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黒船を作ってしまった日本

2012-04-15 | 日本のこと

画像は、明治27年ごろ海軍省が編纂した写真集からのコピーです。
軍艦「清輝」
初めて訪欧を果たしたメイド・イン・ジャパンの国産軍艦です。

この軍艦についてお話する前に、鎖国を解き放った海国日本が歩んできた軍艦の歴史を
実際の軍艦を挙げながら説明します。

まずは軍艦建造に乗り出した当初の日本政府の動きをさくっと。


嘉永6年(1853)、幕府は大船建造の禁を説くと同時に、軍艦建造をオランダに依頼、
文久2年(1862)、諸藩に対して艦船を購入することを禁止。一方、
安政元年(1854)、海軍技術の伝習を受け、
安政2年(1855)、海軍伝習所創設、海軍教育開始。
文久元年(1861)、わが国最初の造船所が建設された。

これはなんとも凄いですね。
海外に門戸を開いた途端、わずか8年で自分たちで軍艦を造る体制を整えてしまいました。

明治維新当初、ご存じのように幕府各藩の間に対立や紛争のごたごたがあったわけですが、
日本が外に向かって開かれたからには、海防のためにそれはさておいて一致協力せねば、
というのが当時の日本の中枢にいる者たちの偽らざる気持ちであったようです。


昌平丸(1853)
我が国で建造した最初の帆走式洋風軍艦。
各種砲16門。

鳳凰丸(1854起工)
幕府が建造した最初の帆走式洋風軍艦。
備砲8門。

雲行丸(1849)
我が国で最初に作られた蒸気船。

千代田形(1866)
幕府の建造した最初の艦。
60馬力、備砲8門。

清輝(1875)
明治政府になって官立の造船所で建造した最初の軍艦。
443馬力、15センチクルップ砲一門、ほか。



幕末期に、幕府および各藩は、購入艦を中心にして海軍艦船を整備しました。
1854年から15年間にカウントされるその所有隻数は次の通りです。


幕府軍艦   9隻
幕府諸船舶 36隻
諸藩所有艦船 98隻

このうち25隻は国内で製造されたもの、外国製113隻の国別内訳は次の通り。
イギリス・74 アメリカ・30 オランダ・6 プロシャ・2 フランス・1


今日画像の清輝は、明治9年、横須賀造船所で竣工しました。
この軍艦は、明治政府の肝いりで建造された国産一号艦であり、日本の国威宣揚のため、
ヨーロッパに初めて訪問したことで特に歴史にその名をとどめています。

横須賀に後に海軍工廠になる造船所ができたのは明治6年のことですが、
この造船所の建設に当たっては、政府はフランスに技術者のあっせんと借款を頼みました。
その時あっせんされたフランス海軍の技師であったウェルニーがそのまま所長となり、
その元で、30名のフランス人技師、2500名の日本人職工が作業に取り組み、
3年後の明治9年に完成させたのがこの清輝丸です。

当時国内にあった、外国から買い付けてきた艦と、この清輝丸では、
技術の差はすでに15年ほどのものであったといわれています。
いわばあてがいぶちのような艦船を買わされていた日本にとって、大きな一歩でした。

清輝丸の渡欧時の乗組員内訳は以下の通り。

初代艦長 井上良馨中佐以下、士官 20名、
下士官   20名
下士官兵 119名
傭人    19名       計 158名

目的は、明治政府の国力示威。
欧州先進諸国の一般軍事視察と、デモンストレーションです。

清輝の、この欧州訪問の航跡を、明治11年の海軍省年報に見ると

2月10日 香港
  21日  シンガポール
3月21日 アデン(アラビア半島、現在のイエメン共和国)
4月6日  ポートサイド(エジプト)
  11日 マルタ島(イギリス地中海艦隊の根拠地)
5月4日  バレッタ出向(マルタ首都)
 
この後、イタリア、フランス、スペインの地中海諸国を訪問し、
その後イギリスのポーツマスに投錨しました。

このとき、イギリスの新聞が清輝の訪問にこのような報道をしています。

「清輝を見るだけで日本国の開化の状況が推察されるに十分である。
日本が、国産の軍艦で、然もひとりのヨーロッパ人の手も借りることなく
航海したという事実は誠に感嘆のほかはない。

艦長井上中佐は有為熟練の士官であり、
また甲板上の索具などの清潔な状態を一見すれば
兵員も全て敏捷で、十分にその職に適していることを立証している。
英国の軍艦と比較してみても、清輝艦に遜色はいささかもないだろう」

これを手放しで褒め称えたのか、それとも「開国したばかりの後進国にしてはよくやった」
というお世辞半分だったのかは、これに同行した我が方の造船技師が、
冷静な目で眺めたうえ、このように看破して苦言を呈しています。

「我が新鋭艦清輝は世界一流国の前に出れば、
新造にして早くもすでに老朽艦というも可なり。
すべからく軍艦を外国に注文して兵備を固めながら術を学ぶとともに、
国内に広く各種技術の学問を興し、
官民一致して将来の良艦建造を計らねばならぬ。

こんにちの我が海軍は世界の劣等に伍す。
ゆめゆめおごるべからず」

この賢明で先見の明をもった技術士官の名前は残っていません。
しかし、先進国でお世辞半分の賞賛を受けたからと言って真に受けず、
常に現状に危機感を持ってものごとを冷徹に判断する知が、
このような日本人個々にに備わっていたことが、
この後日本が「奇跡」と言われるほどの発展を遂げたことのもといとなっていると思えます。


上に挙げた艦船のうち、鳳凰丸の建造には、こんなエピソードがあります。

この鳳凰丸の建造年を見てください。
1853年。これはペリーが初めて来航した年です。

「太平の眠りを覚ます上喜撰 たった四はいで夜も寝られず」

と、皆が狼狽しているような様子が狂歌に詠まれている一方で、実は日本人はしたたかでした。

浦賀に乗りつけられた4隻の黒船。
アメリカは、欧米列強がこれまでやってきたのと同じ手口で、文明の力を見せつけ、
アラブやアジア諸国にしたように日本を黒船で恫喝したつもりでした。

ところが日本人は、彼らのこれまで支配してきたどこの民族とも違っていました。
見分のため黒船に乗り込んできた幕府の役人たちは、船の隅々まで鋭い目で観察し、
あらゆることを質問し、それを書きとめました。
何のために?

そう、自分たちが黒船を作るためです。


日本人恐るべし。
そしてその二カ月後。
幕府は洋式大型艦船の建造に着手し、翌年には本当に黒船を作ってしまいました

それが鳳凰丸なのです。

実は、黒船の来るずっと前から、浦賀奉行は洋式軍艦の建造を目論んでいたと言われています。
しかし、ときは鎖国時代、なんといっても情報も資料も入ってきません。
そこで、たまたま来航していたイギリス帆船マリーナ号に、こちらも「見分」と称して乗り込み、
目につくものをおよそくわしく観察して、資料を作り上げていたのです。

喉から手が出るほど欲しがっていた情報を持ってわざわざ来てくれた黒船と、
そうやって既にに手に入れていたこのマリーナ号の資料が鳳凰丸の建造に使われました。

その後、日本の艦船の国産化努力は弛みなく続けられました。
日清・日露戦争において黄海、日本海で勝利をおさめたとき、艦隊の主力は
ほとんどまだ外国製の艦でしたが、大正3年には、我が国最初の国産艦船隊が編成されます。

摂津、河内、安芸、薩摩

その後、国内外の注目を集めた「長門」が大正9年に竣工。
昭和7年に、重巡戦隊(妙高・足柄・羽黒・那智・高雄・愛宕・摩耶・鳥海)が誕生。

開国と同時に黒船を見よう見まねで作ってから85年後、
そして「今日の海軍は世界の劣等に伍す」と嘆いた清輝丸の欧州遠征から60年後。

1940年昭和15年、日本はついに、その技術の粋を集め、当時どこも持ち得なかった
46サンチ砲三基を搭載した史上最大排水量を持つ巨大戦艦、大和を生み出すに至ったのです。