなるような細かい絵付けと彩色がなされており、その美しさは、
昔、西欧の人々が「東洋趣味」として愛好したというのも尤もと思われました。



薩摩から留学生としてヨーロッパに渡った青年たち。
イケメンが多いですね。
優秀で容姿端麗、将来有望な選ばれたエリートたち。



さて、いよいよホテルをチェックアウトします。
お土産や、特攻平和会館で山ほど買った本(重くて持てない)をホテルから配送してもらう
手配をしました。

実はわたくし、岩盤浴をしたときにお気に入りの髪留めを紛失してしまい、直後に近くの従業員、
さらにホテルのフロントに絵を描いて説明し「出てきたらお願いします」と頼んでおいたのですが、
翌朝、サービスで頂けるお抹茶を出してくれたウェイトレスが、こっちが何も言わないのに
「昨日お尋ねでした髪留めが届いています」
とおっしゃるので、心から驚きました。

「どうしてこんなに宿泊客がいるのに(おそらく百人単位)我々の依頼を把握してるの?」

知り合いのホテル支配人は中国赴任の際、宿泊客の私物を(免税で買った化粧品など)
盗んではいけない、ということから教育しなければならなかったそうですし、
わたしもアメリカで、部屋の清掃後、シルクのパジャマがきっちり上下とも無くなっていて、
フロントに言うもガン無視、という経験をしたことがあります。

小さなヘアクリップやイヤリングが「そういえば無いなあ」と後で気づき、
「今にして思えば、あれは取られたのか」と思うことも何度かありました。
こんな国のほうが「普通」なのですよ世界では。

ところが、日本ってなんてすばらしい国なのでしょう。
無くしたものが当たり前のように出てくるのも驚きですが、ホテルスタッフがちゃんとそれを
フォローし、さらに情報をウェイトレスに至るまで共有しているというのも素晴らしい。
私の知る限り、日本以外で同じようなことがあるとすれば、
ホテル・リッツかフォーシーズンズ(つまり超高級ホテル)くらいではないでしょうか。

11時にホテルを出て、わたしの運転で空港方面に向かいました。
途中で桜島を観て、時間があれば島に渡ろうという計画です。

借りた車(ヴィッツ)についているナビが超馬鹿で、さらにそれをフォローするつもりのToの
スマートフォン情報が、というか、それを指示するToの要領が悪くて
(車を運転しない人のナビって、イライラしません?言うの遅いし)
結構時間を無駄にしながら、フェリー乗り場まで到着。
息子はいつも通り「スシロー行きたい」と騒いでいましたが、時間が無くなりました。



しかし、運よくフェリーに、最後から2台目の車として乗りこむことに成功。
これに乗れなかったら、あきらめるところでした。

フェリーはわずか15分の航路にもかかわらず、超豪華。
売店は勿論、麺類のカウンターもあります。
スシローに行けなかったので、お昼御飯はここのうどんになりました。



乗る時も、フェリー内でも料金を徴収しないので不思議に思っていたのですが、
船着き場に降りて島に入るには、このゲートで高速道路のように料金を払うしくみです。
車一台分に、中に乗っている人数分の料金をプラスして払います。
息子はぎりぎり子供料金でした。
4月からこいつも大人料金になってしまうのね。
全部で1000円少し払ったかな。



島について、取りあえず展望台を目指し車を走らせていると、山の向こうにもくもくと噴煙が!
息子は「大丈夫なの?爆発するんじゃない?」と無茶苦茶怯えています。
なにしろ、今警戒レベルですから。



大正の大噴火のときに埋まってしまった鳥居。
鳥居の上の部分しか残っていない・・・。
この大噴火のとき、測候所が当初「大噴火には至らない」という発表をしたため、
その後パニックになった村民が崖から落ちたり、海に入って凍死したりしました。

島内に残るこの大噴火の記念碑には
「住民は理論を信頼せず異変を見つけたら未然に避難の用意をすることが肝要である」
と書かれ、科学不信の碑と呼ばれているそうです。

これ即ち、自分の目と耳と直感を信じろ!ってことでいいでしょうか。
ていうか、これは大本営発表不信の碑、の方が正しいのでは・・・。



行く手に見える噴煙。
2011年12月に一万回目の噴火をした桜島、現在は警戒レベルとはいえ、
先の大噴火の時とは様相が違うとか、やっぱり危ないとか諸説あり、注視中だそうで・・・、
つまり科学不信の碑の教えだけは正しいことを裏付けていますね。


島には民家は勿論のこと、学校病院もお店や会社、銀行も普通にありました。
万が一噴火、というようなことになったときの島民避難マニュアルがちゃんとあるんでしょうね。
でも確実に何年か内には大噴火が起こることが判っているところに住むのって、どうなんだろう。
いつなんどき有事になってもどんと来い!みたいな、肝の据わった島民根性が、
古老から子供に至るまで、全島民に備わっていると思うがどうか。

因みに島の大きさは東西約10キロ、周囲約55キロ。
小一時間で一周してしまえる大きさです。

道のところどころにこのような待避壕があるのが、物々しい。
爆発が起きたら決して車で逃げないでください、という看板があちこちにありましたが、
果たして皆、いざとなったら車を捨てることができるでしょうか。



当たり前ですが、火山灰が降り積もっています。
わずかの間車から降りただけで、灰を被りました。
島ではクリーニング代が異常にかかるのだそうです。

ちなみにここは全体が国立公園なので、こういった火山灰や石(軽い)でも、拾ってはいけません。
展望台には土産物屋があり、お菓子とともにこの石を売っていました。
火山灰も瓶に入れて売っていることもあるそうですが・・・・誰が何のために買うんだろう。



この土産物屋さんも、なんだか何か買ってあげたいものだなあ、と思い立ち寄ったのですが、
全てのものが灰を被っているような状態で、何かが欲しいという気に全くなりませんでした。
警戒レベルになってから海外(中国、韓国)の観光客がぱったりと減ってしまったそうです。
まあ、怖いよね。特に外国人は。



常にどこかに噴煙の入ってくる展望台からの眺め。
地面の色を見てください。



ごもっともな注意ですが、十分注意してももうどうしようもないのではないかと。
車からも降りなきゃならないし・・・。

というわけで、ここからフェリー乗り場までとんぼ返りし、夕刻の飛行機で帰ってきました。



大正の大噴火の後、災害復興のために就航した定期航路が、
その後、この桜島フェリーとなりました。
今は島と鹿児島を結ぶ橋の建設も(何となくですが)計画にあるそうです。

この大噴火のとき、対岸の鹿児島では、例によって「津波が来る」「毒ガスが発生する」
などの流言飛語のせいで、避難しようとする人々のパニックがあったそうです。
大正時代ですらそうなのですから、ネット時代の現在、災害時にパニックに至るのは
群集心理の当然の帰結なのでしょう。

科学不信(というかお上不信)といい、流言飛語といい、人の世に起こりうることは
百年前も今も、その実何も変わっていないってことでしょうか。




知覧特攻平和会館~知覧の人々

2012-04-01 | 日本のこと

知覧には昭和16年、大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所が開校し、少年飛行兵、学徒出陣の
特別操縦見習士官らが訓練していましたが、戦況が悪化し特攻作戦が発動されると、
ここが本土最南端の陸軍特攻基地となりました。

  

沖縄で特攻戦死した隊員の数は1036名。
万世、都城基地、台湾各基地、そしてここ知覧基地を主な発進基地としていました。

知覧の人々は、若者たちがここを飛び立って二度と帰ってこないのをよく知っており、
海聞岳に向かって進路を取る飛行機に向かってこうべを垂れ、手を合わせたそうです。

戦後、ここから出撃した特攻隊員の遺品や遺影遺書を集め、後世に遺すことで
かれらがこの世にあったこと、ここから往ったこと、そして国のために死んでいったことを
語り継ぐのがそれを知る者の責務とし、知覧の住民はこの特攻平和会館を設立しました。

冒頭銅像は「とこしえに」と名付けられた特攻隊員の姿。
片手を拳に握りながら、もう片方の手はためらいつつ宙にむかって伸ばされようとしています。


「御霊のとこしえに安らかならんことを祈りつつ
りりしい姿を永久に伝えたい心をこめて
嗚呼 海聞の南に消えた勇士よ」

碑に寄せられた文言です。



桜の花がちらほら開き始めています。
5月3日には戦没者慰霊祭が行われ、全国から参拝者が訪れるのだそうです。

特攻隊員の精神の顕彰を目的に1955年建立された観音堂。
あらためて言いますが、この特攻平和会館の事業主体は、国ではなく、
鹿児島県南九州市知覧町、となっています。
会館の運営は財団でも協会でもなく、町の人々の篤志と献身で行われているというのです。

知覧町をも襲った空襲のその合間を縫うようにして飛び立っていく特攻機。
街の人々は彼らに心からの感謝を捧げ、桜の枝や手作りのマスコット、日の丸、
彼らのなぐさめになりそうなものをを手渡し、見送りました。




知覧高女の女学生たちが、出撃前の何日間かを過ごす三角兵舎(上写真)の
特攻隊員の世話をし、彼らの出撃を見送ったというのも、彼らの現世での最後の日々を、
せめて充実したものにしてやりたいという知覧の人々の想いからでたことであったのでしょう。
特攻の母と言われた鳥浜トメさんもそんな住民の一人で、
決して知覧の人々の中で彼女だけが特別なことをしたわけではなかったのです。


ここにある三角兵舎は再現されたもので、写真などが飾られています。
知覧基地は広大で、三角兵舎は1000を超える数が点在していたそうです。

この日、時間が無くて見学をすることができなかったのですが、
このような特別展示がありました。



第24振武隊、安部正也大尉
昭和20年4月29日、知覧飛行場を特攻のため出撃したうちの一機が、
機体のトラブルで鹿児島沖の黒島という小さな島に不時着します。
特攻隊員は、一人の島民の決死の協力により手漕ぎの小さな漁船で知覧に戻り、再度出撃、
約一週間後に今度は本当に特攻によって戦死しました。

最後の出撃の際、黒島上空を飛来した安部少尉は、住民の食べたことのないチョコレート、
キャラメルや大金(今の百万円ほど)、その他の物資を投下してから往ったと言われています。

この話を、安部大尉を生前知る人々にインタビューして、
「二度戦死した特攻兵 安部正也少尉」(学芸みらい社)というノンフィクションを書いた
福島昴氏は、同書の中でこんな帰還兵の話を書いています。

「私は、戦後ニューギニアから復員してきました。(中略)
ところが私を見た知覧の人々は、『ガンタレ!この敗残兵が!』と私を罵りました。
『わが身を顧みず肉弾となって敵艦に突入された軍神様と比べて、お前は何者だ!』
『負け戦をし、生きて帰ってくるとは何事だ。この恥知らずが!』
『特攻様を見てみろ!日本のために死んなさった神様だぞ!」

「軍神様」「特攻様」「神様」――

特攻隊員は知覧の人々にとってこのような神聖な存在でした。
それはなぜであるかというと、彼らが死んだからです。

特攻出撃したものの、敵に救出され、戦後生きて帰ってきたある兵士は、
負けた日本に強い怒りと失望を覚えずにはいられませんでした。
「敗残兵」「特攻崩れ」。
これが、日本を命をかけて守ろうと出撃していった彼らに投げつけられた声だったのです。

日本には死んだものを「仏様」と呼び、崇める死者信仰があります。
しかし、こういった話が全国どこにでも、数多く残されているところを見ると、
日本人の死生観の、このような死者信仰の対極にあるのは、
「生きているうちは神でも何でもない」
つまり取るに足らぬ存在にすぎないとして、生者を貶めることではないかという気さえします。

しかしながら、知覧の人々から生きて帰ってきたことを罵られたこの兵士は、
特攻隊員だけでなく、すべての戦地で亡くなった兵士たち―
遺骨のない者たちの聖地を作ろう、と考えます。

この猶原義夫氏が設立を始め、まず写真の「特攻平和観音」そして「特攻遺品館」
(現在の特攻平和会館の旧称)を、村の人々と協力しあって作り上げました。

村人に誹謗されるまでもなく、「自分が死ななかったこと」「生きて帰ったこと」が、
猶原氏にとって、慙愧に堪えないとでもいった忸怩たる思いになっていたのでしょうか。


特攻平和会館を入ったロビー正面には、「知覧鎮魂の賦」と題された3m×4,4mの
信楽焼陶板による壁画があります。

焔に包まれた特攻機「隼」。
もうすでにこの世に生の無い特攻隊員の魂を、
特攻機の周りに飛翔する六人の天女が救い出し、昇天させんとする構図です。

己の流した血か、紅蓮の炎に焼かれたのか、真っ赤に染まる隊員の身体。
磔刑になったキリストのように両手を広げた隊員を脇から愛しむように抱きかかえる天女と、
顔をつけるようにして両脚をを支える天女。

隊員の顔はたなびく純白のマフラーで覆われ、ただ左腕の日の丸が鮮やかです。
隊員を抱く天女の頭からはこの瞬間、冠が外れて飛び、やはり外れて飛んでいく「隼」の
風防と共に、桜花の一枝がなぜか宙を舞っています。

天女のひとりが携えていたのでしょうか。
それとも、知覧の乙女によって手渡され、最後まで操縦席の隊員の傍らに在ったものでしょうか。

この絵を見て涙し、救われ、或いは我が息子の魂もこうあれかしと願った遺族は
数多くあったといわれているそうです。

知覧特攻平和会館は、兵士たちの霊を慰める、遺骨なき墓として作られたのです。



(知覧鎮魂の賦)

http://www.city.minamikyushu.lg.jp/cgi-bin/hpViewContent.cgi?pID=20070920200511&pLang=ja