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悔い戻る者たちの道しるべ【5】-(2)悔悟の真相

2015年05月14日 | 悔い戻る者たちの道しるべ
【司会】:では、これこそが”罪を知ること”ですね。

【先生】:”罪を知ること”。罪を暴くためにアッラーの道しるべを知っておかなければなりません。知らない者は最も大きな罪を犯して、「私は一体何をしたのだろう?私は何もやっていない」と言うことでしょう。“知”は番人なのです。だからこそアリー様は次のように言われたのです:「息子よ、“知”は金銭に優る。“知”はおまえを見張り、おまえは金銭を見張る。金銭は消費によって減るが、“知”は消費(使うこと)によって増加する。息子よ、金庫番は死ぬが、学者たちは時間がある限り残り続ける。彼らの身体は(死によって)消えても、人々の心の中に彼らの教訓は残り続ける」。

方法を知らず、家畜との接し方を知らない鶏を売る男は、するときに大きな間違いに陥ります。私は実際に、鶏を屠ってすぐに熱湯に入れる人をダマスカスで見たことがあります。羽を取るためとのことですが、彼は大きな間違いを犯してしまっています。なぜなら預言者(アッラーの祝福と平安あれ)がかつてある教友が羊を他の羊がいる前で屠ったのにお怒りになって、「おまえはそれが二度死ぬのを望むのか。仲間から離しなさい。」と言われたからです。

例:羊を屠る時は、頸静脈だけを切るべきです。頭を切断してしまう人はイスラーム法に違反してしまうことになります。心臓は洞結節から鼓動によって命令を受けます。そしてこの命令は秩序立った鼓動である、一分に80回の鼓動を心臓に与えます。しかし例外的命令を、脳を介して受け取ることにもなります。の瞬間に心臓に課される任務は「血液をすべて体外に出すこと」ですが、鼓動が正規のままであると血はすべて出ません。代わって、頭が残り、身体にくっついていると、例外的命令が心臓に発せられ、鼓動は180回に達します。この数は全血液を身体の外に出すのに十分です。つまり、預言者(アッラーの祝福と平安あれ)のご指導は思い付きによるものではなく、紛れもなく啓示された啓示なのです。したがってどのようなメリットにもアッラーの道しるべを知る必要が生まれます。もし私がアッラーに従いたいと望む場合、いつ罪を犯すのか?」その答えは、「己が無知である時」、です。最後の審判の日の不信仰者たちの手綱は「無知」なのです。

「また彼らは言った。「もしわれらが聞き、悟っていたなら、烈火の輩の中にはいなかったものを」。」(王権章10節)

ですから、私は“知”を求める時、「二つの知」を求めます。一つは、「至高偉大なるアッラーに関する知」と、「彼の道しるべ」です。「彼の道しるべ」は私が罪に落ちることから私を守ってくれますし、欲に負けて罪に落ちてしまってもすぐに悔悟できます。「これは罪である」と知ることで悔悟が可能になるということです。代わって、あなたは、「罪だと知らない罪」から悔悟することはできません。だから、悔悟は、“知”なのです。

司会:悔悟が“状態”であるとは?

先生:人間は「己の存在への愛」、「己の安泰への愛」、「己が満たされていることへの愛」などを持つものとして創られました。あなたが、「これは罪である」と断定し、現世と来世でアッラーがそれを罰し給うのだと確信する時、その罪を犯してしまったことを激しく後悔することでしょう。「罪の認識」は、「それを成したことへの後悔」です。それはまるで社会学者が明らかにした、私たちの周囲と私たちの関係の基礎になっている規則のようです:「認識」「感情」「行動」

例:庭に蛇がいます。私は、学習や経験や蛇博物館で得た理解でそれが蛇であると分かる時、また蛇に関するたくさんの話やその害について聞く時、これらの情報をもとに蛇の概念が形成されます。人間は蛇を見ると、己が持つ蛇の概念に基づいてその危険を感じます。つまりそれが致死をもたらす動物であるとか、混乱をもたらす害のある動物であるという知識です。混乱の中には、蛇を殺したり逃げたりという「行動」に人間を動かすものがあります。ここで、肩にサソリが乗っている人に思わず「気を付けて!肩の上にサソリがいますよ!」と注意しているのに、落ち着いて、また微笑んで、あなたの方を向いて、「心配してくれてありがとう。お礼をしなくては。」とその人が言ったと仮定します。さて彼は私が言ったことを理解したのでしょうか?

司会:もちろん「いいえ」です。彼は危険だと思っていません。

先生:“状態”は「正しいな理解」を経ていなければ成り立ちません。また、“行為”は「正しい“状態”」を経ていなければ成り立ちません。あなたは、「理解」した後に「混乱」し、そして「行動」するのです。私は、「これは後悔すべき罪である」と理解し、そのために混乱する時、私の「正しい悔み」と「正しい混乱」は私がその罪から抜け出す状態にしてくれるのです。これが、”知”の後の”状態”です。

残っているのは“行為”です。私はそれが罪であると知り、混乱します。私の「知識の正しさ」が私を「混乱」と「悔悟」へと導きます。私の「混乱」と「悔みの本質」は私を“行為”へと導きます。つまり“行為”は3つの「時」に関連します。もしこの罪が過去に成されたものであれば私はそれを正さなければならないし、現在のものであれば己をそこから抜き出さないといけないし、未来のことであれば二度と犯さないと決心することが必要になります。「過去における修復」、「今すぐ抜き出すこと」、「未来に犯さないとの決心」。悔悟は“知”と“状態”と“行為”です。もし罪がしもべの権利に関係している場合は、相手の赦しを得たり、権利を返還したりしなければなりません。“行為”は過去に関連し、現在の内に修復し、未来に二度と犯さないとの決心をもって罪から脱することです。

http://nabulsi.com/blue/ar/art.php?art=7188&id=205&sid=801&ssid=882&sssid=895

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