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90章解説

2011年03月22日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم
90章解説
1. われはこの町において誓う。
2. あなたはこの町の(居住権を持つ)住民である。
3. 生む者と生まれる者にかけて(誓う)。
4. 本当にわれは、人間を労苦するように創った。
5. かれ(人間)は、何ものも、自分を左右する者はないと考えるのか。
6. かれは、「わたしは大変な財産を費した。」と言う。
7. かれは、誰もかれを見ていないと考えるのか。
8. われは、かれのために両目を創ったではないか、
9. また一つの舌と二つの唇を。
10. 更に二つの道をかれに示した(ではないか)。
11. だがかれは、険しい道を取ろうとはしない。
12. 険しい道が何であるかを、あなたに理解させるものは何か。
13. (それは)奴隷を解放し、
14. または飢餓の日には食物を出して、
15. 近い縁者の孤児を、
16. または酷く哀れな貧者を(養うこと)。
17. それから信仰する者になって忍耐のために励ましあい、互いに親切、温情を尽しあう(ことである)。
18. これらは右手の仲間である。
19. だがわが印を拒否する者、かれらは左手の仲間である。
20. かれらの上には、業火が覆い被さるであろう。

 この章は、人間は苦労するよう創られていること、来世における至福の獲得はこの章で教えられるような善行で苦難を乗り越えることに関係していることを説明します。

 まず至高なるアッラーは、この章をマッカにおける誓いの言葉で始め給います。「われはこの町において誓う」マッカの徳にちなんでです。アッラーはマッカを安全な聖域とし給い、そこにある聖マスジドについても次のように仰せになっています。「また誰でもその中に入る者は,平安が与えられる。」(3/97)そしてアッラーはこのマスジドを人々の礼拝のキブラとし、またそこを巡礼することも命じ給いました。

 アッラーはムハンマド(平安と祝福あれ)に恩恵を与えつつ、彼にそれを思い起こさせ給います。またムハンマド(平安と祝福あれ)がマッカに居住することによって町にはさらなる光栄が増すことも彼に思い起こさせ給います。「あなたはこの町の(居住権を持つ)住民である」

 またアッラーは「生む者と生まれる者にかけて」誓い給います。この節はアーダムと彼が生んだ者、その後に続く世代と彼らが父親と母親から受け継いでいく性格を指しています(アッラーのみが御存知ですが)。そこにはアッラーの御力の偉大さがはっきりと示されています。

 次に来るのは誓いの応答です。「本当にわれは、人間を労苦するように創った」つまり人間は家畜の地位から上昇できるよう、あらかじめ疲労や困難に悩むよう創られているということです。人間の命は地球に存在したときから期限が終わるまでの間、痛みに溢れ、数々の災難に囲まれます。人間はこういった命の本質を受け入れなければならず、それに応じて行き方や思考を選ばなければいけません。そうすれば困難や試練が起こっても驚愕することはないでしょう。

 人間は時に権力や豊かさから自我に溺れ、道を外れたり周りを害することがあります。ここでアッラーは仰せになっています:「かれ(人間)は、何ものも、自分を左右する者はないと考えるのか」つまり、この人間は報復から逃れられると思っているのか、ということです。彼の思い込みは間違いであり、彼は確実にアッラーの手中にあるのです。そして善の道のために少額の財産を差し出すように呼びかけられる時、「かれは、「わたしは大変な財産を費した。」と言う」つまり、たくさんのお金を使った、という意味で、彼が金を使うときは大抵、欲を満たすためだけです。「かれは、誰もかれを見ていないと考えるのか」つまり、この財産を費やす時、アッラーがそのことについてお尋ねにならないとでも思っているのか、何に費やしたかに応じて報い給わないと思っているのか、善の道のためかそれとも悪の道のためだったのか、ということです。

 続けてクルアーンは、アッラーが人間に与え給うた恩恵の数々を解明していきます:
 「われは、かれのために両目を創ったではないか、また一つの舌と二つの唇を。更に二つの道をかれに示した(ではないか)。」

 アッラーは人間にこの精度と創造の奇跡に基づいて目を作り給いました。この目の恩恵により人間は生きる糧を得るために奔走できるので、見るという楽しみをありがたく感じ、アッラーに視力という恩恵に感謝し、禁じられたものに目を向けてしまうことから守ってくださるよう祈らなければいけません。またアッラーは人間に、味わい、話すための舌と唇と与え給いました。度を越して話してしまった場合は、アッラーが与えてくださった恩恵を思い出し、生まれる感謝の気持ちを真実の道に反映させれば、良いことしか話さなくなるでしょう。

 そしてアッラーは、善と悪を認識する能力の特性を人間に植え付け、両者を見分ける理性を与え給いました。「更に二つの道をかれに示した」つまり、善と悪の道を人間に解明したということです。そのため人間は不幸を招く悪の道に行かず、正しい道を辿るべきであり、彼と天国の間にある障害を乗り越えます。

 「だがかれは、険しい道を取ろうとはしない。険しい道が何であるかを、あなたに理解させるものは何か。(それは)奴隷を解放し、または飢餓の日には食物を出して、近い縁者の孤児を、または酷く哀れな貧者を(養うこと)。」

 つまり、人間は障害を乗り越えなければいけないような道を通ろうとしない、という意味です。アカバ=険しい道とは、超えるのが困難な山道を指します。または、地獄にある山と言われます。または、アカバは、アッラーが示し給うた善の道における自我と悪魔との戦いの例えとも言われます。「険しい道が何であるかを、あなたに理解させるものは何か」アカバの難しさを強調する一文です。

 険しい道を乗り越える方法は、「(それは)奴隷を解放し」つまり、人間を奴隷状態から自由にすることです。ファック=解く、ラカバ=首というフレーズが使われることで、奴隷は、人間性を奪い、家畜と同じレベルにする鎖で首元を絞められていることを感じさせます。

 イスラーム時代のアラブ社会は奴隷制度に苦しめられていました。そこに現われたイスラームは奴隷制度とそこから派生する悲劇を何とかしようとしました。そこでイスラームは奴隷制度に対して慈悲で応対し、奴隷解放を多くの罪滅ぼしの行為としました。また奴隷解放を最も崇高な善行の一つとしました。

 険しい道を乗り越える他の方法:「または飢餓の日には食物を出して」つまり、飢餓の日に貧者に食べ物を提供することです。なぜ日が限定されているのかというと、飢餓の日に食べ物を差し出すことは、自我にとってとても厳しい行為だからです。特にその貧者が「近い縁者の孤児」で、自分が富んでいる場合です。「または酷く哀れな貧者」土のほかに家となるものも何も持っていない人のことです。彼ら必要としている人たちに、富者がその持つ財産の一部を差し出すことには、自己鍛錬が欠かせません。実はこれこそが人間が乗り越えてアッラーの満足に辿り着くべき険しい道なのです。以上は次の特性を備えていなければいけません:

 「それから信仰する者になって忍耐のために励ましあい、互いに親切、温情を尽しあう(ことである)。これらは右手の仲間である。」

 信仰は、アッラーの許で行為が受容されるための基本です。代わって忍耐のために励まし合い、互いに申請つと温情を尽くしあうことは、健全な社会設立に導きます。

 忍耐し合い、慈悲において励まし合う信者たちは、「これらは右手の仲間である」。つまり、来世において幸福であるということです。アラビア語において、右は、祝福を意味し、クルアーンは天国の住民を「右手の仲間」(56/27)と呼んでいます。なぜなら審判の日に彼らは右手で行為を記された書簡を受け取るからです。

 章の締めくくりには、不信者に対する審判の日の罰の警が登場します:
 「だがわが印を拒否する者、かれらは左手の仲間である。かれらの上には、業火が覆い被さるであろう。」ムハンマド(平安と祝福あれ)の預言者性を否定し、クルアーンを嘘とした者は、「左手の仲間である。」アッラーは地獄の民を「左手の仲間」(56/41)と名付け給うています。なぜなら彼らは行為の書簡を審判の日に左手で受け取るからです。「かれらの上には、業火が覆い被さるであろう。」つまり審判の日に彼らは火で閉じ込められるだろうということです。

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP109~114)

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