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ベース歴史ツァー参加記2~「海軍の碑」とあるコメントへの返事

2013-11-12 | 海軍

米軍ツァーと言いながら、なかなか基地の中に入るところにたどり着かない
相変わらずの当ブログですが、こだわる過程も含めてお楽しみいただきますと幸いです。

米軍基地が目的ですが、集合場所を横須賀駅(待ち合わせしやすい)にし、
ヴェルニー公園の中を通り抜けてさらにドブ板通りを歩き、基地の前。
このような行程を考えた横須賀観光協会の企画の方のアイデアに感心します。

横須賀の観光名所は(あまり知りませんが)横須賀駅から基地までの間に
ほとんどその全てのエッセンスが網羅されていると言ってもいいからです。

さて、開国と近代化発展の父であるオグリンこと小栗忠順と、
日本近代化の父であるヴェルニたんこと(勝手にわたしが命名)ヴェルニーの像を見、
横須賀のみならず、
我が国の近代史における重要人物の名を知ることになったこのツァーですが、
実は海軍に興味を持つわたしにとっても、このあと非常に興味深い見学があったのです。

それが、ヴェルニー公園内にある海軍関係の碑でした。



様々な色のバラが咲いている公園内を歩いていくと、



軍艦山城の碑

「山城」は構造的に問題が多く、連合艦隊にいるよりドックにいる方が多い、
いわゆる「欠陥艦」で練習艦として使われていた老朽艦ですが、
それにもかかわらず戦況が悪化するとレイテ沖に投入されました。

最終的に上陸部隊を攻撃せよというただでさえ無茶な命令が、
この老いた山城に下されたのです。

しかも、栗田艦隊が激しい航空攻撃を受けて避退したことにより、
山城は、米艦隊が魚雷艇も含めて70隻あまりもひしめく海面に単独で突入し
集中砲火、そして魚雷艇や駆逐艦から放たれる雨のような魚雷を一身に受け、
総員退艦の下命後、わずか二分で、海底深く沈んで行きました。



実質特攻というしかない最後の戦闘でした。

絶望のなかでも最後まで果敢に戦い続けた1400名の御霊に
粛として首を垂れずに入られません。



亡くなった山城乗員、1400名あまりの氏名が碑の裏に刻まれています。

海中に投げ出された者もサメに食われ、あるいは救助を拒み自殺し、

あるいは島に流れ着いた後住民に虐殺されたりして、生存者はわずか10名足らずでした。



軍艦長門の碑

「軍艦長門の生涯」という阿川洋之の書を読者の方に教えていただいたことがあります。
その本で最も衝撃的だったのは、この戦争を生き延びた戦艦が、
戦後アメリカの手で核実験の標的にされ、沈んだという事実でした。
長門の歴代艦長の一番最後には、

W・J・ホイップル 大佐

というアメリカ軍人の名前が記されています。
接収されてから実験海域まで回航するための艦長です。
かつての敵をこうやって実験で沈めることに対し、日本人としては
つい道義的な怒りを感じずにはいられないのですが、このときの実験では
日本だけではなく、アメリカ国内の老朽艦や、ドイツの艦船も含まれていました。
また日本からはもう一艦、軽巡洋艦の「酒匂」も使用されています。



長門は船首に穴があけられ、さらに艦体に機雷が装着されており、
他の艦より不利な条件であったにもかかわらず、実験後4日、沈みませんでした。





軍艦沖島の碑

ここに写っている撮影者はわたしではありませんので念のため(笑)

「沖島」は日本軍が最初に持った大型敷設艦で、
1942年のラバウル攻略作戦に参加し、潜水艦の魚雷により火災を起こし戦没しました。




海軍の碑

この「海軍の碑」を始め、各種海軍関係の碑が集まっている一角があります。



この「建立趣意」には、要約すると、

●黒船来航のあと、鎖国を解いた日本が近代海軍を創設した

●明治維新の目指した近代化はこれすなわち海軍の増強であった 

●日清日露戦争を経て日本の海軍は世界三大海軍の一となった

●かつての一漁村だった横須賀はその海軍とともに一大発展を遂げることになった

●しかし、大東亜戦争終戦とともに日本の海軍の歴史は80年の幕を下ろした

●この碑は海軍終息から50年目を記念して、この地にあった日本海軍の歴史を記録し、
また戦争で失われた人々を偲ぶよすがとして、また我が国の永遠の平和を希求するため
全国の海軍関係者、および有志の浄財によって建立されたものである


ということが書かれています。

「我が国の永遠の平和を希求するため」

・・・・これねえ。
ごもっともな一文ですが、わたしはこれに一言言わせていただきたい。


この海軍の碑の「本当の建立趣意」というのは、つまりここに生まれ発展した

「帝国海軍を偲ぶため」

だったと思うんですよ。
しかし、そのものの趣意を謳うと必ずそこに、ややこしい人たちの

「旧軍懐古アンド讃美は戦前復帰と軍靴の足音がどーたらこーたら」

というイチャモンが絡んでくる、らしい。

例えば戦艦「三笠」の前に建立された「君が代の碑」には、
横須賀市の関係者の中にすら「反対派」がいてその製作過程に大変な介入をし、
あるいは設置後の碑には、ペンキで塗りつぶされるというような、
常識では考えられないような損壊行為があったと聞きます。

そしてそういった「軍国主義反対平和主義者(笑)」であろうと思しき過激派は、
ここにある碑の一つにもこのような損壊行為を行っていました。



国威発揚の碑

この、「国威発揚の碑」とされている艦橋を象った碑ですが、
ごらんのとおり、碑文などの部分が剥がされてしまっています。

ボランティアはこれについて何も知りませんでした。
見たところ50代後半の学校の先生タイプの女性で、だからというわけでもないでしょうが、
なぜ、誰がこのようなことをしたかという質問に対し

「だからわからないんです」

と答えるのみ。
何が「だから」なんだろうと思いましたが。
君が代の碑にペンキを塗ったのと同じ考えのアグレッシブな人々による行為でしょう。
まあ、終戦直前の金属不足で供与させられたという可能性も無くはありませんが。

ネットから断片的にこの事情について拾ってみたのですが、

●艦橋の形は重巡「高雄」型で、そのことから「高雄」竣工の昭和7年以降のものである

●後ろには南洋海域の地図があり、海軍の勢力の及んだ範囲を表している

●かつては『八紘一宇』の文字が刻まれたプレートがあったらしい

●かつては例の逸見門(衛門)の内側にあり、海軍軍人への顕彰のため造られたらしい


ということのようです。
映画媒体やこのような歴史的記念の製作となると、断固

「この世から『軍』と名のつく痕跡を
全て抹殺してしまわなかれば気がすまない」

連中ががいちいち口五月蝿く絡んでくる。


この日本の現状について、わたしはなんどもこのブログで嘆いて来たわけですが、

冒頭写真の「海軍の碑」も、建立された平成7年当時にはさぞ色々な障害が予想され、
そのため

「決して海軍を懐古讃美するのではなく、戦争に対する反省の意味も込めてます」


というその方面に対する「言い訳」を付け加える必要があったのかもしれません。



「海軍」(陸軍でもいいですが)というものが我が国にあった、そのことは歴史的な事実です。
この横須賀の史跡からも窺えるように、日本の近代化、工業化は
軍隊の増強つまり富国強兵の国家的指針くしてありえなかったのですから。

「平和を希求し戦争は二度と起こさないと誓う」

こういう考えそのものにはわたしは全面的に賛同するものですが、だとしても、
「戦争を起こさないこと」がどうして「過去に現実としてあった軍隊を存在からして全否定」
となるのか、わたしにはこの左翼の言う両者の因果関係がまったく理解できないのです。


先日このブログのあるエントリにこんなコメントを頂きました。
HNは偶然かも知れませんが常連の方のもので、ただIDがなく、
念のためその方に直接確かめたところ「わたしではない」という返事でした。


「海軍兵学校自体に何の価値もないと思います
惨めに敗れた旧軍、明治以来脈々と築いてきたモノを
この無能な兵学校出身者たちがすべて破壊したのです
彼らがもう少し有能であれば
今日の竹島、尖閣、拉致問題はすべてなかったでしょうから」



「海軍兵学校」というある一つの組織が、日本の敗戦やそれまでの勝利や発展を破壊し、
しかも現在の近隣諸国との摩擦を生む全ての原因になった 、ということですね。


それではこの方にお聴きします。
読んで下さっているかどうか分かりませんが。

明治以降、近代日本の発展とともに海軍は設立され、ほとんど同時に兵学校も生まれました。
このヴェルニー公園に立てばわかることですが、日本の近代化とはすなわち「重工業の発展」であり、
その科学技術力は、海軍の艦船、のちには航空機を始めとする軍装備の充填によって培われて来たわけです。

貴女は海軍兵学校の出身者が「明治以来脈々と築いてきたモノ」を破壊したとおっしゃるわけですが、

彼らが破壊したモノ、とは具体的になんでしょうか。
そのまえに「明治以来脈々と築いて来た」の主語はなんですか?

その壊したモノ(なんでカタカナなの?)の中には、もしかしら
「明治時代の日清日露戦争の勝利の栄光」なんかも含まれますか?

これらの勝利に寄与したのは、近代化と同時に生まれた海軍であり、
その指揮を執った将官たちは、東郷長官を除いて皆海軍兵学校で学んだわけですが?


「惨めに負けた旧軍」

この言葉をあえて選んだあなたに、もう一つお聴きしましょう。
それでは日本は「負けなければよかった」のですね?


日本が戦争をせざるをえない世界の情勢に飲み込まれて行った過程については


「それでも戦わない道もあった」

と考え、それゆえあくまでも日本が間違っていたとする人たちもおりましょう。
そういう考えもあることは承知の上で、わたしの考えを言うと、
当時の弱肉強食の大国主義の中で、日本に選べる道は二つしかなかったのです。

戦うか。
欧米列国に搾取されるだけの被支配国に成り下がるか。


あなたのような人々は、日本が「他国を侵略した」という善悪の観点でのみ語りますが、
そのとき世界がどのような基準のもとに、大国による他国支配を是としていたか、
冷静に一度考えていただきたいものです。


日本は勝てると思って戦争に踏み切ったわけではありません。

山本五十六も、長期戦になれば国力差ゆえ日本に勝ち目がないことを知り抜いていました。
日本の誤算は、短期決戦で戦争を終わらすことができると踏んだことであり、
アメリカが大国の威信に掛けてもそれを許すはずはないことを読めなかったことにあります。


あなたは日本が負けたと言わず、「旧軍が負けた」といい、
それをただ惨めの一言で罵倒します。
「旧軍」という幽霊のような存在だけが、戦争を始め、そして負けたのですか?
当時の財界や政界、そして言論人、思想家は、戦争に反対していましたか?
そもそも、その勝てるはずのない戦争を決定したのは誰ですか?


貴女(男の成り済ましだったらごめんなさいね)が言うように、
海軍兵学校出身者だけが戦争を決定しましたか?

陸軍は勿論のこと、軍部を腰抜けと煽った朝日・毎日新聞は?国民は?

何より日本と戦争をしたがっていたアメリカの野望をどう考えますか?

長期化する戦争をなんとか終わらせようと奔走したのは、井上成美を中心とする

海軍の一派で、終戦を決定した内閣の総理大臣は鈴木貫太郎海軍大将でしたが、
このことはご存知ですか?


あなたの論法で敗戦の責任の在処を問うのであれば、

「戦争に負けた日本人は無能であり、
戦争に負けたからには日本そのものの存在は無意味である


という結論に帰結せざるをえないとわたしは思うのですが、いかがでしょうか。


それから最後にもう一つだけ。

尖閣を奪い取ろうとしているのも、竹島を不法領有しているのも、
日本国民を拉致したのも、すべては、中国であり、韓国であり、北朝鮮です。
たとえ日本の対応がそれを悪化させたのだとしても、日本は、あくまでも、被害者です。

「それらの侵略をを看過する戦後社会をつくったのが、無能な海軍兵学校出身者である」

とあなたはおっしゃるわけですね。


言わせていただくと、わたしは、貴女のような日本人こそが、これらの国々に甘く見られ、

その結果侵略を許す、今日の日本を作ったと思っています。

戦争に負けたということを以て「軍隊」の存在と、そのときそこにあった人々までをも否定する。
「国威顕彰の碑」の文字をはぎ取った連中と同じで、存在を無意味と決めつけ、
この世からその痕跡さえも消すために「ノイジーマイノリティ」にすらなる。

あげくは、自衛のための組織を持つことすら大声で「平和に対する逆行だ」と反対する。


領空侵犯を隠しもせず「無人機でも撃墜したら戦争だ」と恫喝する国や、
自国民を殺害された上、不法占拠されている島に対しても、自分からは決して武力行使できない軍隊をもつ国。
日本をそんな国にしてしまったのは、あなたのような

「自国の過去は勿論、存在意義を否定するが故に防衛力すら放棄しようとする、
近隣諸国に取ってただ都合のいいだけの平和主義者」


だと思います。
この手の人々にもう一度言っておきます。

沖縄で日本人を虐殺したのはアメリカ軍です。

広島と長崎に原爆投下を決めたのはアメリカです。

日本領土である尖閣、竹島に領有権を主張し、
領海侵入や不法占拠をしているのは中国であり韓国であって、

日本国民を拉致したのは北朝鮮です。




秋山真之とともに「坂の上の雲」で有名になった正岡子規の句です。

「横須賀や 只帆檣(はんしょう)の 冬木立」

 
横須賀の軍港に冬木立のように立つ帆檣(船のマスト)。
そのマストが「軍艦のもの」であるとは子規の句からは全く窺えません。
子規に取ってはそれは「そこに在るもの」であり、
かれの眼はは只その情景をそのままに見るだけです。


この句ではありませんが、そこにただ「在る」ものを、そして「在った」ものを
「在ること」として「在ったこと」として見る、
どうしてこの日本という国は、それすら許すことのできない
「歴史修正主義者」の声ばかりが大きいのか、わたしは不思議でなりません。



 (続く)