イスラーム勉強会ブログ

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悔い戻る者たちの道しるべ【6】-(1)

2015年05月28日 | 悔い戻る者たちの道しるべ
司会:
悔悟とは、“知”、“状態”、“行為” であり、これらこそが悔悟の本質です。
先日、「行為とは、過ぎたことの修正、現在陥っている状態からの脱出、それがこれから繰り返されることなく、また未来に犯さないとの決心である」とおっしゃいました。今回はさらに深く掘り下げたいと思います。まず、「罪を深刻に捉える」について。私たちはどのようにして罪を深刻であると捉えられるのでしょうか?誰が罪を深刻に捉えるのか、それは信仰者なのか、それともアッラーの道しるべに反した者なのか?

先生:
万物の主、アッラーに称賛あれ。私たちの指導者ムハンマドに祝福と平安がありますように。
前の講話でも出てきたように、罪人が己の罪を小さく捉えるごとに、アッラーの御許でそれは大きくなり、罪人が罪を大きく捉えるごとに、アッラーのもとでそれは小さくなります。悔悟のプロセスは、「アッラーの御許で罪が小さくなるために、罪を深刻に捉えること」です。例えば、アッラーは篤信のしもべたちを描写して次のように仰せです:
「夜のほんのわずかの間眠り、そして暁には、彼らは赦し乞いをしていた。」(51章17~18節)

他の節の中でも:
「「われらが主よ、確かにわれらは信じました。それゆえ、われらの罪を赦し、獄火の懲罰からわれらを守り給え。」と言う者たちで、忍耐強く、誠実で、(神に)従順で、(善に)費やし、暁に赦しを乞う者である。」(3章16~17節)

彼らは篤信を保ち、己を良い状態で保っていながらも、
「赦し乞いをしていた」
のです。

信仰者は、己の罪を「大きい」と認識します。さて皆さん、イスラームの偉人であるウマル・イブン・アル=ハッターブという、アッラーが楽園行きの吉報を与え給うた教友の次のお話はいかがでしょう。アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)は偽信者たちの名前を教友の一人であるフザイファ・イブン・アル=ヤマーンにお預けになりました。そこに正統カリフとなるイスラームの偉人がフザイファのもとに現れて、「フザイファ、アッラーに誓って、私の名前は偽信者たちの名前と一緒にあるか?」と尋ねたのです。アッラーへの怖れのあまり、アッラーの御許での自分の位置を深刻視しています。ですから、信仰者が己の罪を深刻に捉えるごとに、アッラーの御許でそれは小さくなるのです。信仰者は、アッラーに対する大きな敬いの気持ちから、知らぬ間に罪を犯すことを恐れます。そのためある追従者たち(タービイー。サハービー時代の次世代)は次のように言いました:「40人の教友に会いましたが、誰もが偽信仰を自分自身に恐れていました。」ある心の学者は、「誠実な信仰者は一日の間に状態が40回変わる。偽信者は40年間同じ状態で居続ける。」と言いました。信仰者は心配や混乱のためにころころと状態が変わるのですが、これは彼がアッラーを畏れている証拠です。ウマルがフザイファに、「私の名前は偽信者たちの名前と一緒にあるのか」と尋ねているのです。罪を犯しながらそれを気にかけない者は死者です。アッラーは仰せです:
「死んだもので、生きてはおらず」(16章21節)

死んでいるサインは、大きな罪を犯しても気にかけていないことです。信仰者が生きているサインは、言うに相応しくなかった言葉のために眠れなくなることです。これこそが、アッラーが誓い給うた「自責する魂」です。

尊い兄弟姉妹の皆さん。罪を非常に恐れる信仰者の信仰心や、信仰者が己の罪を深刻視することを指摘しました。そしてたくさんの罪を犯しているのに、取るに足らないことだとしている人に私は激しい痛みを覚えます。これはその人の信仰心が弱い証拠です。

学者アッ=タバリーは言っています:アッラーやアッラーの罰に対する激しい恐れが信仰者の性質であるのは、彼が「罪が確実」であり、「罪の赦しは不確実」であると捉えているためです。起きたこと(罪)は確実ですが、赦しが自分のために起こるか、アッラーが赦しを恵んでくださるかについては確信を持たないのです。罪に関しては確信がありますが、赦しは確実ではありません。

司会:先生、私たちは過去に犯してしまった罪をどのように修正すればよいでしょうか?

先生:とても良い質問です。しもべが真剣に悔悟すると、アッラーは天使をはじめ、地球上にいるすべてのものにこのしもべの罪を忘れさせます。しもべがアッラーに回帰すると、呼びかけ人が天と地で「皆、○○を祝いなさい!彼はアッラーと和解した」と呼びかけます。アッラーの御慈悲があること、アッラーの御慈悲があらゆるものに及んでいること、どんなに罪が大きくなってもアッラーの御慈悲より大きくはならないことを私たちは信じます。こういったことが私たちの心にアッラーへの信頼をいっぱいにしてくれるのです。

「まことにアッラーの慈悲心に絶望するのは不信仰の民だけである。」(12章18節)

「言え、「己自身に仇して度を越したわがしもべたちよ、アッラーの御慈悲に絶望してはならない。まことに、アッラーは罪をそっくり赦し給う。」」(39章53節)

http://nabulsi.com/blue/ar/art.php?art=7189&id=205&sid=801&ssid=882&sssid=895
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