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流星になった男たち~入間T-33墜落事故 後半

2012-09-21 | 自衛隊

「鷲」さんに教えていただいたYouTubeから画像を撮らせていただきました。

事故機に搭乗していたのは中川尋史二等空佐と門屋義廣三等空佐
航空学生出身、飛行時間それぞれ5000時間、6000時間を超えるベテランです。
航空学生は第12飛行教育団で約二年の基礎教育、飛行訓練を受けるもので、
最初の段階からパイロット養成を目的とされた空自のエリートコースでもあります。

この日のフライトは「年間飛行」と呼ばれるもので、
パイロットの技量維持が目的の定期訓練です。
内勤であった中川二佐が機長として前席に座り、
現役の門屋三佐が教官として同乗しました。

ここでもう一度、彼らの最後の13秒について考えてみます。

しかしその前に前回ご紹介したわれらが「九条信者」が、この件において事故二日後
「捏造美談を暴くために」した涙ぐましい奮闘ぶりからご紹介します。 
え?鬱陶しいからやめろ?まあまあ。
彼らがどんな論理の上にたって主義主張を展開しているのか知ることも、
たまには必要ですから。
事故を報じる新聞、テレヴィ、そしてラディオの全てが
「自衛官の殉職美談をでっち上げた」
と怒り心頭に発した九条さん(この部分は女性が書いたらしい)は、
25日の「朝雲新聞」が

「二人は墜落直前、ベイルアウトを試みたが、民家への被害を避けようとしたためか
脱出の機会が遅れ、高度不足で開傘せず失敗したものとみられる」

と報じているのに対し、他の一般紙と全く同じ報道であるのにもかかわらず

「(朝雲新聞は)自衛隊と称する日本軍なしには存在し得ない御用新聞です」

とこれを決めつけた上で、その美談捏造を自分で暴くことを決心します(笑)
事故後二日目に新聞各紙に電話をかけ、墜落した機の侵入経路を明示せよと要求し
それをどこもやらないので、業を煮やした彼女は図書館に行き、
「仕方なしに図書館で金10円也をエイッと投資して」地図をコピーしてきました。

そして、その緻密な考察とは、このようなものです。

「基地と侵入経路の間には、入間川の両岸沿いに濃密な住宅地、商業地があります」

民間機には設置されていない緊急脱出装置を使って操縦士が逃げた
無人の事故機は、そのどこに衝突しても不思議ではなかったのです」


ここから導かれる彼女の考察結果は、

「墜落事故美談『民家避け』の矛盾は地図で明らか」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

あの・・・・・もしかして、これ本気で矛盾を暴いたつもりになってます?

事故二日後で、事故調も立ち上がっていない段階で直後に出てくる話を
「身内がそう思いたいから捏造した美談」だと決めつけたいのはよくわかりますが、
直後だからこそ、関係者にははっきりとわかることだってあるんではないでしょうか。

彼女は、よっぽどこの「捏造」が気に入らなかったらしく、 

「記者達は本来なら基地の管制官を問い詰めて事故機の侵入経路を言わすべきでした」

メディアには

「地図に太線を書き加え、正確に状況を再現すべきです」

特にNHKには


「あの、お得意の、とてもとても、お綺麗な、ご神託のような雰囲気を漂わす

コンピューターグラフィックスとやらを駆使して、大いにカラフルにやるべきです」

と、全方位に噛みついた上で、

「しかし、どこもやらない。やれない。やる気がない。
ああ。ないない尽くしで、仕方ない。どうしようもない」

と電波をゆんゆんと放射するのでした。
いや、まあ、事故2,3日後でこれは、ちと慌て過ぎってやつではないんですかね。
少し後には、詳細な経路と高度、コクピットと管制塔の通話も皆報道されたのですから。

その後、彼女が渇望していた詳細な情報が開示され、国会で明らかになったとき、
彼女はその資料を駆使して捏造を暴いたのでしょうか?

答えは・・・・ああ、NOなのです。何も、ああ、しなかったのです。
(ちょっと文体を真似してみました)

これは予想ですが、彼女なり彼なりは、そのような「自衛隊に都合のいい資料」は
全く目に入らないか、あるいは半年後には真相究明の熱も冷め、
公開された資料は目に入らないふりをして、
次の糾弾物件にアツくなっていたのではないでしょうか。

この事故から13年後の今日、沖縄の基地反対運動、そして、原発反対運動に
この、むやみに行動的だが行動そのものに継続性のない「九条さん」が、
熱心に参加していることを、わたしは確信するものです。



さて、事故機の最後の13秒に戻りましょう。

事故機T-33は最高速度が時速970km。
エンジンに燃料の供給がなされなくなったと言うことを考え、少なく見積もっても
エマージェンシーを宣言してからジャスト二分の間に機が推進したのは約30km。

この二分の間、「イニシャル」
(滑走路延長線上に設定された飛行場上空への進入のための通過点)に直行しながらも、
彼らは基地に辿り着けないときは、河原に機を墜落させることを
まず真っ先に考えていたものと思われます。


グーグルアースで入間基地とこの河川敷の位置関係を見るとよくわかるのですが、
事故機の進路、入間基地に向かう航路途中を横切る形で川があります。
落ち続ける鉄の塊となった事故機からのベイルアウトを最初に宣言したとき、
眼下前方には、
「事故機はうちの校舎の真上を通過していった」と校長先生が証言したという
西武文理高校がありました。
高校の周りは整然と戸建ての並ぶ「ニュータウン」です。

そのとき高度は360m。
安全に射出するための最低高度は300mです。
このとき、このぎりぎりの高度と、「河原が見えた」という二点が、
おそらく中川二佐をして最初のベイルアウト宣言をさせたものでしょう。

しかし、このとき入間川に対して機位は斜角をもっており、今機を捨てれば、
河原にではなくその手前の文理高校か、あるいは川向こうの奥富地区に墜落する。
実際に、最終的なベイルアウト後、わずか0.6秒後で無人の機は地表に激突しています。
その間の機の推進距離、900メートル。
今はだめだ、中川二佐は瞬時にそう判断したのでしょう。

YouTubeでは最後の13秒間、かれらが「空き地はどこだ」と探しながら飛んだ、
とありましたが、わたしは少しそれは違うと思います。

国会に提出された資料の事故機の航跡図を見ると、彼らが最初にマイナートラブルを
宣言してから、機は東経139°24・5上をほぼまっすぐ降りてきています。
(イニシャルは東経139°24上にある)

しかし、一度目の「ベイルアウト」を宣言してから、その航跡は
―地図上ではごくわずかですが―左方に向かって振られているのです。


かれらは13秒間、つまりこの最後の3kmで、
機を完全に河原と平行に修正したのではないでしょうか。
そして必死の操縦で「このままならまっすぐ推進しても確実に河原に落ちる」角度に
機を向けたとき、すでに安全射出に必要な高度は失われていました。

そして、二度目の「ベイルアウト」通報。
後席の門屋三佐は、通報7秒後、事故機が送電線に接触する寸前、脱出。
中川二佐は、接触とほぼ同時、門屋三佐の2秒後に脱出しました。

門屋三佐のパラシュートは全く開かないまま、
高度70メートルから地表に叩きつけられ死亡。
中川二佐は、切断された電線の垂れ下がる送電線の真下に墜落して死亡していました。


狭山ヶ丘高校の校長先生が

「わたしたちはいざとなったら崇高な自己犠牲精神に身を捨てることができる」

と、前回述べた校内誌への寄稿で述べています。


しかし、かれらはそのとき「自己犠牲」という覚悟の上で行動したかというと、
それだけではなかったのではないかとわたしは思うのです。

YouTubeの冒頭には、自衛隊員が入隊のときに誓う、

「事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、
以て国民の負託に答える」

という言葉が掲げられ、彼らが職務に殉じたことが述べられていました。

人間の行うことである限り、どんなに細心の注意を払っても、事故は起こります。
そのたびに自衛隊は頭を屈めて、
いきり立つ「九条さん」のような人々の誹りを受けなくてはなりません。

そしてそういう事故が起こるたび、或いは毎日繰り返される訓練を通じ、
パイロットは誰に言われるともなく、
今にも起こるかもしれない事態を想定しては自問自答を始めるのだそうです。

「あの事故が自分の身に起こったらどうするか」
「今あのような事故が起こったらどう行動するか」

そしてその答えは、彼らが自衛官である限り、彼等の裡に共にあるのです。
事故後、自衛官が
「もしわたしが彼らだったら、やはり同じようにする」
と語ったという資料を、今回、いくつか目にしました。

異常を感じた事故機が報告のために管制塔との通信を設定してから、
河原に墜落するまでの時間は、6分6秒6。
中川二佐と門屋三佐は、このわずかな間に死の危険を顧みず、
おそらくは常に自分に問い続けたその「答え」の命ずるままに行動し、
そして殉職したのです。


狭山市は、ジョンソン基地といわれる米空軍基地があったときから
航空機事故が絶えないところで、
ジョンソン基地からはなんと7件の事故で15名のパイロットが殉職しています。

日米が共同で入間を使用することになった後、自衛隊機の事故は4件。
そのうちこの事故を含む3件は、パイロットが可能な限り
機を安全な方向に誘導した形跡があるそうです。

朝日新聞の読者欄には墜落した近所に住む女性からの

「特攻隊で操縦経験のあった父から、自衛隊の飛行機は
必ず河原に落ちてくれるから大丈夫、と聞かされて育った。
操縦士の方達には感謝している」

という投書が掲載されたといいます。


(これが朝日新聞であることが信じられないのですが、
この頃はまだこういう意見を拾い上げていたのか、朝日新聞といえども、
この殉職には感銘を受けずにはいられなかったのでしょうか)

自衛官としての覚悟は、誰から強制されるものでもありません。
それは自衛官として「国民の生命を守る」
と誓った日から、彼らの中に根を下ろす「使命感」なのです。
結果的に自己犠牲となろうとも、それを果たそうとするのは
彼らがまた日本人であるからでしょう。

中川、門屋両パイロットを知る同級生は、かれらのこの行動をしてこう評しています。

武士道というか。長い時間をかけて歴史の中でつくりあげた
日本人のメンタリティー、
(精神性)あるいは国民性と言ってもいいかもしれない」



「かくすれば、かくなるものと知りながら やむにやまれぬ 大和魂」

その昔、国を護るために自ら命を捨てた若者たちは、こう言って笑って征きました。
わたしたちは、自分の命によって他の命を生かそうとする「覚悟」を持ちたいと、
この国に生まれた人間であるかぎり、心のどこかで願っているのかもしれません。

このT-33「シューティング・スター」に乗って6分6秒6を戦い抜いた英雄たちの物語に
多くの日本人が心打たれるのは、つまりそういうことだからなのでしょう。


最後に、自衛隊員が入隊時にする宣誓文を記します。



私は、我が国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、

日本国憲法及び法令を遵守し、一致団結、厳正な規律を保持し、
常に徳操を養い、人格を尊重し、心身を鍛え、技能を磨き、
政治的活動に関与せず、強い責任感をもつて専心職務の遂行に当たり、
事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に務め、
もって国民の負託にこたえることを誓います。