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菅野直伝説7~「紫電改のカンノ」

2012-08-01 | 海軍人物伝
















今日は、昭和20年8月1日、
菅野直大尉が屋久島近海で戦死してから、ちょうど67年目になります。


菅野直伝説シリーズも、七回目を迎えました。
今回は、趣向を変えて、「紫電改のタカ」タッチで描いてみました。
言わずと知れた名作「紫電改のタカ」をお手本にカットを取りましたので、

なぜ移動の陸攻の中で、菅野大尉が搭乗員服を着ているのか?
とか、
なぜ菅野大尉が襲われているカットで、外に見えているのが日本機なのか?
とか、

作画に融通のきかなかった部分に対して、いちいち突っ込みを入れないでね。


以前「紫電改のタカ」に出てくる菅野大尉は、あまりにもおじさんのようで、
当時23歳だった菅野大尉の実像を全く伝えていないではないか、
滝城太郎こそが、菅野大尉そのものではないか!と、突っ込んでみましたが、
今回は堂々とその説を押しとおし、菅野大尉を滝城太郎で描いてしまいました。

ちばてつや先生、もうしわけありません

ついでに、ちょっとしたこのマンガの突っこみどころ、アメリカ人がしゃべる時はなぜか
台詞がカタカナになっている、という、今考えればかなり可笑しな部分をパロってみました。




さて、今日の事件?は、菅野大尉がフィリピンで特攻隊の直掩(一緒に飛んで護衛すること)
として任務を終えた後、自分の機を置いてセブ島からマバラカットに向かうときに起こりました。
当時、この空域はほとんど敵の制空権下にあり、セブからマバラカットまでの六百キロの距離、
敵に見つからずに輸送機が無事に飛ぶのは非常に困難な状況でした。

昭和19年の10月25日、海軍航空隊の至宝であった撃墜王西沢広義飛曹長は、
同じ状況で直掩の後、この進路で移動途中、敵飛行機と遭遇して機が撃墜され、
戦死しています。

ここで非常に不思議なのですが、なぜ日本軍は輸送機に護衛をつけなかったのでしょうか。
当時、民間の船、いわゆる「軍事徴用船」が大東亜戦争中その多くを喪失した理由に、
「その航行に関して、軍は護衛などの配慮を一切しなかった」という状況がありました。

特攻には確かに直掩をつけましたが、それは護衛とともに戦果確認をする必要があったからで、
何の武装もない輸送機を護衛なしに飛ばすというのも、無謀極まれりです。
勿論、「そんな余裕はなかった」というのが当時の切羽詰まった理由でしょうが、それにしても
この戦力として非常に有能な人物が、軍の無責任と怠惰の結果失われたのだとしたら、
それは全く先を見ない愚かな采配だったと言わざるをえません。

ラバウルで名をあげたアメリカ陸軍のエース、リチャード・ボングは、実績をあげたとたん
内地に召還され、航空学校の教官の職を与えられています。
本人はそれを忌避し戦場に戻りたがっていたようですが、少なくともアメリカ軍は
「功績のあった人物にそれなりの待遇と、保護を用意する」
というつもりでのこの配置を取ったもののようです。

戦争映画を観ていると
「このミッションが終わったら故郷に帰れるんだ!」
と兵士が言うシーンをよく観ますが、アメリカでは実際戦功を立てたらご褒美として兵役免除、とか、
あるいは一線を退かせる、といった待遇が与えられていたのかもしれません。(未確認)
少なくともエースと言われた人物を、敵制空下を護衛もなしに運ぶなどということだけは
ありえなかったことだけは確かです。

さて、菅野大尉ら一行を乗せたのは一式陸攻を改造した輸送機でした。
(この輸送機はどう見ても一式陸攻に見えない、という突っ込みもなしね)
ご存じのとおり、アメリカ軍からは「ワンショット・ライター」、つまり一回クリックすればシュボっと
火の付くライター、とあだ名されていたくらい、簡単に燃えやすかった機体です。

あと少しでマニラに到着、と言うところまで来たとき、敵戦闘機と遭遇しました。
アメリカ陸軍の、そう、R・ボングの愛機でもあったロッキードP-38、ペロハチです。
もうすでに改良に改良を重ね、精鋭ぞろいのラバウル航空隊も後期には「ペロッと食える」
ペロハチではなくなっており、そのフォルムから「双胴の悪魔」と呼ばれた戦闘機。

(えー、紫電改のタカには、この『メザシ』がでてきません。敵と言うとグラマンか、
あるいはタイガー・モスキトンの乗機、カーチス・ウォーホークしかなかったりするので、
画像はグラマンで描かせていただきました。
一般画像を参考にするにも、いろいろあるんですよ。角度とか)

単機で非武装のこの一式陸攻を、敵機はしつこく攻撃し、輸送機の機長は
「もう駄目です。皆さん、覚悟して下さい」
と乗員に告げました。
そういわれて菅野大尉が黙って覚悟を決めるような人物であろうはずがありません(笑)

「馬鹿言うな。どけっ!おれが操縦する」

そういうや否や操縦員を席から引きずりおろし、自分が操縦桿を握ったのでした。
(えー、滝城太郎が、誰かを引きずり降ろしているシーンが見つからなかったので、
殴って操縦を変わったことにしました。違和感ありませんよね?)

そして、機を急降下させ、地表すれすれに這うように飛行を始めました。
生きた心地もしない同乗者、鈍重な爆撃機がいきなり戦闘機のような動きを見せ、
しかも高度をぎりぎりに飛ぶのに驚く敵機のパイロットたち・・・・。

そのまま逃げ続け、見えてきた島の海岸に機を胴体着陸させた菅野大尉は、そのまま
他の乗員と共に飛び出して逃げ、一命を取り留めた、と言うのですが・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・。

本当だろうか?(ぼそっ

いやなんだか最近、この手の「よく出来過ぎた話」に対して、懐疑的になっているんですよ。
「島の海岸にそんなおあつらえ向きに陸攻を着陸させるだけの平坦な砂浜があったんだろうか」
とか、
「機を捨てて逃げたとたん、それまで攻撃してこなかった敵機は陸攻に掃射を加え、
あっという間にその銃撃で炎上し、菅野大尉らは危機一髪であった」
とか、
なんだか話がよく出来過ぎている気がしないでもないというか・・・。

ましてや、このとき逃げ込んだジャングルの中で、原住民に(自称)「プリンス・カンノ」として
敬愛を集め、下にも置かぬもてなしをされた、という海兵の同級生の「菅野から聞いた話」
は、この話の後日譚としてはあまりにもマンガっぽくて、思わず眉に唾をつけてしまいそうです。

(このときの原住民とはフィリピン人のことであり、決して画像のような、冒険ダン吉に出てくる
『土の人』ではないという点も、ご了承ください)


でも、それを語っていたのが他ならぬ菅野大尉本人であった、というところをわたしは評価したい。
実際がどうあったかというより、再会したクラスメート(光本卓雄氏)が

「当時を懐かしみながら彼一流の話術で面白く話してくれました」

と語る、菅野大尉の菅野大尉らしさが、この愉快な結末に現れている気がするからです。


それにしても・・・・。

しょせん「たられば」であるのと、特に西沢広義ファンの顰蹙を買うことを覚悟で言うと、
もし、乗り機が敵の攻撃に遭ったとき、西沢飛曹長が菅野大尉のように、
輸送機の操縦者を殴ってでも操縦を交代していたら・・・・・・・・。