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「わだつみの声」~高学歴兵士の戦場

2012-08-10 | 映画

丸山眞男が軍隊社会内におけるヒエラルキーの崩壊と逆転について、
これを一言で喝破した有名な言葉があります。

(軍隊の中では)
疑似デモクラティック的なものが社会的な階級差から来る不満の麻酔剤になっていた。


この映画「わだつみの声」は、同タイトルの戦没学生の手記から戦後わずか4年で制作されました。
東大の仏文科助教授で、末期的兵士不足のための員数合わせで徴兵されたに違いない、
大木助教授
二等兵なので、戦地で学徒動員された見習士官の教え子より下級です。



映画「ああひめゆりの塔」でも先生役をしていた新欣三が演じています。
この画像は「ひめゆり」のもの。


例えば、大木先生の最後のフランス語の講義のシーンに時間を割いていることから分かるように、
この映画は「学問の徒が心ならずも巻き込まれた狂気の戦争」を描くことに重心を置いています。
ですから、登場人物はその「出身校」を一つの重要なアイデンティティとして背負っています。

東大助教授、大木二等兵。
東大仏文学生、牧見習士官。
三高出身、青地軍曹。
慶応出身、軍医。
早稲田出身。
美術大学出身。
師範学校出身。
そして陸軍士官学校卒の陸軍士官たち。

それぞれに、今まで過ごしてきた場所がかれらに与えたものが透けて見える仕掛けがあります。
その不思議なくらいの描きわけの裏にあるものについては、また稿を別にするとして、
今日お話したいのは、彼ら、つまり世間では平和時であれば、
日本の階級社会の上方に確かな位置を占めることのできた高学歴な人々が、
軍隊という「平等社会」に放り込まれたとき、そこで起こった「いじめ」についてです。

士農工商の身分廃止後、公的には四民平等の世の中で、次にいつの間にか形成されたのが
「学歴」という身分制度でした。
日本の帝国大学が、成績さえ優秀なら如何なる身分のものをも受け入れる、という体制を
布いたとき、ある意味それは「立身出世の平等」がわが国には誕生していたともいえます。

厳格な階級制度がその一生の彼我を決定し、また本人たちも互いを
全く別の世界と認識していたイギリスのような国とは違う「平等な社会」です。


彼我の差異を認識し別世界のこととして諦めるというところに、嫉妬は生まれようもありません。
しかしながら、何らかの方法で手の届くところにありながら、自分の持ち得なかったものを、
手にすることができた者に対して、嫉妬は生まれてくるものなのです。

「東大出てるくせに」
「東大出ているけど馬鹿な人間はいくらでもいる」

現代でも、できの悪い東大出身者に向けられるこのような嘲りの中には、

「学歴なんて、何の意味もない。おれは東大なんか出ていないが・・・」

という断定となり、その一部の東大出身者の不祥事から、ひいては東大そのものの価値を
認めまいとすることで、実はその絶対的価値に自身が屈していたということを
こう口にすることによって暴露してしまう結果となっているのです。

人の世で、ヒエラルキーを形成する要因は、学歴に限りません。
人間の集合体があれば、必ずそこには何らかの序列があるのが自然の摂理ですが、
序列が下のものが上に嫉妬する、という構図もまた絶対の真理であると思います。

(お断りしておきますが、社会単位で物事を語っています)


我が国の陸軍は、平等であったと言われます。
ネット上ですが、なぜか峻烈に海軍の無能さを糾弾し、「海軍がバカだから戦争に負けた」
という証拠としてあらゆる資料を綿密にあげたブログがあり、興味深く読んだのですが、
海軍の「学徒は最初から上官扱い」と陸軍の「平等」を比して、
「これが海軍のバカな理由」としていたのには是非異議を唱えたいと思いました。

軍隊を機能だけで考えると、それもまた一理あるのでしょうが、結果、それは本日テーマの
「凄まじい初年兵苛め」「学徒、インテリ苛め」となってあらわれたからです。

ここで話が前後するようですが、今の大学生と当時の大学生の社会的地位の相違を、
もう少しおさらいしておきましょう。

帝国大学に正式に進学することができる旧制高校の学生は、真のエリートであり、
本人の自覚もその選ばれた一握りのエリートであることの上に成り立っていました。
中には、この特権階級に胡坐を描いた、鼻持ちならない若者もいたでしょうが、
ともかくもこの一握りの人間が、庶民の怨嗟の的、といってもいいくらいだったのです。

その怨嗟の的が、自分より下の位に降りてきて、生殺与奪は自分の手に委ねられる。
娑婆の学生に与えられた特権へのルサンチマンとも言うべき反発を持ちつつも、
今までは手に届かぬ所にいたために「別の世界のこと」として諦めていた「復讐」の喜びに
無学な古残兵たちが舌舐めずりするのも当然のことだったのです。

この映画でも、わざわざ東大助教授の二等兵大木先生に、「犬になれ」と命じ、わんわんと
吠えながらニワトリを口でくわえさせて運ばせるシーン、
そして隊長の馬を殺して食べたことを、部下を救うために名乗り出た三高の青地軍曹に
「お前の学校では泥棒のやり方を教えているのか!」
と殴打し、「牛を食わせてやる」と長靴のつま先を口にくわえさせるシーンに、それが描かれています。

ただ、この映画において、批判の対象になっている点でもあるのですが、
ここで学徒を苛めるのはお約束の古残兵ではなく、陸士卒の若い中尉と大隊長です。

「大学では何を教えておったんだ」
「フランス文学です」
「適性文学だな。フランス文学といえば偉いのは誰だ。シェークスピアか」
「・・はあ」
「あれはたいしたもんじゃないぞ」

このいかにも無教養そうな隊長も、「学徒兵が、つまり教育のある人間が憎くて仕方がない」陸軍中尉も、
この映画においては下級のルサンチマンを持つ者として描かれています。

しかし(勿論どんな高等教育を受けても教養の無い人間はいるでしょうが)いくらなんでも
これは国家のエリート軍人養成機関である陸士の出身者の台詞には思えません。

また、婚約者からの
「今日行ったコンサートで、あなた様と一緒に聴いた曲が演奏され、悲しくなってしまいました」
という手紙を読みつつその音色を頭に浮かべる牧見習士官に、隊長は、
「なんだ?女か。そういえばあそこのあれはいい女だったのう。ケツがでかくて・・・ふひひひ」
と卑猥なからかいを投げかける。

徹頭徹尾、無教養で品性の劣った「庶民」として描かれているこの映画の二人の軍人は、
最後には隊を置いて自分たちだけ逃走を図る、というところまで貶められています。

これは、戦後、まぎれもなく「被害者であった」この映画製作者の「軍」「国」に対する
「逆のルサンチマン」によって、意図的に陸軍士官の実態が歪められているといった感を
持ちます。

この映画は「美しい学問の楽園」を追われ、そこに存在する魑魅魍魎のような「庶民」のなかで
「疑似デモクラティック」の洗礼を受ける学徒(この場合は学究の徒)達の憂鬱が描かれています。

陸軍の古残兵、ことに上等兵が学徒を苛めるというパターンは、周知のものとして
映画を始めあらゆる媒体でおなじみです。
超大作左翼映画の「戦争と人間」でも、左翼活動に走った東大生という設定らしき青年、
山本圭が、農民出身の上等兵に特に酷く殴られていました。

疑似デモクラティック(とはいえこれもまた秩序崩壊後の新たな階級社会と言えるのですが)
の中で新たな下級となった高学歴兵士たちの「兵隊としてのつかえなさ」を、
小学校しか出ていない古残兵たちは、むしろ大歓迎したのです。

「上等兵どの、自分はどうすればよろしいのでありますか」
「そんなこと、俺あ知るかい!」
上等兵は太い咽喉を一層ふくらせていた。
「大学へ行ってな先生におしえてもろてくるんやな」
彼は声をひくめていやな響きの声で言った。(略)
「俺のような小学校出にはわからんとよお」
彼はこのような表現に一生懸命力を入れていた。
彼の平らな皮膚の厚い顔は、また嬉々として喜びに満ちてくる。
(『真空地帯』 野間宏)


この映画のラストシーンは、戦いが終わり、死屍累々の戦場、自らの骸から立ち上がり、
いずこかへと向かう死者の魂が描かれています。
一般に言われていた古残兵の苛めは描かれず、職業軍人が悪役に回ったことで、
このシーンにこれまで出演していた部隊の面々が、
学徒たちと同じように仲良くどこかに――それは間違いなく「祖国」でありましょうが―
向かっていることに違和感を持たずにすむという仕組みです。
(このあたりが、わたしがこの映画を欺瞞的だと感じる部分です)

敵弾に共に斃れながら、モンテーニュを口ずさみ、それを聴きながら死んでいく学究の徒二人。
彼らが帰って行くのは、互いを尊敬しあい、真理を追求する学問の城、
かつて自分たちが身を置いた、懐かしい象牙の塔であるに違いありません。


いずれにせよ、戦争の大罪の一つは、社会秩序の崩壊を産むことです。
平時であれば起こらない下剋上が、庶民たちのサディズムを掻き立て、その結果
怨嗟を一手に負わなくてはいけなかった高学歴兵士たち。

誇り高い彼らにとって、それは死することよりあるいは苦痛に満ちたことだったかもしれません。