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ナチス映画あれこれ~映画「9日目」

2012-08-24 | 映画

             

最近、イタリアとドイツのナチスものを続けて観ました。
「ゲシュタポ・地獄の追跡 ホロコーストの子供たち」と、
「九日目 ヒトラーに捧げる祈り」です。

本題に入る前にいつもの愚痴ですが、
日本の映画配給会社はもう少し広報のセンスを何とかしていただきたい。

・・・もう・・・お願いしますよ本当に。
「ゲシュタポ地獄の追跡ホロコーストの子供たち」←Hidden Children(隠された子供たち)
「九日目 ヒトラーに捧げる祈り」←Der Neunte Tag(九日目)

「エリート養成機関ナポラ」←Napora Before The Fall(秋になる前)
「マイ・ファーザー 死の天使 アウシュビッツ収容所人体実験医師」
My Father, Rua Alguem 5555(わが父 アルゲム通り5555番地)


「デパ地下の女スペシャル・女王に強力ライバル帝王現る!
畳の下に埋められる三人目の犠牲者?
死んだ子の齢を数える南蛮漬け女と大理石の女神像」

「四重奏・ウェディングドレスは知っていた!
恋人の裏切りに震えるチェロと復讐に涙するヴァイオリンの
不協和音が暴く河口湖の秘密」

「緊急救命病院3・敏腕ナースの昼と夜の顔!
呼吸器切断で露呈した院内犯罪と親友の不倫!
象牙の塔に秘められた白衣の天使の嫉妬心」


先日、「人間魚雷出撃す」でも少しやってみましたが、ご存じ火曜サスペンスのタイトルには、
この三行でストーリーと見どころの全てを語るという崇高な使命とある種の様式美がありますが、
なにも映画でこれをやらなくてもいいと思うんですよ。

「ホロコースト」「収容所」「ナチ」とタイトルと付けないと、内容が一目でわからないので、
苦渋の策としてどれもこれもこんなB級ホラー映画みたいなタイトルをつけてしまうのでしょうが、
それなら、現地ではなぜ「わが父」「九日目」で公開されているの?


この、イタリア映画「地獄の追跡」ですが、
収容所に送り込まれそうな子供たちを大人たちが皆で協力してスイスに逃がした、
という実話ベースの話。
山中でドンパチやっているパルチザンとドイツ軍の間を子供たちの集団が
「ちょっと通りますよ~」と横切り、その間戦闘はどちらからともなくストップ、
最後の一人が行くのを見届けたら、またおもむろに撃ち合いが始まる、というシーンがあるように、
これは決して追跡してくるゲシュタポの非道が描かれているわけでも、
子供たちがメンゲレの犠牲になる地獄の話でもありません。

わたしは戦争映画ウォッチャーを自ら勝手に認じているので、
戦争アクション、戦争ドラマはレジスタンスものやホロコーストもの、みな含めて何でも観ますが、
もしこの映画に、タイトルから想像されるとてつもなく悲惨なものや残酷シーンを期待して
観るような人々にとっては、全くアテ外れの内容ということになります。
公共広告機構に訴えるレベルですね。


ここに一冊の本があります。
この永年傍らにある座右の書のひとつ、岩崎昶著「ヒトラーと映画」(朝日新聞社)は、
アドルフ・ヒトラーという独裁指導者を国の頂点に戴いたそのとき、ドイツの映画人はどうしたか、
そしてドイツ映画そのものがどうなっていったかを歴史の時系列に照らして語ったものです。

それによると―。

ゲッベルスの登場によって、それまでユダヤ人が支配していたドイツ映画界は
曰く「統制ではなく同調」としながらも、労組を解散され、映画法でスタッフの思想調査をされ、
次第に不穏分子を取り除かれて、いつの間にかナチスの統制下に置かれることになります。

ユダヤ人、あるいはユダヤ人とかかわっている映画人はゲッベルスの命で迫害を受けました。
ユダヤ人の連れ合いとの離婚を強制されて自殺した俳優、
夫がユダヤ人ゆえ目をつけられ、ヒトラーへの人身御供にされることを拒んで暗殺された女優。
そしてユダヤ系の監督やプロデューサー、俳優たちの多くが多くがアメリカに亡命しました。

「M」「メトロポリス」フリッツ・ラングもその一人で、この本にはゲッベルスに
「名誉アーリア人として扱うからナチスに協力を」と要請された日、
銀行の閉店に間に合わず、着の身着のままで亡命した様子がスリルたっぷりに描かれています。

しかし、最近の研究によると、ラングが戦後そう言っているだけで、実は彼がゲッベルスに、
映画人として延命の便宜を図ってくれるようにすり寄っていた、という説もあるそうです。

まあ、この出版元がどこであるかを考えれば、ところどころにさりげなく挟まれた

「日本が中国に戦火を注ぎこんでから」
「陛下のおん為にという言葉の呪縛」
「ファシズムの心理的基盤としてもっとも警戒すべきコンフォーミズムが
この日独二つの民族において共通しているのである」

といった、今ならちょっと突っ込まずにはいられない文章も、しごく納得いくものです。
ラングの件もつまりは「ナチスのやることなんでもかんでも悪」という大前提ありきで伝播された
本人の戦後のアリバイ的回想を、英雄的に描写してしまっているだけなのかもしれません。


・・・が、永年読んできた愛着のよしみで、それにもかかわらずこの著者(映画評論家)
の文章は、論旨明晰で読みやすく、実に目にも脳にも快であり、さらに
当時の歴史について実に深く、映画という側面史から述べて秀逸である、と言っておきます。


ところで冒頭画像に描いておきながら全く説明していなかった映画「9日間」について。

これは、ダッハウの収容所に収監されていたルクセンブルグの一司祭が、
ルクセンブルグ大司教に影響を持つことから、九日だけ釈放され、
その間に、司教がナチスへのレジスタンスとして行っている
「ダメ!絶対!ストップ・ザ・ホロコースト!教会の鐘鳴らしません運動」
を何とかやめさせてくれ、とナチ側から橋渡しの依頼を受ける話です。
それを企画立案したSSの若き少尉と、司祭の9日間。
駆け引きと相克、苦悩のこの九日の間に、この二人がお互いを見る目が変遷していく。
そして九日目、何が起きるのか・・。

戦後、あらゆるナチス関連の映画が生まれています。
しかし意外に思われるでしょうが、ドイツ単独で制作されナチスの弾圧について描かれたのは、
先日感想を書いた「白バラの祈り」とこの「九日目」くらいしか見当たらないのです。

「ヒトラー最後の12日間」「ヒトラーの贋札」「エリート容積機関ナポラ」
このうち「ヒトラーの贋札」は弾圧下のて抵抗を描くものですが、他国(墺)との合作です。

ユダヤ人迫害というテーマそのものを扱うことについて何かドイツ国内にも色々あるのか、
ポーランドやオランダ、そして勿論、大量のユダヤ人が今日牛耳っているアメリカ映画が
それを取りあげるばかりです。
(ハリウッド映画で必ずナチが悪者なのも、ユダヤ系映画人が仕切っているためです)


ところで、国内外問わず全てのナチス映画全般に共通する傾向が、SS将校の描き方です。


金髪碧眼長身が重んじられた親衛隊ですから、レベルが高かったのは周知のことと思いますが、
本家ドイツ映画は勿論、やたら男前の親衛隊将校が出てくるのです。
シンドラーのリスト、地獄に堕ちた勇者ども、愛の嵐etc)
重要な役はいわずもがな、チョイ役ならいくらでも観客にサービス、って感じで、この映画も、
画像のSS少尉(アウグスト・ディール)は勿論、最初に出てくる収容所監督のSS将校も、
痩せこけて貧相な囚人の司祭たちと比べて、まるで皮肉のように容姿端麗。

いかにも背徳的な美男が、りゅうとした制服、そしてセクシーな長靴に身を固め、
サディスティックにユダヤ人の生殺与奪を行うわけです。

これは、なんというか・・・・ナチスものの一つのお約束?

「ヒトラーと映画」ではこのあたりについてこのように述べられています。

制服の持つ不可抗的魅惑を知るためには彼がドイツ人でさえあれば十分なのである。

第一次大戦中、ブカブカの伍長勤務上等兵の制服を着せられていたヒトラーが権力を手にし、
突撃隊を組織したとき、まず最初に、しかも最高の熱情をこめてしたことは、制服の制定でした。
後に親衛隊ができると、その制服の「性的魅力」にドイツの女性の多くが夢中になります。

この制服フェチズムのドイツ人の心理を、ヒトラーは自らもそうであるゆえに知りつくしており、
この完璧な制服と、選びに選んだ優れた容姿のアーリア系青年たちへの熱狂は、
そのままナチズムの勃興への熱心な許容にすらなった、と言われています。

ところで「9日目」は、ドキドキハラハラのハリウッド映画や、子供にも分かる安直なテーマを
4畳半の中で展開しているような話の多い日本映画を観た目には、そのオチの無いラストに
がっかりさせられ、かつ宗教をテーマにしているゆえに分かりにくいと感じるでしょう。

しかし、精神的な幼稚さを、最近より一層悪化させているらしい我が日本の映画界と違って、
ドイツ映画界は、自国の負の歴史ですら、より心理的に内省的に描くことに挑んでいます。

ここに描かれたような、異常事態の中に置かれた宗教家の葛藤というテーマの映画など、
おそらく今後も日本では生まれるべくもないでしょう。

ユダヤ人神父クレーマーと、絶滅収容所勤務の経験のあるSS少尉ゲプハルトが、
ユダは裏切り者なのか、或いはイエスが予言を達成することをを実現させた神の協力者なのか、
というテーマについて論争します。
「世界を自分の手で変えるために」司祭になるよりSS隊員になることをを選んだ少尉の、
心の中から拭えない「神への畏れ」を、神父ははこの9日間のうちに見、
また、水一滴のために友を裏切った自分の中にユダをも見るのです。

薄っぺらな善悪の視点からしか、戦争という極限を描くことのできない日本映画関係者は、
この地味な、しかしいぶし銀のような映画の爪の垢でも煎じて飲んでいただきたい。


ドイツは戦後「全ての戦争責任はナチスにあり、我々は騙された被害者である」
という立場を明確にしています。

これは、映画「シンドラーのリスト」で、
鶏泥棒を摘発する為に、並んだ囚人が一人ずつ撃ち殺されていく中、
賢い少年が一歩進み出て「僕は犯人を知っています・・・・彼です!」
と撃たれて死んだ男を指さす、という話を彷彿とさせます。

ナチスを支持したのも、SSの制服に憧れたのも、ヒトラーに熱狂したのも、
そしてユダヤ人に対して持っていた民族的な嫌悪から、実は排斥を歓迎していたのも、
他ならぬドイツ人であったはずなのですが。

岩崎氏の言葉を借りれば同じコンフォーミズム(画一主義)を共通する資質として持ちながら、
ドイツ人と日本人の大きな違いは、こういう理論を打ち立てられる合理性かもしれません。

ドイツが先の「賢い少年」であるならば、日本はさしずめ
「皆が殺されていく罪悪感に耐えかねて一人手を挙げ、隣の男の罪も引き受けてやる気弱な男」
でしょうか。

因みに、ドイツはユダヤ人に対する「人道的な罪」に対し、
それを許容していた立場からの遺憾の意を表しましたが、
戦争をしたことそのものについて謝罪したことは一度たりともありません。



どうやら、そのものずばりのナチス弾圧映画はあまり作りたくない(らしい)ドイツ。
我々には関係ないときっぱり言いつつも、それを選んだのも自分たちであるという自責から、
ナチスはやはりドイツ人にとって「脛に傷」のような扱いなのでしょうか。

にもかかわらず、彼らの描いたものを観る限り、
ドイツ人の「制服愛好」DNAは、実はいまだ健在なりという気がしてなりません。

もっとも、大声では言えませんが、ナチスのビジュアル的な魅力は、
観る者全て(ユダヤ系除く)にとっても、なかなか抗いがたいくらいですから、
それもまたむべなるかなと言ったところでしょう。