goo blog サービス終了のお知らせ 

イスラーム勉強会ブログ

主に勉強会で扱った内容をアップしています。

96章解説

2010年10月16日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم
96章解説

1. 読め、「創造なされる御方、あなたの主の御名において。
2. 一凝血から、人間を創られた。」
3. 読め、「あなたの主は、最高の尊貴であられ、
4. 筆によって(書くことを)教えられた御方。
5. 人間に未知なることを教えられた御方である。」
6. いや、人間は本当に法外で、
7. 自分で何も足りないところはないと考えている。
8. 本当にあなたの主に(凡てのものは)帰されるのである。
9. あなたは、阻止する者を見たか、
10. 一人のしもべ(ムハンマド)が、礼拝を捧げる時に。
11. あなたは、かれ(阻止する者)が、(正しい道)に導かれていると思うのか。
12. 敬神を勧めているか、
13. (真理を)嘘であるとして背を向けたと思うのか。
14. かれは、アッラーが見ておられることを知らないのか。
15. 断じてそうではない。もしかれが止ないならば、われは前髪でかれを捕えるであろう、
16. 嘘付きで、罪深い前髪を。
17. そしてかれの(救助のために)一味を召集させなさい。
18. われは看守(の天使)を召集するであろう。
19. 断じてそうあるべきではない。あなたはかれに従ってはならない。一途にサジダして(主に)近付け。

 この章には、読むことや学習への呼びかけそして、アッラーの人間に対する恩恵の解明が存在します。と同時に富と権力は、時に人々を不正に向かわせ、アッラーが定め給うた境界線を越えさせることに関する説明も含んでいます。

 この章こそが、クルアーンの中で最初に啓示されたものです。大天使ジブリールがこの章の5節を、ヒラーの洞窟でお籠りに励んでいたムハンマド(平安と祝福あれ)に齎しました。残りの節については、違う機会に教えました。その5節は以下のとおりです:

 「読め、「創造なされる御方、あなたの主の御名において。一凝血から、人間を創られた。」読め、「あなたの主は、最高の尊貴であられ、筆によって(書くことを)教えられた御方。人間に未知なることを教えられた御方である。」」

 「読め」がアッラーによる啓示の最初の言葉であり、それが文盲であり無知と偶像崇拝に支配された民の中から選ばれた、文盲のムハンマド(平安と祝福あれ)に下された言葉であったとは驚きです。ムハンマド(平安と祝福あれ)の民は、物質的・思想的文明の外観から離れていたわけです。そこで「読め」の音は、読むことと知識への誘いでありました。このことは私たちに、イスラームは誕生当初から知の性質を帯びていたことと、無知を払拭し、読むことと知ることを広めるためにやってきたことが判明します。

 アッラーが命じ給うた読誦は、「創造なされる御方、あなたの主の御名において」であるべきとあります。つまり、読誦は国や指導者の名においてではなく、主であり全てのものの創造主の名においてなされるものだということです。どのような読誦も知識も至高なるアッラーのためであるならば、すべての状況において善となります。

 続けてアッラーは仰せになります:「(かれは、)一凝血(アラクعلق)から、人間を創られた」アラクは、胎児が形成されるときの第二段階目の姿です。クルアーンは、人間の元の姿、そしてそこからどのように成長して立派な人間になるかに私に私たちの目を向けさせます。この段階を追った姿の変異は、驚異的なアッラーの御力を証明し、世界は偶然によって打ち立てられたとする主張を無効とします。

 アッラーは御言葉を続け給います:「読め、「あなたの主は、最高の尊貴であられ」アッラーを最高の尊貴(最も寛大)と描写する中に、知識(知ること)は最も高貴なアッラーの贈り物であることが分かります。

 その直後のアッラーのお言葉:「筆によって(書くことを)教えられた御方。人間に未知なることを教えられた御方である。」」筆の素晴らしさを掲げ、また筆の重要性を解明しています。筆は今も昔も第一の学習用具であり、知識を拡散させる道具です。しかしこの事実は1400年前―クルアーンが啓示された時代―には、現代のように学校が建てられ、さまざまな知識が広められる中にはっきりしていたように、明白ではなかったわけです。筆の価値と筆がもつ知識や文明の拡散における影響力の解明として、アッラーはクルアーンを初めて啓示し給うた際にこの筆について言及し給うたのです。ここで言っておかなければならないのは、ムハンマド(平安と祝福あれ)は文盲であり、筆で字を書ける人でもなかったということでしょう。それこそが、クルアーンがアッラーからの啓示である証拠です。

 続けてアッラーは、人間が生来から備えている特徴を描写し給います:

 「いや(كلاカッラー)、人間は本当に法外で、自分で何も足りないところはないと考えている」

 カッラー(كلا)はここでは、「本当に」の意味を持ちます。つまり、「本当に人間は、自身を金持ちと見ると、不信と背信において境界線を越える」です。

 富は高い確率で、個人と社会の腐敗を呼び込みます。これはクルアーンが示す事実であり、全ての時代における現実が真実であるとしているものです。富は多くの自我を腐らせますが、それは富が欲望のドアを開くからです。そして欲望は人間に罪を犯させ、腐らせるのです。

 またクルアーンは人間の本質を解明すると同時に、帰り処はアッラーおひとりであることも解明します:「本当にあなたの主に(凡てのものは)帰されるのである」つまり人間には逃げ場はないということです。ここには人間に対する警告と脅しがあります。人間にその間違いから抜け出すためです。

 (10/10/16)私たちの興味を引く個所は、知識と、罪を呼び招く富の結び付きです。そこには現代になって実現したクルアーンの予言が存在します。恩恵と情報の元である知識が、ときに不信と罪に反転するというもので、今日、科学の時代である現代の多くの人間や国に見られる現象です。もちろん、アッラーが人間の本来の姿を知るために覚醒させ給うた人たちはそこから除かれます。

 続いてクルアーンは、アッラーにお仕えする行為から人々を離れさせる者たちに対する警告に移ります。挙げられた例を見てみましょう。「あなたは、阻止する者を見たか、一人のしもべ(ムハンマド)が、礼拝を捧げる時に。」とアッラーが仰せになったアブー・ジャハルですが、彼はここで制止する者として登場します。そして礼拝を捧げるしもべはムハンマド(平安と祝福あれ)です。この二つの節とそれ以降の節はすべてアブー・ジャハルに関して啓示されました。その原因は彼の次の言葉です:「もしわしが、ムハンマドがカアバで礼拝しているのを目にしたら、やつの首をふんづけてやる。」この言葉が預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)に届くと彼は言われました:「彼(アブー・ジャハル)がもしそのようなことをしたならば、天使に人々の面前へ連れて行かれるだろう」

 そしてクルアーンはこの礼拝を阻止する者に対して警告し続けます:「あなたは、かれ(阻止する者)が、(正しい道)に導かれていると思うのか。敬神を勧めているか。」つまり、彼の状態を教えてくれないか?この罪深い礼拝を阻止する者が導かれているのなら、そして敬神を勧めているのなら、それこそ彼にとって最善であり、アッラーに背くよりもより好ましいのではないか、ということです。「(真理を)嘘であるとして背を向けたと思うのか。かれは、アッラーが見ておられることを知らないのか。」彼がイスラームを嘘呼ばわりし、善行を否定しているなら、その彼の状態がどんなものであるかを知らせてくれないか?さて彼は、アッラーが彼の全ての行為を見給い、それらに対して報い給うことを知らないのだろうか、という意味です。

 次にやって来るのは、この罪人に対するアッラーの脅迫です:「断じてそうではない。もしかれが止ないならば、われは前髪(ناصية ナースィヤ)でかれを捕える(لنسفعا ラナスファアン)であろう」ここでの捕えるという意味の動詞は、引っ張り捕えるという意味も含みます。前髪は、前頭部に生えた髪の毛を指し、ときに人間全体か頭を指します。ここの意味は:アブー・ジャハルがムハンマドに対する攻撃をやめないなら、アッラーは天使たちに命令して彼の前髪を捕えて地獄に引っ張りこむだろう、です。ここにはアブー・ジャハルに対する激しい軽蔑の気持ちが込められています。「嘘付きで、罪深い前髪を。」この前髪の持ち主こそが、ムハンマド(平安と祝福あれ)の預言者性を嘘とし、不信と罪に溺れた人なのです。

 アブー・ジャハルの極悪ぶりが垣間見られるシーンは他にもあります。預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)がマカーム・イブラーヒーム(イブラーヒームの立ち処)で礼拝していたところにアブー・ジャハルが通りかかり言いました:「ムハンマド。するなと言っただろう。」と念を押しました。預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)は彼をきつくあしらったため、アブー・ジャハルは預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)を叱責します。「ムハンマド、一体どんなことでわしを脅すのだ?この谷に味方をたくさん連れて来ようじゃないか」とアブー・ジャハルが言うと、次の言葉が啓示されました:「そしてかれの(救助のために)一味(ナーディヤنادية )を召集させなさい。われは看守(الزبانية ザバーニヤ)(の天使)を召集するであろう。」アブー・ジャハルに家族や仲間の一味を援助のために連れてこさせればいい。アッラーはその代わりに、審判の日に彼を業火に投げ入れるために罰の任務を負った天使たちを呼び給うだろう。

 続けてアッラーは御自身の使徒、ムハンマド(平安と祝福あれ)に仰せになります:「断じてそうあるべきではない(كلا カッラー)。あなたはかれに従ってはならない。一途にサジダして(主に)近付け。」カッラー:崇拝行為や礼拝をムハンマドから制止するアブー・ジャハルが言っていることは真実ではない。「あなたはかれに従ってはならない」アブー・ジャハルによるあなたに対する礼拝の放棄の命令には。「一途にサジダして(主に)近付け」あなたの主にサジダし、主への愛情と崇拝行為でかれに近付け。本当にアブー・ジャハルはあなたを害することなど到底できない。

 アッラーに捧げられるスジュードは、しもべとして主を崇める形の中で最も上位に来るものです。そしてスジュードの中で人間の地位はアッラーの許で上昇し、アッラーの側近となれます。預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)は次のように伝えています:《主に最も接近しているのは、サジダするしもべです。みなさん、祈願を多くしてください。》(ムスリムとアブー・ダーウード出典)

 そしてクルアーンの中には、アッラーのためにサジダするよう呼び掛けている節が数多くあります。心の奥底に信仰が沁み込み、主の偉大さを痛感したムスリムの義務として、アッラーにサジダするよう命じられたなら、即時に自分がかれのしもべであることを自認するためにもサジダをするべきなのです。これこそが、アッラーへの愛と感謝で成り立っている主としもべの関係です。だからこそイスラームでは、クルアーンの中にサジダが求められている個所を読んだり、それを聞いた人は「アッラーフアクバル」と言って一回サジダし、再度「アッラーフアクバル」を唱えてサジダから起き上がる決まりを設けています。なおこれは、「読誦のサジダ」と言われます。
(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーン(P138~142)


97章解説

2010年08月26日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم
97章解説

1. 本当にわれは、みいつの夜に、この(クルアーン)を下した。
2. みいつの夜が何であるかを、あなたに理解させるものは何か。
3. みいつの夜は、千月よりも優る。
4. (その夜)天使たちと聖霊は、主の許しのもとに、凡ての神命を齎して下る。
5. 暁の明けるまで、(それは)平安である。

 偉人や何かに対する勝利、記念日などに祝い事をするという習慣が多くの共同体の中に存在しています。またこういった祝い事は飲酒などの多くの罪を引き寄せる機会となってしまっています。

 代わってイスラームは、この宗教に追従する者たちにクルアーンの啓示に対する祝い方の紹介をしてくれています。心を鍛え、五感を繊細にし、至高なるアッラーに結び付けるイバーダ(崇拝行為)で祝うのが相応しく、具体的には、ライラトゥルカドル(みいつの夜)をアッラーに捧げるイバーダで過ごすことだと言われています。

 ここでアッラーは、人間に垂れたクルアーンの降下という恩恵を信者たちに思い出させ給います。クルアーンは人々を暗闇から光へと連れ出してくれます:「本当にわれは、みいつの夜に、この(クルアーン)を下した」つまりライラトゥルカドゥルに預言者(平安と祝福あれ)に啓示が下り始めたという意味です。その夜はラマダーン月の中にある一日で、次の御言葉が示している通りでもあります:「ラマダーンの月こそは、人類の導きとして、クルアーンが下された月である」(雌牛章185節)

 また、ここでの「下した」は、アッラーがクルアーンをラマダーン月のライラトゥルカドゥルに一度に現世の天に下し、そこから出来事に応じて23年の間、預言者(平安と祝福あれ)に少しずつ天使ジブリールを介して下した、とも言われます。そして預言者(平安と祝福あれ)は啓示されたものを共同体に伝え続けました。

 ライラトゥルカドル(みいつの夜)と名がついた理由は、その夜の偉大さと尊さが由来しています。カドゥルは偉大、尊いという意味を持ちます。続けてアッラーは仰せになります:「みいつの夜が何であるかを、あなたに理解させるものは何か」この疑問文はこの夜の重要さを増強します。つまりこの夜の価値の崇高さは被造物の理解を超えたものであり、アッラー以外にそれを知り得る存在はない、という意味です。

 続けてアッラーはライラトゥルカドゥルの夜における善行について解明し給います:「みいつの夜は、千月よりも優る」つまりライラトゥルカドゥルの夜に行われる善行や礼拝は、ライラトゥルカドゥルを含まない1000月中に行う善行とイバーダに勝る、という意味です。ここでなぜ「夜」という時間帯が選ばれているのでしょうか。この時間帯に捧げられるイバーダはアッラーおひとりのみに捧げられるからです。アッラーに対するイバーダを人に見られるためにしている人は、決して夜の間(任意の)礼拝に立つことはできません。しかしアッラーに対する畏れの気持ちをもって夜の礼拝に立つ者は真の信者と言えるでしょう。

 次にアッラーはライラトゥルカドゥルが持つ偉大な特徴を解説し給います:
「(その夜)天使たちと聖霊は、主の許しのもとに、凡ての神命を齎して下る。暁の明けるまで、(それは)平安である。」

 つまり、かの夜に天使たちとジブリールが「主の許しのもと」つまり主の命令に応じて地上に降りて来ます。「凡ての神命を齎して」つまりアッラーがその年から次の年の間に定め給うたすべての事柄のために、という意味です。この夜に諸事柄が決定され、寿命と糧が決められます。「暁の明けるまで、(それは)平安である」つまりライラトゥルカドゥルはそのすべてが平安であり、悪はなく、暁が明けるまで平安は続く、ということです。また、天使たちはこの夜にアッラーによく従い崇める人たちに平安の挨拶を暁が明けるまで送り続けるとも言われます。

 以上から、ライラトゥルカドゥルはその夜自体が善であり祝福であるため、その善と祝福を獲得しそびれてしまうのは信者にとって好ましくないことが分かります。そのため預言者(平安と祝福あれ)も次のように言われています:《ライラトゥルカドゥル(みいつの夜)に、信仰と報酬を願って祈りに立った者は、今までに犯した罪が赦される。》(アル=ブハーリー)

 その夜に立つとは、礼拝、祈願、イスティグファール(罪の赦し請い)、クルアーン読誦といったイバーダ(崇拝行為)に励むことを指します。

 伝えられたことによると、預言者(平安と祝福あれ)はラマダーン最終10日間にはお籠りをされ、次のように言われていました:《ラマダーン最終10日間からライラトゥルカドゥルを探し出しなさい。》(アル=ブハーリー)

 他にも次のように彼(平安と祝福あれ)は言われました:《ラマダーン最終10日間の奇数日からライラトゥルカドゥルを探し出しなさい》(アル=ブハーリー)つまり21,23,25,27,29の夜です。ライラトゥルカドゥルが明解にされなかった背景に、信者たちにアッラーから恩恵や魂の平安、自我の浄化を頂戴できるようこの10日間イバーダに励むよう急きたてたいというイスラームの配慮があります。

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーン(P144~146)


98章解説

2010年08月19日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم
98章解説

1. 啓典の民の中(真理を)拒否した者も多神教徒も、かれらに明証が来るまで、(道から)離れようとしなかった。
2. またアッラーからの使徒が、純聖な書巻を、読んで聞かせるまでは。
3. その中には、不滅の正しい記録(掟)がある。
4. 啓典を授かっている者たちが、分派したのは、明証がかれらに来てから後のことであった。
5. かれらの命じられたことは、只アッラーに仕え、かれに信心の誠を尽し、純正に服従、帰依して、礼拝の務めを守り、定めの喜捨をしなさいと、言うだけのことであった。これこそ真正の教えである。
6. 啓典の民の中(真理を)拒否した者も、多神教徒も、地獄の火に(投げ込まれ)て、その中に永遠に住む。これらは、衆生の中最悪の者である。
7. だが信仰して善行に勤しむ者たち、これらは、衆生の中最善の者である。
8. かれらへの報奨は、主の御許の、川が下を流れる永遠の園である。永遠にその中に住むであろう。アッラーはかれらを喜ばれ、かれらもかれに満悦する。それは主を畏れる者(への報奨)である。

 預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)が召命された時代は、非常にアッラーのメッセージを必要としていました。大地の隅々に腐敗がはびこり、忘恩と不正が各宗教の信者たちに浸透してしまっていたのです。ユダヤ教徒、キリスト教徒がまさにその状態にあり、偶像をアッラーと共に崇めていたアラビア半島の多神教徒たちについては言うまでもありません。

 かつて、啓典の民であるユダヤ教徒はアラブの多神教徒に、「マッカの地から、そしてアラブ人の中からアッラーはやがて預言者を御遣いになるだろう」と言っていました。この預言者は真理を打ち立て、公平を実現するのだと。ユダヤ人たちは、彼らの啓典に載っている新しい預言者の吉報を根拠にしながらこのように言っていたのです。また新しい預言者が来た暁には、自分たちは彼を援助し、彼を頼りに君たちに対抗するぞ、とアラブ人たちを脅しもしていたわけです。そのため多神教徒たちはこの来たる預言者の出現を期待しつつ、「彼の出現は君たちよりも私たちにより相応しいぞ」とユダヤ人に言い返していました。

 アッラーがムハンマドを遣い給うと、多神教徒たちは彼にはばかっては敵対し、啓典の民も同じように振舞いました。ムハンマド(平安と祝福あれ)の預言者性と性質が彼らの書物にはっきりと記されていたにもかかわらずです。不信はしっかりと彼らの心を覆って真理を見えなくし、ムハンマドを追従すること、彼への信仰から離れさせてしまったのです。

 この事実の解明として、そして大地に起こった腐敗の払拭を望み給うたアッラーのご慈悲として、この尊い章は啓示されたのでした:
「啓典の民の中(真理を)拒否した者も多神教徒も、かれらに明証が来るまで、(道から)離れようとしなかった。またアッラーからの使徒が、純聖な書巻を、読んで聞かせるまでは。」

 意味:啓典の民(ユダヤ教徒とキリスト教徒)と多神教徒は、彼自身が決定的な根拠であるアッラーの使徒ムハンマド(平安と祝福あれ)を介してでしか、不信などから手を洗い、真理を追従することはなかった。彼(平安と祝福あれ)が持って来たメッセージは明解な真理であり、多神と不信から清浄なクルアーンの各ページから彼は読誦していたのである、ということです。「またアッラーからの使徒が、純聖な書巻を、読んで聞かせるまでは。」この書簡の中に、真理と不正を分け示す決まりごとが記されている、ということです。

 続けてクルアーンは、啓典の民であるユダヤ教徒とキリスト教徒は教えの統一におけるたくさんのはっきりとした根拠を携えた預言者が出現するまで、意見を違わせることはなかったこと解明しています:
「啓典を授かっている者たちが、分派したのは、明証がかれらに来てから後のことであった。」

 クルアーンはこの分派の原因を違う箇所で説明しています:「知識がかれらに下った後、間もなくかれらの間の嫉妬によって分派が出来た。」(相談章14節)彼らの指導者たちに生まれた嫉妬心が分派の原因ということです。アラビア語での「バギー بغي」は、高慢さ、真理から不正への傾倒という意味があります。

 ユダヤ教徒たちは、ムーサーという一人の使徒と律法という一つの啓典が存在するにもかかわらず、集団、派に分かれていきました。キリスト教徒もメシアの生態について意見を違わせ、彼を神としました。またユダヤ教徒とキリスト教徒の間に起こった相違は、苦い戦争を齎しました。

 続けてアッラーは、御自身の使徒であるムハンマド(平安と祝福あれ)に啓示し給い、ユダヤ教徒とキリスト教徒にかつて命じ給うた教え(宗教)は一つであり、そこに相違は起こらないことを説明し給います:
「 かれらの命じられたことは、只アッラーに仕え、かれに信心の誠を尽し、純正に服従、帰依して、礼拝の務めを守り、定めの喜捨をしなさいと、言うだけのことであった。これこそ真正の教えである。」

 つまり、彼らユダヤ教徒とキリスト教徒は、崇拝行為にどのような同位者も配置しないよう一心にアッラーに仕えることのみを命じられた、ということです。「純正に」間違った信条からアッラーの唯一信仰に傾倒する、という意味です。また彼らは完全な形で礼拝を捧げ、相応しい者に喜捨を出すことも命じられています。「これこそ真正の教えである。」これらすべては真直ぐで公正な共同体が信奉する宗教である、ということです。その宗教とはムハンマド(平安と祝福あれ)を通して齎された教えです。

 この事実が述べられた後、クルアーンはアッラーの導きを前にした二種類の人間を描写します:
「啓典の民の中(真理を)拒否した者も、多神教徒も、地獄の火に(投げ込まれ)て、その中に永遠に住む。これらは、衆生の中最悪の者である。だが信仰して善行に勤しむ者たち、これらは、衆生の中最善の者である。」

 アッラーを信じずかれに同位者を配しムハンマド(平安と祝福あれ)の預言者性を否定したユダヤ教徒、キリスト教徒、アラブの多神教徒は来世で地獄の火の中に永遠に留まり、そこから出ることも死ぬことも罰が減らされることもない、ということです。「衆生の中最悪の者」つまり、最悪の被造物だということです。なぜなら真理を認めず、導きに招かれることを拒んだからです。代わってアッラーの存在とかれの唯一性を心から信じ、かれの使徒ムハンマド(平安と祝福あれ)を追従し、善行を行った者たちは、「衆生の中最善の者」、つまり最善の被造物、です。

 ここで、クルアーンはいつも「信仰」を「善行」に結び付けていることを述べておきましょう。本物の信仰とは、心に落ち着いたものであり、行為が証明するものだからです。善行とは、アッラーが命じ給うたすべての崇拝行為、マナー、行為です。創造主をしっかりと信仰する人たちとは、自分たちの人生がアッラーの法の鏡となるような人のことを言うのです。

 続けてクルアーンは、信仰し善行に勤しんだ者たちの行く末について解明します:
「かれらへの報奨は、主の御許の、川が下を流れる永遠の園である。永遠にその中に住むであろう。アッラーはかれらを喜ばれ、かれらもかれに満悦する。それは主を畏れる者(への報奨)である。」

 至高なるアッラーは仰せになります:信仰し、善行に励んだ者たちが審判の日、主からいただく報奨は:「永遠の園」つまり、落ち着きと安泰が存在する木々の下を川が流れる園です。「永遠にその中に住むであろう」永遠にその場所に留まり、そこから出ることもそこで死ぬこともないということです。「アッラーはかれらを喜ばれ」現世にいたときに彼らがアッラーに服従していたことについて。このアッラーの御満足は信者たちの魂を安心でいっぱいにし、彼らは幸福の頂点に導かれます。「かれらもかれに満悦する。」アッラーからいただいた豊かな恩恵に。魂を癒す尊い心づくしに。信者たちはそれらで目をうるおします。「それは主を畏れる者(への報奨)である。」実にアッラーからのこの善なる報奨はアッラーを畏れる者以外は受け取らない、ということです。アッラーへの畏れとは、本物の幸福と来世における高位の勝利の獲得を意味するのです。

 アッラーを畏れる気持ちは、すべてのよいことへ急きたて、すべての悪や世界が遭遇してしまった数々の災難や災害を追い払ってくれます。しかし心がアッラーへの畏れを失い、不正と高慢が人間を独占してしまった場合は別なのです。

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーン(P147~151)


99章解説

2010年08月12日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم
99章解説

1. 大地が激しく揺れ、
2. 大地がその重荷を投げ出し、
3. 「かれ(大地)に何事が起ったのか。」と人が言う時。
4. その日(大地は)凡ての消息を語ろう、
5. あなたの主が啓示されたことを。
6. その日、人びとは分別された集団となって(地中から)進み出て、かれらの行ったことが示されるであろう。
7. 一微塵の重さでも、善を行った者はそれを見る。
8. 一微塵の重さでも、悪を行った者はそれを見る。

 この章が啓示された当時の多神教徒たちは預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)に、「審判の日はいつか?」「この世はいつ終わるのか?」といった質問を多く投げかけていました。そしてアッラーはこの章を介して彼らに、かの日の兆候のみについて解明し給うたわけですが、それがいつ起こるかはアッラーのみがご存知であることを彼らに知らしめるためでした。

この章は、審判の日に起こるさまざまな恐ろしい出来事や、人間たちが受ける彼らの行為に対する完全に公平な裁きについて語っています。

 まず、審判の日に見られるいくつかの恐怖の描写から章は始まります:
「大地が激しく揺れ、大地がその重荷を投げ出し、「かれ(大地)に何事が起ったのか。」と人が言う時。その日(大地は)凡ての消息を語ろう、あなたの主が啓示されたことを。」

 審判の日に、大地では地震が起きますが、地震はもっとも恐怖心を湧かせる自然現象です。起こるのは地震だけではありません。大地はその中に埋めていた死人、財宝、鉱物などを吐き出します。こういった光景によって大地に大きな異変が起きたことを人に分からせ、人間が恐れと悲しみを感じながら、大地に何が起こったのかと自問させるのです。「その日(大地は)凡ての消息を語ろう」つまり、その日には人間たちが地上で行っていた悪行、善行を大地が語るということです。この節ついて、預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)の言葉が伝承されています。彼は言われました:《(皆にたずねて)この消息が何か分かりますか?教友たちは、アッラーとその使徒が最もよくご存知ですと答えた。その消息とは、大地が全ての男と女のしもべがその上で行ったことを、彼はかの日このように行ったという形で証言することです。これが消息です。(アッ=ティルミズィー)》アッラーはその日、通常語ることのない大地に話す力を授け給うて、それらについて話させるとも言われます。「あなたの主が啓示されたことを」つまり、人間よ、あなたの主がそのようにするよう大地に命令し給い、大地はその実行に急いだにすぎないのだ、という意味になります。

 次に、人間たちが清算の場から去っていく、二つ目の光景について述べられます:
「その日、人びとは分別された集団となって(地中から)進み出て、かれらの行ったことが示されるであろう。」

 つまり、人々は幸せ者と不孝者の中間に分けられた各グループに向かうために清算の場を後にしていきます。それは、自分たちの行為に対する報いを知るためです。現世においてアッラーに従う善行を行っていた人は、自分の行為とアッラーが準備してくださっている喜びを目にするでしょう。そしてアッラーに背いていた悪者も自分の行為に対する報いである地獄に入るという屈辱を目にします。

 つづけてアッラーは来世における再生の目的と、報復の公正さを人間に解明し給います:
「一微塵の重さでも、善を行った者はそれを見る。一微塵の重さでも、悪を行った者はそれを見る。」

 つまり、現世で一微塵分の重さに相当する善を行った人はそれに対する報奨を来世で見い出し、一微塵分の重さに相当する悪を行った人はそれに対する報いをそこで見い出す、ということです。

 これこそがアッラーがしもべたちである人間に対して行う来世における公正な裁きです。そこには不正はなく、誰の行いも減らされることはなく、現世で横行している編愛やコネなどもありません。

 不正に耐えている信者たちの心をなぐさめる、この公正な裁き。この世では善と悪が競い合っていて、ときに悪が善に勝つことがあります。信仰ある人間は、自分が行う善行に対する報いに与かれないこと、そして悪がその罰に遭わないことをとても重要視します。ここでアッラーは、人間がどのような行為を行っても、それがどんなに細かくて小さくても、アッラーはそれに対して必ず審判の日に清算し給い、公正な報いを与えることを私たちに示し給いました。

 またこの章は信者に、どんなに小さくても、善行をしようということを思い起こさせてくれます。そしてこの小さな行為はアッラーのもとで無くなってしまうことは決してありません。また預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)は多くても少なくても何か善いことを行うよう勧められており、通り道の邪魔になるものを取り除くことも呼びかけられました。《道から害を取り除くことはサダカです。(アン=ナサーイーとアル=イマーム・アフマド)》

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーン(P152~154)

②アッ=タフスィール・アル=ワスィート/ワフバ・アッ=ズハイリー薯/ダール アル=フィクル(第3巻P2913~2916)


100章解説

2010年08月05日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم
100章解説

1. 吐く息荒く進撃する馬において(誓う)。
2. 蹄に火花を散らし、
3. 暁に急襲して、
4. 砂塵(さじん)を巻き上げ
5. (敵の)軍勢の真っ只中に突入する時。
6. 本当に人間は、自分の主に対し恩知らずである。
7. それに就き、かれ(人間もしくはアッラー)は誠に証人であり、
8. また富を愛することに熱中する。
9. 彼は墓の中のものが発き出される時のことを知らないのか。
10. また胸の中にあるものが、暴露されるのを。
11. 本当に主は、その日、彼らに就いて凡て知っておられる。

 馬は、預言者(平安と祝福あれ)が生きておられた時代やそれ以降の時代における戦争用の乗り物でした。勝利のためには馬術が重要であることを数々の戦いが証明している通り、過去の偉大な征服に馬術が関係していました。こういった背景から、昔から人々は勝利に強く影響する馬術に熱い関心を寄せていたのです。

 至高なるアッラーはこの章の中で、馬の存在を高める目的で馬における誓いの言葉を述べ給いました。信者たちに馬を飼う気を起させ、大切に面倒を見させ、馬術の訓練に向けさせるためです。そうすることでアッラーの道における戦いのために準備できるのです。アッラーは仰せになります:

「吐く息荒く進撃する馬において(誓う)。蹄に火花を散らし、暁に急襲して、砂塵を巻き上げ、(敵の)軍勢の真っ只中に突入する時。」

 「進撃する馬において(誓う)」アッラーはかれの道において戦う馬において誓い給いました。その馬の徳を高めて。「吐く息荒く」馬が突進するときに発せられる音です。「蹄に火花を散らし」あまりにも馬が強く地面を蹴り飛ばすので花火が散ります。「暁に急襲して」早朝ゆえに、応戦の準備の整っていない敵を襲う馬を指しています。「砂塵を巻き上げ」急進することにより発生している砂埃です。「(敵の)軍勢の真っ只中に突入する時」突如として敵陣の中心に現われることで、敵に恐怖心を植え付けつつ不敗に持ち込みます。

 誓いの応答は次のアッラーの御言葉です:「本当に人間は、自分の主に対し恩知らずである」じつに人間は主に与えられた数々の恩恵に対して忘恩であることを指します。そのことはさまざまな場で人間の言動の中に現われますが、やがてそれらはすべて、自分に対する証人に姿を化すことになります:「それに就き、かれ(人間)は誠に証人であり」またはアッラーが人間の忘恩の証人になり給うとも理解できます。「また富を愛することに熱中する」الخير ハイルは善などの意味を持ちますが、ここでは財産です。الشديد シャディードは激しく、という意味がありますが、ここでは非常に吝嗇であることを指します。人間は財産に対して不法な愛情を抱きかつ、善と慈悲を忘れさせるほど吝嗇でもあるのです。

 章の始まりに登場している馬の特徴は、始まりと終わりがバランスを取った形になるよう、章の終りの二表現に反映されています。その二表現は:

 財産を愛し、アッラーの恩恵を忘れる人。こういった人には、手に負えない心、粗暴で意地悪な性格、虚栄などが目立ちます。実はこれはすべて、突進する馬の特徴でもあります。

 馬が敵の間に突然現われて敗北を味わわせる様子は、審判の日に金を溺愛した忘恩者が突然蘇らされる様子と重なります。アッラーは仰せになります:「彼は墓の中のものが発き出される時のことを知らないのか」脅迫の言葉です。醜行をし尽して、己の行く末を知らないとは。墓場に眠る人が清算を受けるために追い出され、「また胸の中にあるものが、暴露される」誰も知り得ない人間が隠せると思っている善や悪が心に集められ、そして行為の書にそれらすべてが書き出される、という意味です。「本当に主は、その日、彼らに就いて凡て知っておられる」本当にアッラーは人間たちが現世で行っていた全てのことも胸に隠したものも御存知であられ、一人一人の行為に対して報い給います。

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーン(P155~158)


101章解説

2010年07月29日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم
101章解説

1. 恐れ戦く日(最後の審判)
2. 恐れ戦く日とは何か。
3. 恐れ戦く日が、何であるかをあなたに理解させるものは何か。
4. (それは)人間が飛散する蛾のようになる日。
5. また山々が、梳かれた羊毛のようになる(日である)。
6. それで、彼の秤が(善行で)重い者は、
7. 幸福で満ち足りて暮らすであろう。
8. だが秤の軽い者は、
9. 奈落が、彼の里であろう。
10. それが何であるかを、あなたに理解させるものは何か。
11. (それは)焦熱(地獄)の火。

混迷の中をさまよう人たち。罪に溺れる人たち。主に背を向ける人たち。現世だけを唯一の関心事とする人たち。自分勝手な自我の欲望を満たそうとする人たち……アッラーはこのような人たちに、「現世の行いの報いを受ける世界があること」、「来世における人々の行く末は、幸福か不幸のどちらかであること」を知らせ給います。

審判とその恐ろしさを感じさせながらこの章(マッカ啓示)は述べられます:
「恐れ戦く日。恐れ戦く日とは何か。恐れ戦く日が、何であるかをあなたに理解させるものは何か。」

最後の審判の日に「القارعة アル=カーリア(強打するもの=恐れ戦く日)」という名前が付いている理由は、強烈さと恐ろしさをもって心を打つからです。「恐れ戦く日とは何か」つまりカーリアとは何なのか?こういったネーミングは、最後の審判の日が持つ重要性と恐怖を感じさせます。「恐れ戦く日が、何であるかをあなたに理解させるものは何か」この節が最後の審判の日の恐ろしさを強調しています。その日は被造物すべてが持ち得ている知識を超えた出来事になります。

続いてクルアーンは、「恐れ戦く日」に見られる二つの光景について述べていきます:一つは人々に関連して、二つ目は山に関連しています。人々はその日、恐怖に怯えながら、生きた状態で墓から出てきます:「人間が飛散する蛾のようになる日」つまり人々は混乱と当惑を原因に、飛ばされた弱く、虐げられた蛾のようになってしまう、ということです。蛾は怖い目にあうと、一つの方向に飛ぶことはなく、皆違う方向に飛んでいきます。

山々の光景:「また山々が、梳かれた羊毛のようになる」つまりさまざまな色を持った梳かれた羊毛のようになることを指しています。これは羊毛がばらばらになり、空気の中に散らばることを指しています。他にもその日の山を描写した御言葉があります:「山々が散る時」(81章3節)、「その日、大地と山々は震動し、山々は崩れ流れて、砂の固まりになるであろう」(73章14節)アッラーのみにしか分かりませんが、もしかすると、月や他の星の引力の影響でこのようになるのかもしれません。月やその他の惑星が―アッラーの命に応じて―地球に近づけば、引力によってこのような自然現象が起こると考えられるわけです。それは審判の日が近づいている徴とも取れるでしょう。この節では、しっかりと据えられた山に起こる変化ついて語られていますが、弱い人間が同じ時を迎える瞬間、一体どうなるのでしょうか。

このような恐ろしい審判の日の光景の描写の紹介後、クルアーンは人々の行く末と、彼らが不幸者と幸せ者に分けられることを教えてくれます。ここでは人々の善行と悪行が重みをもった物質として表現されます:「それで、彼の秤が(善行で)重い者は、幸福で満ち足りて暮らすであろう」つまり善行が悪行より多いと、天国で良い生活を送り、アッラーの満足を得られます。当の本人もアッラーに恵んでいただけた恩恵に満足するのです。

代わって善行の秤が軽く、悪行の方が重かった人の結末は、地獄です:「だが秤の軽い者は、 奈落が、彼の里(母)であろう」母親は子の逃げ場であり、最後に行くつくところであることから、ここでは「母」が使われたと言われています。هاويةハーウィヤ(ここでは奈落と訳されています)とは地獄の名称の一つで、深い場所にあるのでそのように名付けられています。こういった表現は不信仰者たちに対する脅迫とも言えるでしょう。または母親という存在は愛情で子を覆うように地獄も不信仰者たちを罰と火花散る業火で覆う、とも言われます。「それが何であるかを、あなたに理解させるものは何か」この疑問文の登場で意味と恐ろしさが強調されます。つまり、ムハンマドよ、ハーウィヤがどういったものであるのかを教えてくれるものは何なのか、となります。それは理解できる範囲外のことです。「(それは)焦熱(地獄)の火」燃料によって熱くなっている火のことです。

(参考文献:①ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーン(P159~161)

②アッ=タフスィール・アル=ワスィート/ワフバ・アッ=ズハイリー薯/ダール アル=フィクル(第3巻P2928~2930)

 

102章解説

2010年07月26日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم
102章解説

1. あなたがたは(財産や息子などの)多いことを張り合って、現を抜かす。
2. 墓を訪れるまで。
3. いや、やがて(死後)あなたがたは(その真実を)知ろう。
4. もう一度言おうか、いや、やがてあなたがたは知ろう。
5. いや、あなたがたは(今に)はっきり知るとよいのである。
6. あなたがたは必ず獄火を見よう。
7. その時あなたがたはそれを明確に目で見ることであろう。
8. その日あなたがたは、(現を抜かしていた)享楽に就いて、必ず問われるであろう。

 この章は、特に私たちが生きる現代の「物質主義という暴君が引き起こす現象」を扱っています。

 近代化が人間に与えた支出を要する種類豊富な贅沢は、人を昼も夜もそれを手に入れるために奔走する近代化の奴隷にし、生活を安楽ではなく苦労の連続に変え、金銭を手に入れる方法を考え続けなければならない不安を心に植え付けました。そして人は人生の貴重な時間さえもそのようなことに死ぬまで費やすようになってしまいます。

 ジャーヒリーヤ時代におけるアラブはかつて、財産や子供の多さと名声の高さに誇りを持ち、自慢しあっていました。そこにこの章が啓示されました:
 「あなたがたは(財産や息子などの)多いことを張り合って、現を抜かす。墓を訪れるまで。」
 意味:金と子の多さの自慢と名声の希求が、あなたがたが死んで墓に入るまでアッラーへの崇拝から忙しくさせてしまった。

 「墓を訪れるまで」は、墓の中での滞在が恒久的なものではなく、単なる訪問であることを暗示しています。訪問は、再生と清算と行為に対する報いを受けるときに終了するということです。

 人間が努力して手に入れようとしているこの至福、そして金集めやその自慢といった熱のこもった競争は、人間を幸せに導きませんでした。ただ、人間関係にひびを入れ、疲労と苦悩を齎したにすぎず、その結果は身体の病や心理的な病となって現れました。

 「現世の享楽と富の収集に完全傾倒すること」、「アッラーを思い起こすこととかれの導きに背を向けること」は、次のアーヤが示しているように、人間を損失に引っ張り込みます:「信仰する者よ、あなたがたの富や子女にかまけて、アッラーを念じることを疎かにしてはならない。そうする者(アッラーを念わない者)は、自らを損う者である。」(偽信者たち章9節)人間には創造主に対して、崇拝する義務と、かれからいただいた数え切れない恩恵に愛情と感謝の気持ちを込めて継続的にかれを唱念する義務があります。アッラーを想い、念ずることは、心を安定させ、そして困難や試練に対して堅甲にしてくれます。代わってアッラー唱念を拒否することは、現世における不幸のきっかけであり、来世におけるアッラーからの恩恵を損なうという結果を齎します。人間が努力して手に入れるべき「本物の至福」とは、次のアッラーの御言葉にあるような現世の去りゆく少ない幸福ではありません。「現世の歓楽は些細なものである」(婦人章77節)それは永続する来世の至福なのです。「主は、親しく慈悲と満悦を与えられ、かれらのために永遠の至福の楽園の吉報を与えられる。」(悔悟章21節)

 では解説が脇道にそれてしまったので本題に戻りましょう。至高なるアッラーは仰せになります:「いや、やがて(死後)あなたがたは(その真実を)知ろう。もう一度言おうか、いや、やがてあなたがたは知ろう。」كلاّカッラー は強い否定、禁止の意味を含みます。つまり:財産やいろいろな贅沢を自慢し合うのをやめなさい、アッラーへの崇拝に背を向けることなどやめなさい、でないとそれぞれの行いの結果を見ることになる、です。クルアーンは文章を2度繰り返していますが、繰り返すことで禁止の依頼をさらに強め、自慢者たちに対する脅しを確かなものとします。

 「いや、あなたがたは(今に)はっきり知るとよいのである。」つまり、人々よ、このような振る舞いは好ましくない。もしあなたがたの死後に報いのためにあなたがたを墓からアッラーが蘇らせ給うと明解に知ったならば、きっとあなたがたはかれの罰を恐れて急いでアッラーにお仕えしたことだろう、という意味です。

 アッラーは彼らが見ることになる結末を説明し給いました:「あなたがたは必ず獄火を見よう。その時あなたがたはそれを明確に目で見ることであろう。」ここには指で数え得る、アラビア語で知られた数少ない文章の意味を確定させる単語がぎっしりと詰まっています。このような表現はどのような長い書物の中にも見られないでしょう。ゆえにそれは紛れもない真実であることが分かります。「獄火を見る」は、その熱さで苦しむことを暗示しています。自慢をやめない人たちは必ずこのような状態に行きつくわけですから、人々は皆、嫌悪される張り合いと現世の楽しみにうつつを抜かすのと、アッラーに仕えること、崇めることから背を向けてしまうのをやめなさい、ということです。

 つづいてアッラーは次の御言葉をもって章を終わらせ給います:「その日あなたがたは、(現を抜かしていた)享楽に就いて、必ず問われるであろう。」つまり、アッラーは信者にも不信者にも現世での至福について質問し給う、ということです。どのようにそれを手に入れ、集め、使ったかを。不信者はアッラーに対する感謝を否定したため、質問は責めの形で行われます。

 楽しみを満たすことに夢中になって、食べて飲んで遊ぶためだけに時間を費やす者に、現世で楽しみは好ましくありません。しかしアッラーからいただいた至福と糧を享受しつつ、それらを勉学や善行のための拠り所とし、そのことに対してアッラーに感謝を捧げ、必要とする人にはサダカし、属している社会に貢献する者には、罪はなく、審判の日にはアッラーの罰から救われる者の一人となるでしょう。

(参考文献:①ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーン(P162~165)


103章解説

2010年07月15日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم
103章解説

1. 時間にかけて(誓う)。
2. 本当に人間は、喪失の中にいる。
3. 信仰して善行に勤しみ、互いに真理を勧めあい、また忍耐を勧めあう者たちの外は。

 この章は、現世と来世における人間の幸福実現のための重要な諸基礎を解明しています。まず至高なるアッラーはこの章を、『時間にかけた誓い』の言葉で開始し給いました。誓いの言葉に使われた『時間』は、《時(ダハル)を罵ってはいけません。実にアッラーこそがダハルなのですから(ムスリム)》というハディースが示しているように、尊くて重要です。また人間の生活にとってどれだけ『時間』が重要な位置を占めているかということ、そこに起こる幸福や不幸、富や貧困といった様々な生活の中にある混乱がここで連想されます。当時に限らず現代の人々の中には、不幸を時のせいにすることがありますが、アッラーはこの誓いの言葉で、『時の中で発生する喪失は人間の行為に因るのであり、決して時そのものに因るのではない』こと、『以下の4項目を実践しない人間は喪失の中にある』ことを明解にし給いました。①アッラーへの信仰、②善行、③真理の勧めあい、④忍耐の勧めあい、です。ではアッラーの御言葉を見てみましょう:

「時間にかけて(誓う)。本当に人間は、喪失の中にいる。信仰して善行に勤しみ、互いに真理を勧めあい、また忍耐を勧めあう者たちの外は。」

 アッラーへの信仰と善行:
 アッラーを信仰することは、人間に課された第一の義務です。なぜなら、人間の素行と理性の正しさは信仰を由来とするからです。この世界に存在するすべてのものがアッラーの存在を証明しているのに、人間は創造主について信仰しないなどありえるでしょうか。

 アッラーへの信仰は、人間の生活に顕著な影響を与えます。信仰は生活の暗闇を払拭し、心に希望を齎しくれます。信者は失敗したり失望すると避難場所、つまり助けてくださるアッラーの存在を思い出しますし、自身に起こった不幸によって報奨を得られると思うことで心を落ち着かせられます。そして目の前の恐怖は小さくなり、困難は容易となります。このため信者は常に安心し、落ち着きがあり、悩みを抱えず、心理的な病に陥ることはないのです。

 代わって信者ではない人は、心理的な病や身体的病の餌食となってしまいます。困難に襲われると忍耐できず、とても心苦しくなります。やがて不眠や酒に溺れることもあります。そして立ち上がれないほどの病を患うか、突然に死に見舞われるという結果になります。

 アッラーへの信仰は、人間の心に善の泉を湧き出させ、害となる欲望やわがままを抑制し、悪や罪から遠ざけてくれます。やがて人間は集団の奉仕に努めるようになりますが、人間がその行いにおいて、自身が信奉する教えの主に服従しているからです。この教えとは、『アッラーが彼の行為をお見通しである』、『審判の日にはその行為を清算し給う』ことを指します。生前の行いが良ければ良く報われ、悪ければ悪く報われることになります。ここで信仰と善行の間にある強い絆が判明します。善行はアッラーを信仰したことよって成った実です。それゆえアッラーはクルアーンの中で信仰と善行を絡めて述べ給うているのです:「信仰し、善行する者たち」と。この2つを行う者には現世と来世で幸福を得られるという吉報と約束と合わせて、50回以上にわたって登場します。

 صالحاتサーリハート(善行)は、صالحةサーリハの単数形です。صلاحサラーフは、腐敗の逆の意味を持ちます。サーリハートは宗教分野の中で、悪行の逆のものとして使われていて、聖クルアーンが幾度に渡って、読む人にそれを勧め、述べている良い行いのことを言います。これはアッラーに捧げる崇拝行為と魂の浄化と集団への心づくしと結びついています。

 真理の勧めあい:
 続けてアッラーは喪失する者たちの中から、真理を勧めあう人たちを除外し給いました。真理の勧めあいとは、間違っていないすべての正しい行いを勧めること、つまりすべての善です。ここから私たちは、社会的責任が人間に課されていること、そして自分自身の完成は、他人の完成に努めない限り実現しないことを知ることができます。

 真理の勧めあいは社会に必要なことです。しかし真理に基づいて何かを行うことは容易ではありません。なぜなら、自我の欲求や個人の利益、不正な為政者などに反するからです。ゆえにイスラームは信徒たちに真理に基づいた行動を要求するだけでなく、真理を勧めあうよう命じているのです。勧めあうとは、真理に基づいて行動することと、他人にそれを勧めることを含みます。以上が実現することで、人々は真理のために生きるようになりますし、真理が人々の闘争を支配し、真理によって集団内に起こる意見の相違に決着がつけられるようになるのです。

 また真理の勧めあいは、共同体の各個人があらゆる善において協力し合うことを指します。

 イスラームは、真理を称賛しており、至高なるアッラーの美名の一つにもなっています。「これも,アッラーこそ真実であり,かれらがかれ以外に祈るものが偽りの(神の)ためである。」(巡礼章62節)

 またアッラーは使徒であるムハンマド(平安と祝福あれ)にイスラーム聖法を解明しつつ話しかけ給うています:「 本当にわれは,吉報と警告の伝達者として,あなたを真理と共に遣わした。」(雌牛章119節)

 忍耐の勧めあい:
 真理は人々にとって重く、それを勧めあうことは災難や困難を伴います。それゆえ真理は忍耐を呼び寄せるものといえるでしょう。だからこそアッラーは『忍耐の勧めあい』と『真理の勧めあい』を一緒に述べ給うたのです。忍耐はいくつかに分かれます:

 イスラームが定めている義務行為遂行に対する忍耐。
 イスラームが禁じている罪を犯すことに対する忍耐。
 困難や災難に対する忍耐。

 最もレベルの高い忍耐は、ショックを受けた最初の瞬間に発生するものであり、興奮の収め具合や心の強さ、信仰の強さを証明するものでもあります。

 忍耐は多くの美徳の基本であり、どのような美徳も忍耐を必要とします。またクルアーンの中でアッラーは、80アーヤに渡って信者たちに忍耐するよう諭し、忍耐する者を褒め、最も良い報奨を約束し給うています。その言葉をいくつか紹介します:「耐えなさい。アッラーは耐え忍ぶ者と共におられる。」(戦利品章46節)、「よく耐え忍ぶ者は本当に限りない報酬を受ける。」(アッズマル章10節)、「耐え忍べ。本当にアッラーは,善行者への報奨を虚しくされない。」(フード章115節)

 この尊いスーラはその短さにもかかわらず、あらゆる善を包括しています。

 また預言者(平安と祝福あれ)の仲間の二人の男は出会うとこのスーラをどちらかが相手に読むまでは分かれなかったと言われています。(アッ=タバラーニー、アル=バイハキー)読むのはお互いにどのような態度と行動を取るべきか思い出すためです。

(参考文献:①ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーン(P166~170)

②アッ=タフスィール・アル=ワスィート/ワフバ・アッ=ズハイリー薯/ダール アル=フィクル(第3巻P2928~2930)


104章解説

2010年07月08日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم
104章解説
1.災いなるかな、凡ての悪口を言って中傷する者。
2.財を集めて計算する(のに余念のない)者。
3.本当にその財が、彼を永久に生かすと考えている。
4.断じてそうではない。彼は必ず業火の中に、投げ込まれる。
5.業火が、何であるかをあなたに理解させるものは何か。
6.(それは)ぼうぼうと燃えているアッラーの火、
7.心臓を焼き尽し、
8.彼らの頭上に完全に覆い被さり、
9.(逃れることの出来ない)列柱の中に。

 アッラーはこの章の中で、人々の尊厳を低める輩を脅迫し給うています。彼らが所有している膨大な財産が彼らをこのような行為に急きたて、またこの財産は自分たちが他人よりもより上位にあり、自分たちだけが恩恵と地位を得ていると彼らに思わせています。

 「災いなるかな、凡ての悪口を言って中傷する者」との御言葉でアッラーはこの章を始め給いました。ويلٌワイルとは:災いあれ、と悪さをするゆえに苦しむに相応しい人に向けられる祈願の言葉です。また:ワイルは地獄にある渓谷とも言われます。همزة لمزةフマザティは他人の悪口を言う人、ルマザは他人の尊厳を攻撃する人を指します。または:フマザとルマザは噂話をし歩いては仲を裂く人を指します。

 「財を集めて計算する(のに余念のない)者」つまり、ケチな人たちが行うように何回も安心するためにお金を数える人のことです。こういった人は一人きりになって部屋の戸を閉め、自分のお金を数え、アッラーの道のためにそれを浪費せず、ザカーなどのアッラーに対する義務を全うすることがありません。

 続けてアッラーは、この種の人たちに与える財の影響を解明し給います:「本当にその財が、彼を永久に生かすと考えている」この節は多くの人々の状態を正しく描写しています。彼らは財が現世において永遠を齎し、災難から守ってくれると思い込んでいます。しかし人間は人生が短く、現世の享楽が少なく、この現世の生活の裏に自分の行為について質問され、また清算される次の生活があることを知らないのでしょうか。

 「断じてそうではない。彼は必ず業火の中に、投げ込まれる」:كلاّカッラー:妨げと叱責の言葉です。つまり、そのような者はこの行為とこの考え方を止めるべきだ、という意味になります。لينبذنّ ラユンバザンナ:放り投げ、投げ捨てる意味があるため、この単語は蔑視と屈辱感を連想させます。章の始まりの意味に以上が応答として述べられるのが自然です。なぜなら彼ら罪人は人々を軽蔑していたためです。応答は彼らが行ったことと同類のものであるということです。ではどこに投げ込まれるのでしょうか?彼らは「حطمة フタマ 業火」に投げ込まれます。それは、フタマと名付けられた地獄の火です。フタマには破壊という意味があるように、この火に投げ込まれるものはすべて壊されます。「業火が、何であるかをあなたに理解させるものは何か」この文章はこの地獄の火の偉大さと重要さを感じさせるものです。「ぼうぼうと燃えているアッラーの火」つまりアッラーの被造物の何者もそれを消すことが出来ないということです。「心臓を焼き尽し」この火は罪人たちの体を食い尽し、心臓に届いてそれも焼いてしまいます。ここで特に心臓が述べられたのは、そこに間違った信条が存在し、悪行が生まれる場所だからです。「彼らの頭上に完全に覆い被さり」この火は彼らの上に覆いかぶさります。「列柱の中に」柱は木や金属で出来ているものですが、彼らは金属の柱で苦しめられるか、この柱に縛り付けられ逃げられないか、火が柱によって閉じられてそこから逃げられないことを指しています。

(参考文献:①ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーン(P171~173)

②アッ=タフスィール・アル=ワスィート/ワフバ・アッ=ズハイリー薯/ダール アル=フィクル(第3巻P2931~2933)


105章解説

2010年07月02日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم

105節解説

1.  あなたの主が、象の仲間に、どう対処なされたか、知らなかったのか。

2.  かれは、彼らの計略を壊滅させられたではないか。

3.  彼らの上に群れなす数多の鳥を遣わされ、

4.  焼き土の礫を投げ付けさせて、

5.  食い荒らされた藁屑のようになされた。

 

マッカで啓示されたこの章はアラブの間で有名な「象の事件」を指しています。この出来事は西暦571年にマッカで起き、アラブ諸国すべてに強い印象を残しました。そのとき、アッラーがカアバに掛け給うているケアのしるしが現われ、カアバに悪を望んだ者たちの計略を一掃し給いました。

 

この事件の詳細を見ていきましょう。エチオピア王国がイエメンを征服すると、アブラハ・アル=アシュラムという統治者をそこに置きました。彼はエチオピア王国が信奉するキリスト教を自らの宗教としていました。彼はイエメンの首都であるサヌアーに装飾された巨大な「クッライス」と名付けた教会を建てましたが、それはアラブ人たちがこの教会に信仰心を持って顔を向け、カアバの代わりにこの教会に巡礼に来るようにするためでした。しかし彼の平和的努力は報われなかったため、この目的は達成されませんでした。代わって彼は、暴力を使ってこの目的を実現させようとしました。彼はサヌアーの教会に関心が移るよう、カアバを崩壊することを決意し、軍隊を作り、アラブ人たちが今までに見たことのないような破壊用の武器を準備しました。そしてアブラハはクライシュ族を怖がらせるための象の軍団を連れてマッカに向かいました。マッカ近くのターイフに向かう道にある「ムガンマス」に着くまで彼らは何の攻撃に遭いませんでした。アブラハはマグマスでキャンプを建ててそこからマッカへクライシュ族の長に人を遣いました。派遣された者が持っていた手紙には次のことが書かれていました:「私はあなたがたと戦うためではなく、聖なる館を壊すためにやって来た。あなたがたがそれに関して戦いで反抗しないのであれば、私にあなたがたの流血は無用だ。」そしてアブラハは遣いに送った男に、「もしクライシュの長が私との戦いを望まぬというなら、私のところに彼を連れてこい」と言っておきました。

 

当時のクライシュの長は、アッラーの使徒(平安と祝福あれ)の祖父であるアブドゥルムッタリブで、彼は威厳ある男でした。アブラハに立ち向かえないと悟った彼は、アブラハと面会し、交渉することにしました。アブドゥルムッタリブは彼に「ティハーマ(紅海に面する南アラビアの地方名)」の3分の1の財産などを与える代わりにマッカから去り、カアバを壊さないことを提案しましたが、アブラハは断りました。

 

アブドゥルムッタリブは自分の民の許に戻り、アブラハの軍隊から逃れるため人々に山に登るよう促しました。そして彼と共にクライシュ族の数人がアッラーに祈り、アブラハに勝利できるよう願うためにカアバに移動しました。アブドゥルムッタリブはカアバの門の環に手をかけて祈りました。

 

そしてアブドゥルムッタリブ達は、アブラハがマッカとカアバにしようとしていることを待つ山に登った人々を追いました。

 

アブラハは軍と象たちをカアバに向けさせましたが、先頭にいた象たちは座り込んでしまいます。兵士たちはカアバを襲うよう象たちを動かそうとしましたがうまくいきません。そしてアッラーが望み給うた軍とその指揮官の滅亡が実行されました。

 

至高なるアッラーは次のように仰せになりました:

あなたの主が、象の仲間に、どう対処なされたか、知らなかったのか。

 

節の冒頭は、ألم تر とありますが、直訳すると、あなたは見なかったのか、となります。これは「あなたは知らなかったのか」、「あなたは知らされなかったのか」という意味です。質問の文体ですが、意味は報告です。続けてアッラーは、「何をされたか」ではなく「どう対処なされたか」と仰せになっていますが、その理由は、アッラーの御力と知の完全さ示している数ある意味を思い出させるためです。象の仲間とは、象を連れてカアバを壊しにきたアブラハの軍を指しています。

 

かれは、彼らの計略を壊滅させられたではないか。」つまり、アッラーは彼らを滅ぼし、彼らの努力と策略を無かったことにし、無駄なものとし給うたではないか。

 

彼らの上に群れなす(أبابيل)数多の鳥を遣わされأبابيل アバービール:とてつもなく多くの鳥や順々に後を追う集団という意味があります。また海から出てきた緑色の鳥であるとか、大コウモリに似た赤色や黒色の生き物で、その爪や口ばしで石を運んでいたとも言われています。

 

焼き土の礫を投げ付けさせて」つまり、アブラハたちにレンズ豆よりも大きく、ひよこ豆よりも小さな石を投げつけていた。

 

食い荒らされた藁屑のようになされた」つまり、アッラーは彼らを動物が草や麦わらを食べて排泄したもののようにされたということです。彼らがばらばらにされたことが軽蔑の気持ちをもって表現されています。

 

至高なるアッラーはこの章の中でアラブ人たちと彼らの後に現われる共同体に、かれの存在とかれの御力、そしてかれの奇跡を目立った根拠で示し給いました。アッラーが象の仲間にあのような目に遭わせ給うたのは、彼らがアッラーの家を壊そうとしたためです。かの家は、イブラーヒーム(平安あれ)がアッラーを崇めるためにアッラーの命令に基づいて建てられ、そしてアッラーはムハンマド(平安と祝福あれ)にイブラーヒームにも与えられた、アッラー御一人を崇拝し、偶像と多神を退けるという使命と、共同体の発展に適合する聖法を与え地上に送り給いました。

 

アッラーの使徒と彼に応じた人々に対するクライシュの害がマッカで激しくなることで、アッラーの使徒は大きな悲しみを負ったわけですが、アッラーはアッラーの使徒の心を強くし、アッラーが真実を実現し、弱者に勝利を与え、不正を制し、強力な罪人を負かし給う証拠としてこの章にある象事件を彼に思い出させ給いました。

 

そのため象事件はアラブ人たちの生活における新しい時代の始まりであったと捉えることが出来ます。彼らはこの出来事で日付けるまでになり、例えばアッラーの使徒(平安と祝福あれ)は「象の年」にお生まれになり、彼の誕生から40年後にクルアーンが少しずつ彼に啓示され始めました。彼らはこの事件を目の当たりにし、アッラーの奇跡がカアバ崩壊を望んだ者たちが滅ぼされる中にあるのを目の当たりにしたためです。もしこの奇跡に少しでも疑いがあったならば、預言者(平安と祝福あれ)の敵たちが必ずや、この事件はクルアーンが怪しい証拠であると主張したことでしょう。しかしこのようなことは決して起きていません。

 

(参考文献:①ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーン(P174177

②アッ=タフスィール・アル=ワスィート/ワフバ・アッ=ズハイリー薯/ダール アル=フィクル(第3P29342936