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嗚呼彼遂ニ帰ラズ~仁科関夫中尉

2012-09-23 | 海軍人物伝

仁科関夫(にしな・せきお)

大正12年4月10日、大津市鹿間町出身
海軍兵学校71期卒業
黒木博司大尉と共に人間魚雷「回天」の発案者
昭和19年11月20日、菊水隊出撃に参加、
ウルシー環礁にて戦死、死後二階級特進、海軍少佐
亨年二十一


何度かこのブログでお話している佐藤秀峰氏の漫画「特攻の島」には、実在の人物が出てきます。

黒木博司。板倉光馬。そして仁科関夫。


物語冒頭からよく見る、やたら目つきの鋭いこの司令が板倉光馬であることを、
今回読み直してあらためて気づいた次第です。
その豪快さんぶりに魅かれて、何度か語ってきたこの「不沈艦長」、実はこ両人の上司でした。

この漫画における板倉艦長、年齢的にも雰囲気も実物と全く似ていません。
似ていないと言えば、黒木、仁科両人も実物の雰囲気とはほど遠い容姿に描かれています。
著作権の壁ゆえこの画像と並べて掲載するのを断念したこの漫画の仁科中尉画像
(一応趣味半分で絵に描いてはみました)
ですが、髪を肩まで伸ばし、髭もそらない偉丈夫風。
写真の白皙の秀才風の青年(ハンモックナンバーは581名中25番)とは大分風情が違います。

しかし不思議なことに、同じくワイルドすぎる黒木大尉も含めて、この描写は
彼らの壮絶な最後の日々を表わすに相応しい説得力を持っているようにも思われます。

黒木大尉と共に回天を発案し、軍令部に許可を求めて日参した末に動き出した「回天」。
その訓練が始まってわずか二日目に、黒木大尉と樋口孝大尉の乗った訓練的が事故を起こし
仁科中尉は共同発案者にして一身同体の盟友である黒木大尉を失います。

当時を知る者の証言によると、悲痛をこらえ黒木大尉の遺志を受け継ぐものとして皆の先頭に立ち、
回天隊を率いていた最後の日々の仁科中尉には「鬼気迫る雰囲気が漂っていた」とのことです。

「髪を切らない」と誓ったのか、仁科中尉が伸びかけた髪で写っている写真は、
他の隊員と共に腕組みをしている仁科中尉だけがレンズの方を全く見ていません。
生への無関心、現世に対する未練の拒絶、哀しいまでに感情を閉ざした表情・・・・。

佐藤秀峰氏の描く仁科中尉像は、この遺された写真以上に、もしかしたら
仁科中尉の実像に迫っているのかもしれない、とあらためてこの作品を読んで感じました。



「回天」が非人間的な特攻兵器であり、皆が強制的な心理的圧迫を上から受けて志願し、
死んでいったとする戦後の論調について、回天隊員だった小灘利春氏の
「そうではない、国を救えると信じて喜んで往った者もいたのだ」
と言う反論があったことを紹介したことがあります。

この証言に真実味を与えているのが、
回天を開発し作戦を企画したのは軍の上層部ではなく若い二人の士官だったという事実でしょう。
彼らの目的は、国家存亡の危急に自らが立ちあがり、その兵器の有効性以上に
「自分が死ぬことによって国を生かすために為す特攻の先駆けとなる」ことでした。

甲標的での真珠湾攻撃もそうですが、少なくとも回天は、
上から命令された必死作戦ではなかったのです。

第9期潜水学校普通科学生の教程を終了した仁科少尉が、
呉の魚雷実験部(P基地)に、甲標的訓練を受けるためやってきたのは昭和18年10月のことです。
このとき仁科中尉は一年歳上の海軍機関学校51期卒、黒木博司中尉と同室になります。

二人の運命的な出会いが、国家危急を救うための画期的な新戦法を思案していた黒木大尉をして、
「一撃必殺の人間魚雷兵器」
を考案させるきっかけを生んだのでした。

当時日本の魚雷は「世界の20年先を行っていた」とまで言われていました。
高圧酸素を原動力にして走行する九三式魚雷は世界最優秀の性能を備えていたのです。
原動力が純酸素であるため排気ガスが水蒸気として海水に吸収され、
航跡が見えにくいという利点もありました。

しかし、敵がレーダーを採用したころからこの特徴が利点では無くなり、さらに時代は
航空戦が主流となっていたため、大量の魚雷が倉庫に眠っている状態だったのです。

この九三式魚雷は全長が九メートルありました。
これを回天仕様に一四メートルにまで延長し、さらに耐圧を20mから水深80mまで補強。
これは、的が潜水艦の外側に搭載されるためです。

設計図と意見書が完成し軍務局に届けられました。
最初の計画は「必死」を前提とする作戦は許可できない、と言う理由で却下されます。
しかしふたりは仮称「人間魚雷」の設計図を携え、上京し、
時の海軍大臣嶋田繁太郎大将に直訴する熱意で、遂に許可を得ることに成功します。

その試作命令には、しかし
「脱出装置の設置」が厳命されていました。

山本五十六司令が特殊潜行艇「甲標的」の真珠湾参加を当初許可しなかった理由は、日本海軍に
「生還する道の無い必死作戦は認めない」と言う東郷司令の遺訓が生きていたからです。
同じ理由で「脱出装置を設置するならば許可する」
と海軍軍令部としては言うのが当然です。

しかし、魚雷から回天に改造する段階で、重さはすでに3トンから8、3トンにまで増えています。
二人は「これ以上の重量を加え性能を低下させることはできない」と、真っ向から反対しました。

そのときに、仁科中尉は
「脱出装置をつけるならば、おつけになって結構です。
その代わり、私達は出撃するとき、そいつを基地に置いて出ていきますから」
と言い放ったと言われています。

このような二人の熱意によって、この兵器が「自死を前提とした特攻兵器」として、
作戦に導入されることになったのでした。

黒木大尉は
「本訓練中、貴様と俺と二人のうち一人は必ず死ぬだろう。
さらに二人とも死んだ場合はどうなるだろうか」
と常に話していたと言いますが、その予言通り、昭和19年の9月6日、天候不良の中
反対を押し切って訓練に出た黒木大尉の的は帰投時間を過ぎても戻らず、
翌朝午前9時、海底に沈んだ的ならびに黒木大尉と樋口大尉の死が確認されたのです。


その死に顔を見たとき、仁科中尉がどのように慟哭したかはわかりません。
しかし、従容として死に就いた黒木大尉について、漫画「特攻の島」で作者は仁科中尉に

「あの人は・・・殉教者だ」

と言わせています。

そして、何の迷いもなく死を遂げた黒木大尉に対する自分を

「俺は・・・・・、凡夫だ」

とも。そして、

黒木大尉の死に顔を見たとき、
「俺は気づいた・・・
俺は、あの人に、一歩でも近づきたくて・・・回天の開発に没頭していたのだと」

作者の佐藤秀峰氏の解釈は、おそらく仁科中尉がウルシーでの突入寸前、
伊潜の中で記した日記の中の、「黒木少佐ヲ偲ブ」という一節から生まれたものでしょう。

「嗚呼彼遂ニ帰ラズ。
徳山湾ノ鬼ト化ス。
回天隊員ヨ奮起セヨ。
日本国民ヨ覚醒セヨ。
訓練開始ニアタリ三割ノ犠牲ヲ覚悟ニ猛訓練ヲ誓ヒシ仲ナレド
黒木少佐ノ今日ノ姿ヲ見ントハ」



黒木大尉の遺影を胸ポケットに、そして遺骨を的に携えて行ったという仁科中尉。
その瞬間、彼は愛する人々の面影を瞼に過らせ、
そして魂は体を抜け、遠くに立つ黒木大尉の姿を追いかけて行ったのかもしれません。


実は、この項を書いている今現在の日時は、2012年九月六日です。
このテーマをこの日取り上げたのに、取りたてて深い意味があったわけではありません。

黒木大尉が殉職したのが、まさに今日、六十七年前の九月六日であることに気づいたのは、
記事を書いている最中のことでした。



参考文献:人間魚雷回天 ザメディアジョン
       特攻の島 佐藤秀峰 芳文社
       回天 その青春群像 上原光晴 翔雲社
       「あゝ回天特攻隊」横田寛 光人社
       「特攻最後の証言」アスペクト出版