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イスラーム勉強会ブログ

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87章解説

2011年08月18日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم
1. 至高の御方、あなたの主の御名を讃えなさい。
2. かれは創造し、整え調和させる御方、
3. またかれは、法を定めて導き、
4. 牧野を現わされる御方。
5. それから、浅黒く枯れた刈株になされる。
6. われは、あなたに読誦させるようにした。それであなたは忘れないであろう。
7. アッラーの御望みがない限りは。本当にかれは、表われたものと隠れたものを知っておられる。
8. われはあなたに(道を)平坦で、安易にするであろう。
9. だから訓戒しなさい。訓戒は(聞く者に)役立つ。
10. 訓戒は、主を畏れる者に受け入れられよう。
11. だが最も不幸な者は、それを避けるであろう。
12. かれは巨大な炎で焼かれよう。
13. その中で、死にも、生きもしない。
14. だが自ら清めた者は必ず栄え、
15. かれの主の御名を唱念し、礼拝を守る。
16. いや、あなたがたは現世の生活の方を好む。
17. 来世がもっと優れ、またもっと永遠なものであるのに。
18. これは本当に、昔の啓典にあり、
19. イブラーヒームやムーサーの啓典にもある。

 この章は、アッラーへの称讃につながり、またアッラーの使徒に、信仰の民が益する良いアドバイスを与えるよう呼び掛けているアッラーの偉大な御力の現象のいくつかを解明します。また、勝利とは、罪や間違いから清まる機会を得られることであるとも解明します。

 まず、人間の目を、アッラーの偉大さに向けさせ、またかれを讃え、かれから全ての欠点とかれに相応しくないあらゆる属性や動きを退ける呼びかけに向けさせることから始まります:「至高の御方、あなたの主の御名を讃えなさい」かれこそは、すべての上に、その所有力と権力で、存在し給う御方です。

 至高なるかれは:「創造し、整え調和させる御方」、つまり、ものを創り、その創造を調和させ、整え、被造物の姿を、アッラーの叡智に適った形にし給いました。それらは、意図された益のために準備されたのです。人間の創造の秘密について考えてみてください。その消化や呼吸器官の構造、聴覚、視覚の細かさ、血管、両手、両足にきっとあなたは驚くことでしょう。また、人間の命が成り立つための全ての器官にも。加えて、他の被造物にはない、理性にも驚愕することでしょう。

 クルアーンは、アッラーの御力の現象のいくつかを述べます:「またかれは、法を定めて導き」つまり、この地上にあるすべての被造物に、任務を与えたということです。アッラーは人間を善い道と悪い道に導き、この二つの道を解明してどちらかを選べるようにし給いました。また、アッラーは生き物らをそれら行き方に導き給いました。そのため、動物や虫の専門家たちは、彼らの生き方や、その種の守り方、住処の作り方、繁殖のし方、特別なひらめきによるとしか説明できない、その卵の守り方に驚愕したのです。クルアーンは、このひらめきをアッラーが元となっている「導き」と名付けています。

 植物の発芽における、アッラーの御力の表現をクルアーンは続けます:
 「牧野を現わされる御方。それから、浅黒く枯れた刈株になされる。」
 アッラーは大地から、さまざまな種類の植物から成る、家畜用の牧野を出現させ給いました。そしてこの草は乾燥し、枯れ、黒に近い色に変わり、風が吹くと飛んでいってしまいます。現世の命はこのようであるのです。現世にあるあらゆるものは、消滅に向かっているのです。

 続けてクルアーンは、アッラーは御自身の使徒ムハンマド(平安と祝福あれ)が、大天使ジブリールよりクルアーンを受け取り、それを決して忘れないことを解明します:

 「われは、あなたに読誦させるようにした。それであなたは忘れないであろう。アッラーの御望みがない限りは。本当にかれは、表われたものと隠れたものを知っておられる。」

 アッラーは仰せになります:ムハンマドよ、このクルアーンをあなたに読ませよう。それであなたは、アッラーが取り消しのために忘れさせるよう望み給う以外に、決してクルアーンを忘れないだろう。本当にかれは、言葉や行為といった、しもべたちが表に出すことも隠していることも知り給う。そういったものはすべて、かれに隠れることなどないのである。

 以上は、実際に起きた、不可視の消息の一つでした。ムハンマド(平安と祝福あれ)は、文盲であったにもかかわらず、この長々としたクルアーンを暗記し、その一部分をも忘れたことなどないのでした。

 続けてアッラーは、使徒ムハンマドに語りかけ給います:「われはあなたに(道を)平坦で、安易にするであろう。」つまり、ムハンマドよ、あなたのために、善行を容易なものにしよう。それこそが、アル=ユスラーです。イスラーム聖法は、そのすべてが善であり、容易な道に導いてくれる法なのです。クルアーンは、雌牛章の中で、アッラーは、彼らに施行し給うた全てのことにおいて、人間に易しきを求め給うていることを示しています:「アッラーはあなたがたに易きを求め、困難を求めない。」(雌牛章185節)

 アッラーは、人が二部に分かれると仰せになります:知らされる真実や善から、訓戒を得、益を得る者たちで、自分の成功と幸福となります。もう一部は、本質自体が腐ってしまい、向けられた訓戒が何の影響も齎さないような人たちです。彼らは、永遠のアッラーの罰を受けるに相応しい、不幸せな者たちです:

 「だから訓戒しなさい。訓戒は(聞く者に)役立つ。訓戒は、主を畏れる者に受け入れられよう。だが最も不幸な者は、それを避けるであろう。かれは巨大な炎で焼かれよう。その中で、死にも、生きもしない。」

 至高なるアッラーは仰せになります:ムハンマドよ、アッラーの導きを人々に思い出させ、彼らを訓戒し、アッラーの罰を警告しなさい。「だが最も不幸な者は、それを避けるであろう」訓戒から遠ざかる不幸者で、それを受け入れません。「かれは巨大な炎で焼かれよう」つまり、最大の炎で焼かれる、です。地獄の中でのその激しい熱さと、罰執行人の厳しさから来る痛みのため、このように呼ばれます。「その中で、死にも、生きもしない」つまり、不幸者はその中で死んで、休むことも、自分を益するような生き方もないということです。

 「だから訓戒しなさい。訓戒は(聞く者に)役立つ」この節には、社会に、訓戒や指導、選ばれた教えを人々に思い出させる義務にあたる者を常に置くようにとの指導があります。なぜなら社会には、それらを受容できる先天的余裕があるためです。代わって、訓戒から顔を背けることは、道徳心の崩壊と、腐敗の広まりを招きます。

 続いてアッラーは、勝利と救いは、多神信仰と罪業から清められ、善行で自分を成長させた者に与えられます。その意味は、次の御言葉です:「だが自ら清めた者は必ず栄え」この御言葉にアッラーは以下を追加し給います:「かれの主の御名を唱念し、礼拝を守る」つまり、唯一のアッラーを崇め、心と舌でかれを想い、五回の礼拝に立った者を指します。

 またアッラーは、現世の生活を優先することは、害の基礎であると解明し給います。なぜならそれは、訓戒を聞いて、受け入れることから、人間を離れさせるからです。これは、消えゆく現世の本当の姿に人々が留意するように、そして現世に優る、永遠に残る来世のために働くようにとの警告なのです:

 「いや、あなたがたは現世の生活の方を好む。来世がもっと優れ、またもっと永遠なものであるのに。」

 アッラーは次の御言葉で章を締めくくり給います:
 「これは本当に、昔の啓典にあり、イブラーヒームやムーサーの啓典にもある。」

 つまり、この章が含んでいる全ての意味、もしくは、「だが自ら清めた者は必ず栄える」から、「永遠なものであるのに」までの御言葉は、イブラーヒームとムーサー(お二人に平安あれ)に啓示された啓典と同内容である、ということです。

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP89~93)


88章解説

2011年08月09日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم
88章解説
1. 圧倒的(事態の)消息が、あなたに達したか。
2. (或る者の)顔はその日項垂れ、
3. 骨折り疲れ切って、
4. 燃えさかる獄火で焼かれ、
5. 煮えたぎる泉水を飲まされる。
6. かれらには苦い茨の外に、食物はなく、
7. それは栄養にもならず、飢えも癒せない。
8. (外の或る者たちの)顔は、その日歓喜し、
9. かれらは努力して心充ち足り、
10. 高い楽園の中に置り、
11. そこで、虚しい(言葉)を聞かない。
12. そこには、流れる泉があり、
13. 高く上げられた(位階の)寝床があり、
14. 大杯が備えられ、
15. 褥は数列に並べられ、
16. 敷物が敷きつめられている。
17. かれらは骼駝に就いて、如何に創られたかを考えてみないのか。
18. また天に就いて、如何に高く掲げられたか、
19. また山々に就いて、如何に据え付けられているか、
20. また大地に就いて、如何に広げられているかを。
21. だからあなたは訓戒しなさい。本当にあなたは一人の訓戒者に外ならない。
22. かれらのための、支配者ではない。
23. だが誰でも、背き去って信仰を拒否するならば、
24. アッラーは最大の懲罰でかれらを罰される。
25. 本当にわれの許に、かれらは帰り来るのである。
26. かれらの清算は、本当にわれの任である。

 この章は、審判と人々のその日の行き先―至福か罰か―について述べ、また何でも可能な御方の力を垣間見られる現象のいくつかに私たちの関心を向けます。

 まず、聴覚に審判の日の恐ろしさやその日の人々の帰り処が何かを訴えかける表現から始まります。アッラーは仰せになります:「圧倒的(事態の)消息が、あなたに達したか。」事態の重要性を大きくし、それが確実に起こることを強調し、一体それはどのような消息であるのか興味を持たせるために疑問詞が使われています。アル=ガーシヤ(覆うという意味を持つغ ش يが語幹)は、審判を指しています。その恐ろしさと激しさで人々を覆うためこのように名付けられました。

 続いてクルアーンは罰を受ける人間の様子と至福を享受する人間の様子を語ります。審判の恐ろしさと激しさに合わせて、まず罰を受ける民の光景が述べられます:

 「(或る者の)顔はその日項垂れ、骨折り疲れ切って、燃えさかる獄火で焼かれ」

 かの日、屈辱を味わっていると分かる顔があるでしょう。彼らは現世で大いに苦労したのですが、来世のためには何もなりませんでした。なぜならその人の現世の行いは不信と罪だけだったためです。または:不信仰者たちは、来世において、日の中で鎖や足枷を引っ張ることで疲れ、苦しむだろうし、それに地獄の暑さの厳しさが追加されるという意味です。

 クルアーンは続けて、彼らの苦しみを表現します:

 「煮えたぎる泉水を飲まされる。かれらには苦い茨の外に、食物はなく、それは栄養にもならず、飢えも癒せない。」

 激しいのどの渇きを癒やすなにかをくれ!と地獄の民が求めて出てくるのは、沸点に達した熱いお湯です。空腹のあまりに痛む彼らが食べ物を求めると、ダリーゥという棘の種類の果実が出てきますが、腹の足しになるようなものでは決してなく、反対に食べる者の害となります。

 以上が罰の民の光景です。代わって至福の民をクルアーンは次のように表します。

 「(外の或る者たちの)顔は、その日歓喜し、かれらは努力して心充ち足り、高い楽園の中におり、そこで、虚しい(言葉)を聞かない。」

 喜びと善良さを合わせた表情です。それらは彼らが享受する至福から来る影響です。

 「かれらは努力して心充ち足り」自分たちの現世の行為に満足している、また来世でアッラーが彼らに与え給うた至福に満足しているという意味です。さて、この至福はどこにあるのでしょう?それは、「高い楽園の中に」あります。天国(ジャンナ)は来世における至福の住処です。ジャンナの由来は、覆い。木が豊かで、陰が出来る様子がうかがえます。天国の特徴も場所と同様に、高いのです。クルアーンはこの天国を次のように描写します:「そこで、虚しい(言葉)を聞かない」そこでは意味のない言葉や間違った言葉を聞くことなどないという意味です。天国にあるそのほかの至福について言及する前に、天国をこのように描写したのは、現世における裕福で贅沢な生活を送る人たちの状態に対する批判が背景にあります。彼らは、言葉遣いにおいて限度を超えるのが至福を補完するものだとしています。この中には、意味のない話をする者とならないようにとの、信者に対する教訓が含まれています。アッラーは現世で彼らに対し、かれの恩恵をたくさん授け給うているのですから、信者たちの至福は、無知で愚かな人たちの至福ではなく、徳のある人たちの至福であるべきなのです。

クルアーンは続けて、天国の至福を描写します:
「そこには、流れる泉があり、高く上げられた(位階の)寝床があり、大杯が備えられ、褥は数列に並べられ、敷物が敷きつめられている。」

天国には、噴出する泉が流れており、それは止まることがありません。また高いところに設置された心地よい座り場所もあります。そこに座った信者が主が彼のために許し給うたすべての至福を目で見ることが出来るようにするためです。またすぐ手に取れる、準備されたコップが置かれてもいます。人々が飲みたいと望むと、コップは飲み物で満たされるのです。彼らは居間で、並べられたクッションに寄りかかります。そこには楽しみと美しさを添える絨毯が敷き詰められています。

クルアーンが来世の生活の概要を述べた後、話題は現在の生活に戻ります。この世界における創造主の偉大さと顕在したかれの御力に今度は私たちの目を向けさせます。至高なる御方は仰せになります:

「かれらは骼駝に就いて、如何に創られたかを考えてみないのか。また天に就いて、如何に高く掲げられたか、また山々に就いて、如何に据え付けられているか、また大地に就いて、如何に広げられているかを。」

クルアーンは私たちの目を、私たちの傍は上にある、そこから訓戒を得ないまま見ているものに向けさせます。その第一番目が:ラクダです。クルアーンを授かったアラブ人は、他の人たちに比べてラクダを頻繁に利用していたからです。その創造には、秘密があり、叡智と神の御力を感じさせる秘密があります。これについてはこの章の最後で詳細を述べます。

代わって天の創造について言えば、それはアッラーの御力を最も感じさせます。天は、人類が昇っていこうとするもの、星や惑星に満ちた場所です。科学者たちは、望遠鏡の発明がされた後、その数は数百億にのぼるとしました。

またクルアーンは、山々を大地に据え、大地を広げて、何億もの人間や生き物が住むのに適した場所にし給うたアッラーの御力の様子に目を向けさせます。

審判の日の情景、この世界におけるアッラーの御力の様子が述べられた後、アッラーは使徒(平安と祝福あれ)の目を、訓戒と強制ではなく慈善に基づいた彼に与えられた任務に向けさせ給います:

「だからあなたは訓戒しなさい。本当にあなたは一人の訓戒者に外ならない。かれらのための、支配者ではない。」

つまり、ムハンマドよ、人々にアッラーの御力と叡智を示す諸印、彼らに下された恩恵を思い出させなさい。われがあなたを彼らに遣わしたのは、アッラーの導きを彼らに知らせ、それによって彼らを訓戒するため。あなたは彼らを支配する者でも、人々にあなたのしたいことをさせるような暴君でもない、という意味です。

続けてクルアーンは、アッラーの導きに背を向けた人の行く末を解明します:

「だが誰でも、背き去って信仰を拒否するならば、アッラーは最大の懲罰でかれらを罰される。」

つまり、しかし、あなたムハンマドに背き、アッラーの導きによって導かれず、かれの諸印を拒否する者は、アッラーはその者を最大の罰、つまり地獄の罰で罰されるだろう、という意味です。

死と再生で人々がアッラーの許に帰ることは、紛れのない事実です。アッラーは彼らの行為を清算し給います:「本当にわれの許に、かれらは帰り来るのである。かれらの清算は、本当にわれの任である。」

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP94~99)


89章解説【2】

2011年04月12日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم
17. 断じていけない。いや、あなたがたは孤児を大切にしない。
18. また貧者を養うために、互いに励まさない。
19. しかも遺産を取り上げ、強欲を欲しい尽にする。
20. またあなたがたは、法外な愛で財産を愛する。
21. 断じていけない。大地が粉々に砕かれる時、
22. 主は、列また列の天使(を従え)、来臨なされる。
23. また地獄は、その日(目の当たりに)運ばれ、その日人間は反省するであろう。だが反省したとて、どうしてかれのためになろうか。
24. かれは、「ああ、わたしの(将来の)生命のために、(善行を)貯えていたならば。」と言う。
25. それでその日、誰もなし得ない程の懲罰を加えられ、
26. また誰も拘束し得ない程に束縛なされる。
27. (善行を積んだ魂に言われるであろう。)おお、安心、大悟している魂よ、
28. あなたの主に返れ、歓喜し御満悦にあずかって。
29. あなたは、わがしもべの中に入れ。
30. あなたは、わが楽園に入れ。

 続いてアッラーは試練の真意について無知な、正しい道を歩まない富豪から成る罪人を批判し給います:

 「断じていけない。いや、あなたがたは孤児を大切にしない。また貧者を養うために、互いに励まさない。 しかも遺産を取り上げ、強欲を欲しい尽にする。 またあなたがたは、法外な愛で財産を愛する。」

 孤児に寛大に接しないどころか彼らを軽蔑し、自分たち同士で貧者に食事を提供しようとせず、自身や他人の遺産を激しく浪費し、あらゆる手段を使って集める金を貪欲に愛するこの大金持ち達。アッラーは次の節の始まりの「カッラー كلا」の言葉で彼らを暴露し給います。つまりこれらの醜い行為から遠ざかりなさい、それは求められている健全な道ではないから、という意味です。

 アッラーが彼らの悪行を露わにし給うと、彼らに対する恐ろしい約束が言及されますが、それによって導きの道を彼らが選ぶことを望み給うているからです。地震、大地にある全ての崩壊といった審判の日の恐怖に満ちた光景が描写されることで警告が示されます。その日、アッラーの命と裁定、天使たちが列をなし、地獄が罪人たちに見せつけられます:「断じていけない。大地が粉々に砕かれる時、主は、列また列の天使(を従え)、来臨なされる。主は、列また列の天使(を従え)、来臨なされる。また地獄は、その日(目の当たりに)運ばれる。」

 この震え立つような光景の前で、人間の行為が記された書物が開かれますが、生前に何を行ったかを思い出しても、何の役にも立ちません。もう手遅れなのです。「その日人間は反省するであろう。だが反省したとて、どうしてかれのためになろうか。」その瞬間、主に背いていた人間は、悲観と後悔の念で溢れる言葉を露呈します:「かれは、「ああ、わたしの(将来の)生命のために、(善行を)貯えていたならば。」と言う。」来世の自分の命を益する善行を現世で行っておけばよかった、ということです。クルアーンは、「私の生命」が来世のものだとしており、本当の命こそが、「命」の名に相応しいことを示唆しています。そのため現世における人間の背信行為は来世において悔いと悲観しか齎しません。しかし後悔の念など役立つことはなく、そこには現世に存在するどのような罰にも似ない罪人たちを苦しめるアッラーの罰があるのみです:「それでその日、誰もなし得ない程の懲罰を加えられ、また誰も拘束し得ない程に束縛なされる。」

 この混乱した状況の中、魂は請い願いながら無垢な善良者たちの帰り処に向きます。ここでアッラーが準備してくださっている報奨である善良者たちに対する吉報が登場します:

 「おお、安心、大悟している魂よ、あなたの主に返れ、歓喜し御満悦にあずかって。あなたは、わがしもべの中に入れ。あなたは、わが楽園に入れ。」

 安心大悟している魂とは、恐れや悲しみに扇動されない魂です。主との謁見、信仰の民に約束された善良な帰り処に対して安心大悟しています。

 安心大悟している魂とは、現世ではアッラーに背いたことがなく、すべてをアッラーに任せている魂をいうのです。

 この安心大悟している魂は、アッラー御自身がムーサー(平安あれ)に語りかけ給うたように、または人々が清算を終わらせたときの天使の言葉として、または復活の際か死ぬ際に語りかけられます:「あなたの主に返れ、歓喜し御満悦にあずかって。」アッラーがあなたに準備し給うた素晴らしい報奨に満足して、あなたの主の報奨と寛大さに帰りなさい。アッラーもあなたが積んだ善行に満足し給うている。「あなたは、わがしもべの中に入れ。あなたは、わが楽園に入れ。」側近のアッラーのしもべたちの集団の中に入り、天国で終わることのない至福を楽しみなさい、という意味です。

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP107~108)


89章解説【1】

2011年04月05日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم
89章解説
1. 暁において、
2. 10夜において、
3. 偶数と奇数において、
4. 去り行く夜において(誓う)。
5. 本当にこの中には、分別ある者への誓いがあるではないか。
6. あなたはアッラーが、如何にアード(の民)を処分されたかを考えないのか、
7. 円柱の並び立つイラム(の都)のことを、
8. これに類するものは、その国において造られたことはなかったではないか。
9. また谷間の岩に彫り込んだサムード(の民)や
10. 杭のぬしフィルアウン(のことを考えないのか)。
11. これらは(凡て)、その国において法を越えた者たちで、
12. その地に邪悪を増長させた。
13. それであなたの主は、懲罰の鞭をかれらに浴びせかけられた。
14. 本当にあなたの主は監視の塔におられる。
15. さて人間は主が御試みのため、寛大にされ恵みを授けられると、かれは、「主は、わたしに寛大であられます。」と言う。
16. だがかれを試み、御恵みを減らされる時は、「主はわたしを、軽視なさいます。」と言う。

 アッラーがしもべを善と悪で試し給うことにおけるアッラーの慣行の解明と共に、道を外し腐敗した過去の文明に対して発せられた警告がこの章の中で述べられます。審判、その時のアッラーの威厳さ、その恐ろしい日の人々の帰り処…至福か罰か…についても述べられます。

 アッラーはまず、被造物を発明し給うた素晴らしさ、御自身の物事の進め方における叡智を示す数々の重要な事柄に関連させた誓いの言葉で章を開始し給います:

 「暁において、10夜において、偶数と奇数において、 去り行く夜において(誓う)。本当にこの中には、分別ある者への誓いがあるではないか。」

 「暁において」:アッラーは朝の光において誓い給いました。なぜならそれはかれの驚異的な創造の一つだからです。夜が過ぎて、昼の到来が来るように、「10夜において」と、至高なるアッラーは徳のある10日間においても誓い給いました。この10日間は、人々の導きとしてクルアーンの降下が始まったライラトゥルカドゥルが遭遇するラマダーン月の最終10日間であるかもしれないことで、暁との関連、つまり暁が夜の暗闇を分散させるように、クルアーンは無知と不信の暗闇を払いのけることに関心を向けさせます。また、ズ・ル・ヒッジャ月の祝福された最初の10日間であるとも言われます。なぜなら巡礼の儀式で忙しい日々であり、その時に人々が罪から浄化されるからです。アル=ブハーリーの真正ハディースに次のようにあります::《この日々(ズ・ル・ヒッジャ月の最初の10日間)に行われる善行よりもアッラーが好まれるものはない。》

 「偶数と奇数において」存在するすべての偶数と奇数においてアッラーは誓い給うていますが、それで被造物と創造主を指しています。おひとりのアッラーは「奇数」、被造物は雌雄に分かれる「偶数」です。

 「去り行く夜において」過ぎゆく夜においてもアッラーは誓い給うています。その後には昼が訪れます。夜と昼の交代は、アッラーの御力を示すしるしの一つです。「本当にこの中には、分別ある者への誓いがあるではないか」つまり、これまでに述べられた事柄は、理性ある者を説得させる誓いではないだろうか?という意味です。誓われる事柄は省略されており、「これらの事柄の主(アッラー)は必ず不信仰者を罰するだろう」であると推測できます。次に続く言葉がそれを示しています:

 「あなたはアッラーが、如何にアード(の民)を処分されたかを考えないのか、円柱の並び立つイラム(の都)のことを、これに類するものは、その国において造られたことはなかったではないか。また谷間の岩に彫り込んだサムード(の民)や 杭のぬしフィルアウン(のことを考えないのか)。これらは(凡て)、その国において法を越えた者たちで、その地に邪悪を増長させた。それであなたの主は、懲罰の鞭をかれらに浴びせかけられた。本当にあなたの主は監視の塔におられる。」

 至高なるアッラーは仰せになります:ムハンマドよ、アッラーが「アードの民」に何をされたか知らないのか、という意味です。遠い昔に滅びたアラブ系の民であった彼らは、オマーンとイエメンの間にある砂丘に住んでいました。「イラム」アードの部族の一つか、アードが住んでいた都の名前です。「円柱の並び立つ」高い円柱という言葉から、アード人は背が高かったのではないかと言われています。また:テントの柱ではないかとも言われます。彼らは牧草地を転々とし、旅する度にテントを張っていたためです。また、円柱を立ててその上に城を建てていたとも言われます。「これに類するものは、その国において造られたことはなかったではないか」つまり、彼らのような力強さ、たくましさと身長の高さを持つ民など創造されたことはない、という意味です。「サムード」過去に滅びた有名なアラブ系の民です。彼らはヒジャーズとタブークの間に住んでいました。「岩に彫り込んだ」つまり、山の岩を取って来て、彫り込み、自分たちの家とした、という意味です。「谷間の」村の谷です。「杭のぬしフィルアウン」つまり、フィルアウンを強化する軍隊を持つフィルアウンです。また:フィルアウンはかつて杭を使って人々を苦しめ、死ぬまで縛りあげていたとも言われます。「これらは(凡て)、その国において法を越えた者たちで」つまり、不正と敵対において限度を超えたということです。「その地に邪悪を増長させた」その地に不正、殺戮といったあらゆる悪を増やしたということです。「それであなたの主は、懲罰の鞭をかれらに浴びせかけられた」激しい罰を指します。「サッバ」は本来、飛び散らせながら水をかけることを意味します。「サウト(鞭)」は、よく知られた叩くための道具です。鞭が体に浴びせられるという表現で、痛みがどれほど激しいものなのかがよく伝わってきます。「本当にあなたの主は監視の塔におられる」あなたの主はすべての人間の行為を見張り給うている、という意味です。そしてアッラーはその行為に報い給います。

 続いてクルアーンは、豊かさと貧しさ、それらが魂に与える影響についての話題に移ります:

 「さて人間は主が御試みのため、寛大にされ恵みを授けられると、かれは、「主は、わたしに寛大であられます。」と言う。だがかれを試み、御恵みを減らされる時は、「主はわたしを、軽視なさいます。」と言う。」

 裕福な人たちの多くは、豊かな財産は、アッラーが自分たちを満足し給うていることの証拠であり、他の人たちを除いて、自分たちだけ特別に恩恵を与えてくださっているのだと思い込んでいます。そして多くの貧しい人たちは、貧困はアッラーが自分たちを軽視し給うている証拠だと思い込んでいます。この二種類の人たちに対してクルアーンは次の節の始まりで、「断じていけない(全く違う)」と言っています。つまり、その二つの状態は、人間が思い込んでいるようなものではないということです。アッラーが糧を豊かにしてくださったということは決してその者に対してアッラーが寛大に接し給うたのでも、その者がアッラーの御許で尊い存在であると証明しているわけではありません。また糧を少なくされたということは、軽視され、アッラーの御許で位を低めらていることを指しているのでもありません。アッラーは人間に対する試練として、糧を豊かにし給い、また少なくし給うのです。だからこそアッラーは豊かさについての話と貧しさについての話を扱ったこの節を「主が御試みのため」という言葉で開始し給うているのです。御試みは、試験を意味します。

 豊かさは、恩恵の誘惑にどの程度立ち向かえるかの見極めのため、アッラーから人間に与えられた試練です。貧しさも同様に、苦しみにどのくらい耐えられるかはっきりさせるための試験です。恩恵や不幸は与えられた人にとって良いこととなる場合があります。恩恵にどっぷり浸ることが不正、欲望追従、崇拝行為の放棄に繋がるように、貧困がアッラーへの回帰のきっかけになることがあるということです。

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP101~107)


90章解説

2011年03月22日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم
90章解説
1. われはこの町において誓う。
2. あなたはこの町の(居住権を持つ)住民である。
3. 生む者と生まれる者にかけて(誓う)。
4. 本当にわれは、人間を労苦するように創った。
5. かれ(人間)は、何ものも、自分を左右する者はないと考えるのか。
6. かれは、「わたしは大変な財産を費した。」と言う。
7. かれは、誰もかれを見ていないと考えるのか。
8. われは、かれのために両目を創ったではないか、
9. また一つの舌と二つの唇を。
10. 更に二つの道をかれに示した(ではないか)。
11. だがかれは、険しい道を取ろうとはしない。
12. 険しい道が何であるかを、あなたに理解させるものは何か。
13. (それは)奴隷を解放し、
14. または飢餓の日には食物を出して、
15. 近い縁者の孤児を、
16. または酷く哀れな貧者を(養うこと)。
17. それから信仰する者になって忍耐のために励ましあい、互いに親切、温情を尽しあう(ことである)。
18. これらは右手の仲間である。
19. だがわが印を拒否する者、かれらは左手の仲間である。
20. かれらの上には、業火が覆い被さるであろう。

 この章は、人間は苦労するよう創られていること、来世における至福の獲得はこの章で教えられるような善行で苦難を乗り越えることに関係していることを説明します。

 まず至高なるアッラーは、この章をマッカにおける誓いの言葉で始め給います。「われはこの町において誓う」マッカの徳にちなんでです。アッラーはマッカを安全な聖域とし給い、そこにある聖マスジドについても次のように仰せになっています。「また誰でもその中に入る者は,平安が与えられる。」(3/97)そしてアッラーはこのマスジドを人々の礼拝のキブラとし、またそこを巡礼することも命じ給いました。

 アッラーはムハンマド(平安と祝福あれ)に恩恵を与えつつ、彼にそれを思い起こさせ給います。またムハンマド(平安と祝福あれ)がマッカに居住することによって町にはさらなる光栄が増すことも彼に思い起こさせ給います。「あなたはこの町の(居住権を持つ)住民である」

 またアッラーは「生む者と生まれる者にかけて」誓い給います。この節はアーダムと彼が生んだ者、その後に続く世代と彼らが父親と母親から受け継いでいく性格を指しています(アッラーのみが御存知ですが)。そこにはアッラーの御力の偉大さがはっきりと示されています。

 次に来るのは誓いの応答です。「本当にわれは、人間を労苦するように創った」つまり人間は家畜の地位から上昇できるよう、あらかじめ疲労や困難に悩むよう創られているということです。人間の命は地球に存在したときから期限が終わるまでの間、痛みに溢れ、数々の災難に囲まれます。人間はこういった命の本質を受け入れなければならず、それに応じて行き方や思考を選ばなければいけません。そうすれば困難や試練が起こっても驚愕することはないでしょう。

 人間は時に権力や豊かさから自我に溺れ、道を外れたり周りを害することがあります。ここでアッラーは仰せになっています:「かれ(人間)は、何ものも、自分を左右する者はないと考えるのか」つまり、この人間は報復から逃れられると思っているのか、ということです。彼の思い込みは間違いであり、彼は確実にアッラーの手中にあるのです。そして善の道のために少額の財産を差し出すように呼びかけられる時、「かれは、「わたしは大変な財産を費した。」と言う」つまり、たくさんのお金を使った、という意味で、彼が金を使うときは大抵、欲を満たすためだけです。「かれは、誰もかれを見ていないと考えるのか」つまり、この財産を費やす時、アッラーがそのことについてお尋ねにならないとでも思っているのか、何に費やしたかに応じて報い給わないと思っているのか、善の道のためかそれとも悪の道のためだったのか、ということです。

 続けてクルアーンは、アッラーが人間に与え給うた恩恵の数々を解明していきます:
 「われは、かれのために両目を創ったではないか、また一つの舌と二つの唇を。更に二つの道をかれに示した(ではないか)。」

 アッラーは人間にこの精度と創造の奇跡に基づいて目を作り給いました。この目の恩恵により人間は生きる糧を得るために奔走できるので、見るという楽しみをありがたく感じ、アッラーに視力という恩恵に感謝し、禁じられたものに目を向けてしまうことから守ってくださるよう祈らなければいけません。またアッラーは人間に、味わい、話すための舌と唇と与え給いました。度を越して話してしまった場合は、アッラーが与えてくださった恩恵を思い出し、生まれる感謝の気持ちを真実の道に反映させれば、良いことしか話さなくなるでしょう。

 そしてアッラーは、善と悪を認識する能力の特性を人間に植え付け、両者を見分ける理性を与え給いました。「更に二つの道をかれに示した」つまり、善と悪の道を人間に解明したということです。そのため人間は不幸を招く悪の道に行かず、正しい道を辿るべきであり、彼と天国の間にある障害を乗り越えます。

 「だがかれは、険しい道を取ろうとはしない。険しい道が何であるかを、あなたに理解させるものは何か。(それは)奴隷を解放し、または飢餓の日には食物を出して、近い縁者の孤児を、または酷く哀れな貧者を(養うこと)。」

 つまり、人間は障害を乗り越えなければいけないような道を通ろうとしない、という意味です。アカバ=険しい道とは、超えるのが困難な山道を指します。または、地獄にある山と言われます。または、アカバは、アッラーが示し給うた善の道における自我と悪魔との戦いの例えとも言われます。「険しい道が何であるかを、あなたに理解させるものは何か」アカバの難しさを強調する一文です。

 険しい道を乗り越える方法は、「(それは)奴隷を解放し」つまり、人間を奴隷状態から自由にすることです。ファック=解く、ラカバ=首というフレーズが使われることで、奴隷は、人間性を奪い、家畜と同じレベルにする鎖で首元を絞められていることを感じさせます。

 イスラーム時代のアラブ社会は奴隷制度に苦しめられていました。そこに現われたイスラームは奴隷制度とそこから派生する悲劇を何とかしようとしました。そこでイスラームは奴隷制度に対して慈悲で応対し、奴隷解放を多くの罪滅ぼしの行為としました。また奴隷解放を最も崇高な善行の一つとしました。

 険しい道を乗り越える他の方法:「または飢餓の日には食物を出して」つまり、飢餓の日に貧者に食べ物を提供することです。なぜ日が限定されているのかというと、飢餓の日に食べ物を差し出すことは、自我にとってとても厳しい行為だからです。特にその貧者が「近い縁者の孤児」で、自分が富んでいる場合です。「または酷く哀れな貧者」土のほかに家となるものも何も持っていない人のことです。彼ら必要としている人たちに、富者がその持つ財産の一部を差し出すことには、自己鍛錬が欠かせません。実はこれこそが人間が乗り越えてアッラーの満足に辿り着くべき険しい道なのです。以上は次の特性を備えていなければいけません:

 「それから信仰する者になって忍耐のために励ましあい、互いに親切、温情を尽しあう(ことである)。これらは右手の仲間である。」

 信仰は、アッラーの許で行為が受容されるための基本です。代わって忍耐のために励まし合い、互いに申請つと温情を尽くしあうことは、健全な社会設立に導きます。

 忍耐し合い、慈悲において励まし合う信者たちは、「これらは右手の仲間である」。つまり、来世において幸福であるということです。アラビア語において、右は、祝福を意味し、クルアーンは天国の住民を「右手の仲間」(56/27)と呼んでいます。なぜなら審判の日に彼らは右手で行為を記された書簡を受け取るからです。

 章の締めくくりには、不信者に対する審判の日の罰の警が登場します:
 「だがわが印を拒否する者、かれらは左手の仲間である。かれらの上には、業火が覆い被さるであろう。」ムハンマド(平安と祝福あれ)の預言者性を否定し、クルアーンを嘘とした者は、「左手の仲間である。」アッラーは地獄の民を「左手の仲間」(56/41)と名付け給うています。なぜなら彼らは行為の書簡を審判の日に左手で受け取るからです。「かれらの上には、業火が覆い被さるであろう。」つまり審判の日に彼らは火で閉じ込められるだろうということです。

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP109~114)


91章解説

2011年03月08日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم
91章解説

1. 太陽とその輝きにおいて、
2. それに従う月において、
3. (太陽を)輝き現わす昼において、
4. それを覆う夜において、
5. 天と、それを打ち建てた御方において、
6. 大地と、それを広げた御方において、
7. 魂と、それを釣合い秩序付けた御方において、
8. 邪悪と信心に就いて、それ(魂)に示唆した御方において(誓う)。
9. 本当にそれ(魂)を清める者は成功し、
10. それを汚す者は滅びる。
11. サムード(の民)は、その法外な行いによって(預言者を)嘘付き呼ばわりした。
12. かれらの中の最も邪悪の者が(不信心のため)立ち上がった時、
13. アッラーの使徒(サーリフ)はかれらに、「アッラーの雌骼駝である。それに水を飲ませなさい。」と言った。
14. だがかれらは、かれを嘘付き者と呼び、その膝の腱を切っ(て不具にし)た。それで主は、その罪のためにかれらを滅ぼし、平らげられた。
15. かれは、その結果を顧慮されない。

 この章は、罪業から魂の浄化は好ましいことだと説明しています。そこには魂の勝利があり、また不信と背信行為を原因とする損失に対する脅迫があるからです。また、マッカの不信仰者たちなどに、アッラーの使徒だったサーリフを嘘つき呼ばわりし、アッラーに背いたサムードの民に振りかかったような罰と滅亡があるだろうとの警告も含まれます。

 まずアッラーは、太陽とその光において誓い給います。「太陽とその輝きにおいて」この言葉は、人々の関心を太陽の荘厳さとそれを創造した主の偉大さ、また太陽が放出する熱、光線、地球に命が宿る基になるエネルギーに向けます。じつに太陽はその光と熱を決まった量だけ放出します。もし太陽が地球に送る以下の温度の熱を出していたら、地球上のあらゆるものは凍ってしまうでしょうし、それ以上の温度の熱を出していたら、森林は燃え、地球上の大部分に火が点いてしまうでしょう。ここで問いが出ます:どこから太陽が燃えるための燃料がやって来るのだろう?仮に太陽の内部に保存してあるものが燃料として使われているとしたら、年を重ねるたびに太陽の温度は下がるはずですが、遠い過去を振り返ってみると、太陽は未だに植物と動物が生きていけるためのある一定の温度の熱を地球に送り続けていることが分かります。

 では太陽はどこからそのエネルギーの元を得ているのでしょうか?また何が、太陽から放出される熱の大元なのか?一定の温度を保って燃え続けさせているものとは?

 それこそは、至高なる「アッラー」です。かれの御力は全てを超越しています。

 続けてアッラーは月において誓い給います。月は太陽が沈んだ後、その光に従います。「それに従う月において」太陽が持つ重要性を強調するために、アッラーがどのように月と太陽を関連付けたかについて熟考してみましょう。なぜなら月の光は太陽の光から派生しているからです。以上から、月は数あるアッラーのしるしの一つと言えます。月はその優しい光とそれに伴う有益なものを生き物に放出します。同様にアッラーは、私たちが月日の計算が出来るように、月が流れる道を規定し給いました。以上はアッラーの存在とかれの叡智の存在を示し、物質主義が主張する、「偶然によって世界が存在した」ことを否定します。

 アッラーは、太陽を出現させ、眺める者たちにそれを晒す昼において誓い給います。「(太陽を)輝き現わす昼において」アッラーは昼を人間が主の恩恵としての生活の糧を求める場所とし給いました。

 またアッラーは、太陽を覆う夜においても誓い給います。「それを覆う夜において」夜は仕事で疲れた身体の休息とされました。もし人生すべてが昼だったなら、人間は生産生活を活発に継続することが出来なかったでしょう。

 続けてアッラーは、天において誓い給います。「天と、それを打ち建てた御方において」この天とそれを創造し、高めた御方アッラーです。これら諸天は、主の御力の偉大さを目立たせる無数の星や惑星を含有しています。

 アッラーは大地において誓い給います。「大地と、それを広げた御方において」つまり、この大地とそれを広げた御方アッラーです。かれは人間と動物が生きるために有用な土地を広く延ばしてくださいました。

 最後にアッラーは、人間の魂において誓い給います。「魂と、それを釣合い秩序付けた御方において」つまり、その創造を完遂させた至高なるアッラーです。アッラーは人間の肢体を創造性と有益さの極限とし給うた上に、思考の道具として理性を、話すために舌を、見るために目を、聞くために耳を、臭うために鼻を、生活のために両手と両足を追加し給いました。これら以外にも、創造の偉大さの秘密の数々が人間の身体に備わっています。

 続いてクルアーンは、人間の内部にアッラーが植え付け給うた、善と悪、導きと迷いを感じ取れる力の諸特徴の解明に移ります。アッラーは仰せになっています:「邪悪と信心に就いて、それ(魂)に示唆した御方において(誓う)」つまり、かれ(アッラーは)人間の魂に、悪や罪といった放棄すべき行為、善行や服従といった望ましい行為を解明し給うたということです。別の言い方をすれば、アッラーは人間に善の道と悪の道をはっきり見せてくださったということです。

 この後に、誓いの返答が登場します:「本当にそれ(魂)を清める者は成功し」つまり、自らの魂を罪から清め、良質の善で成長させ、篤信で高めた者は確実に勝利を得たということです。「それを汚す者は滅びる」つまり、自らの魂を罪で隠し(ダッサーハーの元は、隠すという意味を持つダッササハー。)、服従と善行で晒さなかったものは確実に失敗したということです。

 続いてクルアーンは、サムードの民と、彼らが預言者サーリフ(平安あれ)に背いたという罪の報いである罰の話に移ります。その説明の前に、クルアーンにおける物語の目的そしてサムードの民の物語の真実についてまず始めるのが良いでしょう。

 諸預言者の物語の目的:クルアーンの中に諸預言者の物語が登場する目的は、アッラーの満足についての吉報、かれに背くことについての警告、イスラーム宣教の基礎の説明、預言者と仲間の心を堅甲にすること、預言者性の証明です。クルアーンは諸預言者の物語の中から、訓戒を得られるものを選びます。ユースフ(平安あれ)の物語のように詳細まで述べることもあれば、大体の場合のように物語の一部を取ることもあります。なぜならその一部には、ムーサー(平安あれ)の物語のような核心をついた訓戒があるからです。

 諸預言者物語は、細かく述べられることもあれば、簡潔に述べられることもありますが、そこにこそクルアーンの奇跡が顕現し、その雄弁さが現われるのです。

 この章でクルアーンはサムードの物語を省略した形で登場させます。だからこそここでは、クルアーンの他の箇所に出てくる同物語を頼りに、詳細を見て行きましょう。

 サムードの物語:アッラーは御自身の預言者サーリフをその民であるサムードに遣わし給い、サーリフは彼らに訓戒を垂れ、偶像崇拝を放棄し、アッラーを崇拝することに呼びかけました。サムード―すでに滅びたアラブ部族の一つ―はヒジャーズの北方にあるアル=ヒジュルと呼ばれる地に住んでいました。現在は、「サーリフの都市」として知られています。サムードの人々は、自分たちに遣わされた預言者が齎したメッセージを信仰せず、預言者が示したような真実の道を歩まないどころか、彼の呼びかけを嘘としました。また彼がアッラーから遣わされた者であることを証明する奇跡を持って来るように要求しました。そこでサーリフは人々にアッラーが創造し給うた特別な雌ラクダを持って来て、悪さをしないよう命じました。アッラーはこの雌ラクダにあらかじめ水を飲む日を定め、人々にも水を飲む日を別に定め給い、ラクダにいたずらをしたならば罰が下るであろうことを約束し給いました。

 かのラクダはしばらくの間彼らの間に留まりました。一日は水を飲み、他の日には水を飲みません。このような状態を続けるラクダを見た多くの人たちが、サーリフが預言者であることを認めたのですが、貴族の人たちは怯え上がってしまい、自分たちの存在を脅かされることに恐怖したため、ラクダを殺そうと企てます。預言者サーリフは止めるよう警告したのですが、受け付けようとしません。彼らの中の極悪人がラクダの住む場所に向かい、仲間たちの同意のもと、ラクダをしてしまったため、人々にアッラーの怒りが相応しいものとなり、罰が確定しました。アッラーは彼らの罪を原因に、人々を全滅させ給うたのです。助かったのは、サーリフと彼を信仰した人々のみ。以上がこの章の後部にてアッラーが仰せになった内容です:
 「サムード(の民)は、その法外な行いによって(預言者を)嘘付き呼ばわりした。かれらの中の最も邪悪の者が(不信心のため)立ち上がった時、アッラーの使徒(サーリフ)はかれらに、「アッラーの雌骼駝である。それに水を飲ませなさい。」と言った。だがかれらは、かれを嘘付き者と呼び、その膝の腱を切っ(て不具にし)た。それで主は、その罪のためにかれらを滅ぼし、平らげられた。かれは、その結果を顧慮されない。」

 アッラーは、アッラーの使徒であるサーリフを嘘つき呼ばわりしたサムードの民について私たちに知らせ給うています。嘘つき呼ばわりしたのは、「その法外な行い」つまり、不信と罪深い行為において度を越してしまったためです。「かれらの中の最も邪悪の者が(不信心のため)立ち上がった時」サムードの中でも最も悪い人間、クダール・イブン・サーリフが悪さをしかけてはいけないと警告したラクダを不具にしました。「アッラーの使徒(サーリフ)はかれらに、「アッラーの雌骼駝である。それに水を飲ませなさい。」と言った」アッラーの雌ラクダだから、悪さをしてはいけない、水を飲ませるときも気をつけなさい、ラクダには決められた水飲みの日があり、あなたたちにも決められた水飲み日がある、ということです。「だがかれらは、かれを嘘付き者と呼び、その膝の腱を切っ(て不具にし)た。」人々はアッラーの使徒であるサーリフを嘘つき呼ばわりし、その中でも最も悪い者がラクダを不具にしてしまったということです。「それで主は、その罪のためにかれらを滅ぼし」アッラーは彼らを滅ぼし、不信と、預言者を嘘つき呼ばわりし、ラクダを不具にした罪のために罰を下し給うたということです。「平らげられた」子供、大人など人々全体に対して罰を与え給うたということです。「かれは、その結果を顧慮されない」アッラーは人々を滅ぼしたことに対する責任から誰も恐れないということです。アッラーはそのなされることについて責任を問われることはないのです。

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP116~121)


92章解説

2011年02月15日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم
92章解説

1. 覆われる夜において、
2. 輝く昼において、
3. 男女を創造された御方において(誓う)。
4. あなたがたの努力は、本当に多様(な結末)である。
5. それで施しをなし、主を畏れる者、
6. また至善を実証する者には、
7. われは(至福への道を)容易にしよう。
8. だが強欲で、自惚れている者、
9. 至善を拒否する者には、
10. われは(苦難への道を)容易にするであろう。
11. かれが滅び去ろうとする時、その富はかれに役立たないであろう。
12. 本当に導きはわれにあり、
13. 来世も現世もわれに属する。
14. それでわれは燃え盛る業火に就いてあなたがたに警告した。
15. 最も不幸な者でない限り、誰もそれで焼かれない。
16. それは(真理を)嘘であると言い背き去った者。
17. だが(主のために)忠誠の限りを尽した者は、それから救われ、
18. その富を施し、自分を清める。
19. また誰からも、慈悲の報酬を求めない。
20. 一生懸命に至高者、主の御顔を請うだけである。
21. やがて、かれは(十分に)満足出来るであろう。

 この章は、現世では安易な道、来世では至福を齎す善良な人間の行為について語っています。同時に現世では困難な道、来世では罰を齎す悪い人間の行為についても語っています。

 アッラーはまず、かれのしるしであり、かれの能力と叡智を示す夜と昼においての誓いの言葉で章を始め給いました。

 アッラーはその暗さで昼を覆い、光を払拭する夜において誓い給い、はっきりと見える形で現われ、あらゆるものをその光で照らす昼においても誓い給いました。

 もし、人生すべてが夜だったなら、人々は糧を求めて出かけたり、生活を豊かにすることは出来なかったでしょう。またずっと昼だったなら、人々は疲れを癒す安楽や静けさを得ることはできなかったでしょう。

 またアッラーは被造物である男と女においても誓い給います:「男女を創造された御方において」子孫繁栄と、人類という生き物が続いて行くために女が男の傍に存在していることは、アッラーが存在する強力な根拠です。

そこでアッラーは、五感で感じ取れる昼夜の交代と男女の違いを誓いの言葉として選び給うたわけです。これらの現象を述べつつ、人間の現世における生活が導きに適ったり迷ったりする様子を解説し給うています。このために、誓いの言葉の応答として、「あなたがたの努力は、本当に多様(な結末)である。」つまり、あなたがたの行いは本当にそれぞれ違っており、篤信な者もいれば、不幸者もいるという言葉が述べられています。

 続けてアッラーは、篤信と導きとは何なのか、それらが与える影響とか何かを描写し給います:

 「それで施しをなし、主を畏れる者、また至善を実証する者には、われは(至福への道を)容易にしよう。」

 ここでアッラーは、行為の種類に応じた報いを並べ給うています。つまり次の3つを行う人間:「施しをなし」つまり貧しい人の必要を埋めるためにお金を差し出すことです。「主を畏れ」つまり主を怒らせることから身を避けることです。アッラーが定め給うた限度を保ち、アッラーの命に従い、アッラーが禁じ給うたことを避けることで実現します。「至善を実証する」至善(フスナー)とは、唯一神信仰をはじめとするイスラームの信条です。これら3つが至福への道を容易にしてくれます。そしてアッラーに至福への道を容易にしてもらえた者は確実に幸福を獲得したことを意味します。幸福とは、あらゆる困難や苦しみを伴わない容易な人生の外にありません。

 代わってアッラーは、迷いと不幸の症状とそれらが与える影響が何であるのかを説明し給います:

 「だが強欲で、自惚れている者、至善を拒否する者には、われは(苦難への道を)容易にするであろう。かれが滅び去ろうとする時、その富はかれに役立たないであろう。」

 ここでもアッラーは行いの種類に応じた報いを数え上げ給いますが、それら報いは先述の描写とは全く正反対です。誰でも次の3つの性質を備える者:「強欲で」つまり慈善活動のために手を差し出すことがなく、必要としている貧者のためにお金を浪費しない人のことを言います。「自惚れている者」つまり持っているお金で自足していると思い込んでいる人です。彼の心には弱者や貧者に向けられるべき慈悲がありません。またはアッラーの御許にあるものを放棄したために、善行が鬱陶しくなった人のことを言います。「至善を拒否する者」つまりイスラームの信条とアッラーが命じ給うた善い行いを嘘であるとする者です。以上3つの事柄は困難への道を容易にします。アッラーに道を困難にされた者は、人生のすべてにおいて容易さを見出すことが出来ません。そのため彼は悲惨な不幸者となります。たとえ多くのお金を持っていても、です。「その富はかれに役立たないであろう」富とは、つまりこのケチな人間が集めた金、主を頼りとしなくなった原因の金です。「かれが滅び去ろうとする時」彼が地獄に落ちる、または彼が死ぬ時、です。

 ここでアッラーは、幸福な道を人間に解明し給いました:「本当に導きはわれにあり」つまり、不正から真実を解明し、悪行から善行を解明することはわれの使命である、ということです。またアッラーには諸天と大地のものすべてが属し、それらからお望みの者に与え、お望みの者に禁じ給います。「来世も現世もわれに属する」アッラーの導きを省いて、現世と来世の幸福を望んだ者は、確実に彼の本当の幸せに到達させてくれる道から迷ってしまったということです。ここで、アッラーが「来世」を「ウーラー(第一の)」と名付けた現世の生活よりも前に述べ給うたことは注目するに値するでしょう。これは来世の存在を否定する人たちに対して、来世が存在することと、それが現世に比べてずっと上等であることを強調するためです。

 続けてアッラーは、イスラームを嘘とし、アッラーの導きに背を向ける者を来世で罰が待ち受けているだろうと警告し給います:
 「それでわれは燃え盛る業火に就いてあなたがたに警告した。最も不幸な者でない限り、誰もそれで焼かれない。それは(真理を)嘘であると言い背き去った者。だが(主のために)忠誠の限りを尽した者は、それから救われ、その富を施し、自分を清める。」

 アッラーは仰せになります:人々よ、われは燃え盛る地獄の火について警告した。火に焼かれないよう、現世ではわれに逆らわずに気をつけなさい。「最も不幸な者でない限り、誰もそれで焼かれない。」不信仰者だけが、そこに入り、焼かれるということです。「それは(真理を)嘘であると言い背き去った者。」クルアーンのしるしを嘘とし、それらに背を向ける者です。「だが(主のために)忠誠の限りを尽した者は、それから救われ、」火から遠ざかるということです。「その富を施し、自分を清める。」富を貧者に分け与えるということです。差し出す人はそうすることで罪から清まります。

 最後にアッラーは、全ての行為において高きを目指し、アッラーのためにという気持ちを持つよう人間を諭し給いました。なぜならそれこそがアッラーがお望みになる道だからです:
 「また誰からも、慈悲の報酬を求めない。一生懸命に至高者、主の御顔を請うだけである。やがて、かれは(十分に)満足出来るであろう。」

 至高なるアッラーは、誰からも報酬を貰う意図を持たずに富を配る慈善者を褒め給います。彼は単にアッラーの御尊顔だけのために施すのです。この慈善者が得る報奨は、アッラーが彼に満足し給うことです。これに勝る報奨はありません。またこれこそが、人間が来世で切望するものです。「やがて、かれは(十分に)満足出来るであろう」満足はアッラーから来るものと、人間から来るものがあります。まずアッラーは行いの良い人間に満足し給い、この篤信者はアッラーが彼を満足してくださったこと、そしてアッラーが彼のために置いてくださっている来世における永久に続く至福に満足します。

 これらの節はアブー・バクルに関して啓示されたと言われています。ちょうど彼が、報酬も感謝も求めずにビラールを含む6~7人の奴隷を解放したときです。

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP122~126)


93章解説

2011年02月01日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم
93章解説

1. 朝(の輝き)において、
2. 静寂な夜において(誓う)。
3. 主は、あなたを見捨てられず、憎まれた訳でもない。
4. 本当に来世(将来)は、あなたにとって現世(現在)より、もっと良いのである。
5. やがて主はあなたの満足するものを御授けになる。
6. かれは孤児のあなたを見付けられ、庇護なされたではないか。
7. かれはさ迷っていたあなたを見付けて、導きを与え、
8. また貧しいあなたを見付けて、裕福になされたではないか。
9. だから孤児を虐げてはならない。
10. 請う者を揆ね付けてはならない。
11. あなたの主の恩恵を宣べ伝えるがいい。

 この章は、1)啓示の延滞、2)しばらくの間啓示が停止したことを原因に啓示されました。これを受けて預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)は悲しみを感じるほどだったと言われていますが、同時に彼の敵たちは、「ムハンマドの主は彼を嫌って、放置したぞ」と馬鹿にするのでした。そこでアッラーは、預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)を慰め、敵たちのでっち上げを跳ね返すこの章を下し給いました。

 この章は、輝く朝と静寂な夜における誓いの言葉で始まります。「朝(の輝き)において、静寂な夜において(誓う)。」至高なるアッラーが被造物で誓いの言葉を述べ給う際、それがアッラーの最も偉大なみしるしの一つであることが分かります。ここでは啓示の降下とその停止が、輝く朝と暗くなり静まる夜にアッラーによって例えられています。朝と夜は、宇宙の規則を害することなく順番に現われますが、神の啓示も同じであるということです。啓示が預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)の心を初めて照らした瞬間は、人々が活気を帯びて活動し始める朝と同じと捉える事が出来ます。そしてその後に起きた啓示の停止は、静まった夜と同じです。その後に朝がやって来る、つまりかつてのようにクルアーン啓示が再開することを指しています。

 続けてアッラーから預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)に対する呼びかけに移ります:
 「主は、あなたを見捨てられず、憎まれた訳でもない。本当に来世(将来)は、あなたにとって現世(現在)より、もっと良いのである。やがて主はあなたの満足するものを御授けになる。」

 アッラーは仰せになります「主は、あなたを見捨てられず、憎まれた訳でもない。」この句は先述の誓いの言葉に対する応答です。アッラーは別れて行く人のようにあなたを放置したのではなく、あなたを愛し給うた瞬間からあなたを嫌い給うたわけでもない、という意味です。「本当に来世(将来)は、あなたにとって現世(現在)より、もっと良いのである。」審判の日にアッラーが篤信者たちに準備し給うた来世の住まいは、ムハンマドよ、あなたにとってこの現世よりも優れている、という意味です。「やがて主はあなたの満足するものを御授けになる。」それには、完成した魂、当時に実現した開国によってイスラームが高められたこと、イスラーム宣教の広まり、審判の日におけるムハンマドのその共同体のための取り成しや、アッラーしか知り給わない、預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)に取り置きされている報奨が含まれます。

 そしてアッラーは預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)に対する恩恵を数え給います:
 「かれは孤児のあなたを見付けられ、庇護なされたではないか。」預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)は両親を亡くした孤児でした。父親は胎児のころに亡くなり、母親は彼が6歳のころに亡くなりました。そこでアッラーは預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)のために彼を庇護し、愛情を注いでくれる者を祖父アブドゥルムッタリブとし、彼の死から2年後には新たにおじアブー・ターリブを保護者とし給いました。

 「かれはさ迷っていたあなたを見付けて、導きを与え、」預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)はかつて、預言が指す信仰について無知で、迷っており、自分の民の信仰を認めることもありませんでした。そこでアッラーは啓示を通じて彼を真実の道しるべに導き給いました。

 「また貧しいあなたを見付けて、裕福になされたではないか。」つまり、アッラーは貧しいあなたを見つけて、金持ちにし給うたではないかという意味です。預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)の父は遺産としてラクダ一頭と女奴隷一人を残したのみだったので、ムハンマドは確かに貧しかったのです。そこでアッラーは、貿易で得た利益と妻ハディージャが彼に贈った彼女の資産を預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)に与えることで彼を裕福にし給いました。

 孤児であった預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)に対する配慮から、アッラーは預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)と信徒たちに、孤児が持つ権利に十分配慮するよう命じ、また彼らを軽蔑することを禁じ給います。「だから孤児を虐げてはならない。」

同じようにアッラーは、全ての必要とする請う者に優しくすることも命じ給いました。「請う者を揆ね付けてはならない。」言葉で彼らにきつく当たってはいけないという意味です。なお、宗教の規定について尋ねる者を指しているとも言われます。

 最後にアッラーは預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)に語りかけ給います:「あなたの主の恩恵を宣べ伝えるがいい。」ここの恩恵は、先述の導き、裕福さといった恩恵を指しています。代わって恩恵を述べ伝えることとは:貧者に対する散財を惜しまないこと、請う者の力となることであり、単に資産の多さを口で語ることではありません。それはアッラーに禁じられた高慢さを示す態度です。また、恩恵はクルアーンを指しており、それを述べ伝えるとは、クルアーンを読み、その諸真実を解明することだとも言われています。

 この章は預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)に語りかけ、慰めると同時に、全信者に対する語りかけでもあります。主との関係を強くし、誠実に主のために崇拝行為に勤しんだ信者は、もし災難が降りかかったとしても、決して主が自分を嫌ったり放置したとは思わず、反対にこの災難は自分の信仰の純度を計られるための試験であるとか、忍耐し主のご尊顔を求めて災難を受け入れればアッラーの御満足を得られる手段であると捉えます。また信者は、永続する至福が存在する来世が、過ぎ去っていく現世のどんなものよりも優れており、アッラーは忍耐強い信者に、心が満足する現世と来世のよいものをそのうち授け給うことを知らなければなりません。

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP127~130)


94章解説

2011年01月18日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم
94章解説
1. われは、あなたの胸を広げなかったか。
2. あなたから重荷を降したではないか。
3. それは、あなたの背中を押し付けていた。
4. またわれは、あなたの名声を高めたではないか。
5. 本当に困難と共に、安楽はあり、
6. 本当に困難と共に、安楽はある。
7. それで(当面の務めから)楽になったら、更に労苦して、
8. (只一筋に)あなたの主に傾倒するがいい。

 この章は、預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)の地位と彼の名声の高さについて語り、一つの困難と共に多くの安楽があることを彼と信者たちに吉報として伝えています。だからこそ、人はアッラーの慈悲から失望するべきではありません。

 まずアッラーは預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)に語りかける形で章を始め給います:「われは、あなたの胸を広げなかったか。」ムハンマドよ、われは導き、アッラーへの信仰、真実を知ることのためにあなたの胸を広く大きくしたではないか、そしてその胸は預言に際する数々の苦難に耐えたではないか、となります。この節は預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)がイスラーム宣教という重荷から来る精神的苦しみにあったことを感じさせます。彼の民がイスラームを拒んでいたためかもしれないし、啓示が彼に下る前に感じていた焦りが原因だったかもしれません。次のアーヤがこのことを指しています:「あなたから重荷を降したではないか。それは、あなたの背中を押し付けていた。」ウィズル(وزر)とは重い荷を指し、ここでは罪を意味します。アッラーは預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)の背に乗せられた、イスラーム宣教というその重荷を確実に下ろし給うたのです。またアッラーは、人々の心を彼に惹きつけることと人々の心を支配することにおける成功で彼から重荷を軽減し給いました。

 続けてアッラーは御自身の預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)に対する恩恵を明確にしつつ仰せ給います:「またわれは、あなたの名声を高めたではないか。」高める、とは上昇という感覚的な現象ですが、同じように地位が上がるなど抽象的にも使われ、ここは後者の意味となります。名声の上昇における預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)の価値は、アッラーが彼を使徒として選び給い、彼の名をアザーン、イカーマ、タシャッフド、クルアーンの各箇所におけるアッラーへの呼びかけに結び付け給うた中に見い出すことができます。

 これらの諸節は預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)に対する語りかけであると同時に、信者たちにアッラーの恩恵であるイスラームの恩恵を思い出させる語りかけでもあります。イスラームの恩恵は信者の胸を広げ、彼らから当惑の誤りを消し、信仰と導きが欠けた心が生む彼らが感じている精神的苦しみを和らげてくれます。

 この後、章は人生のあらゆる苦難に立ち向かっている人全てに対する吉報の話題に移ります。困難の直後に安楽は訪れること。全ての苦しみは助けに繋がっていることです。平安を広げ、疲労した心の苦しみを軽減する吉報のなんと素晴らしいことでしょう。これこそ、クルアーンが明確にしたことです:「本当に困難と共に、安楽はあり、本当に困難と共に、安楽はある。」クルアーンは困難と共に安楽があることを「インナ(إنّ)」によって強調しており、また繰り返しの表現も強調に役立っています。

 アッラーが御自身の預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)に対する恩恵を数え上げ給うた後、彼に、感謝し、崇拝行為に専念するよう指導し給うています:「それで(当面の務めから)楽になったら、更に労苦して、」つまり、現世の仕事から自由になったら礼拝に立て、という意味です。もしくはお前に啓示されたメッセージを人に述べ伝える任務から解放されたら、アッラーに与えられた恩恵に感謝するために崇拝行為に勤しみなさいという意味になります。「(只一筋に)あなたの主に傾倒するがいい。」つまり、お前の意志と願望をアッラーのためにと純粋にしなさい、という意味になります。

 信者も同様に、空いた時間は崇拝行為に没頭するべきです。崇拝行為は人に良識と英知与え、試練と困難の前にした者の心を堅甲にします。また信者は意志と願望を主が満足するものにすべきです。そうすることで信者は安堵感と幸福に満たされ、アッラーの御満足と来世における至福を勝ち取ることが出来ます。


(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーンP131~133)


95章解説

2011年01月06日 | ジュズ・アンマ解説

بسم الله الرحمن الرحيم

95章解説

1. 無花果とオリーブにおいて、
2. シナイ山において、
3. また平安なこの町において(誓う)。
4. 本当にわれは、人間を最も美しい姿に創った。
5. それからわれは、かれを最も低く下げた。
6. 信仰して善行に勤しむ者は別である。かれらに対しては果てしない報奨があろう。
7. それでも、誰が教えの後、おまえを嘘つき呼ばわりするのか。
8. アッラーは、最も優れた審判者ではないか。

 アッラーはこの章を以下の御言葉で始め給います:
「無花果とオリーブにおいて、シナイ山において、また平安なこの町において(誓う)。」ワーウ و 前置詞は誓いのために使用されます。ここではイチジクとオリーブに含まれる数多くの益においてアッラーが誓い給うています。
 
またアッラーはムーサー(平安あれ)に語りかけ、トーラーを授け給うたシナイ山においても、そして預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)にこのクルアーンを啓示し給うた尊いマッカにおいても誓い給いました。

 誓いの文言の応答は次の御言葉です:「本当にわれは、人間を最も美しい姿に創った。」

 つまりアッラーは人間を最も素晴らしく整った形に創り給うたということです。真直ぐな姿勢、美しい外見、理性の正しさ、適切な行動などといった特徴もそれに含まれます。「それからわれは、かれを最も低く下げた。」つまりかの美しい姿かたちから、老いに付随する外見の衰えに変えられることです。特に、真直ぐだった背骨が曲がり、光り輝いていた顔がしわしわになり、黒かった髪の毛が白くなり、張力と視力が弱まり、力が減って子供のような頭脳になり、痴呆が起こることです。

 それはまさにクルアーンが述べたような次の節の言葉のようです:「またあなたがたのある者は,非常に弱まる年齢まで留めおかれる。」(蜂章70節)

 または:われはこの整った容姿を与えた不信仰者を地獄の民の一人とした、という意味にもとれます。地獄の民こそはどんな醜い存在よりも醜く、どんなに低められた存在よりも低くありますが、かつて彼らが美しい姿をしていたとしても関係はありません。

 続けてクルアーンは、アッラーの御満足を得た人たちの特徴の描写の解明に移ります:
 「信仰して善行に勤しむ者は別である。かれらに対しては果てしない報奨があろう。」

 アッラーの存在と唯一性を信じて、アッラーに命ぜられた善行においてかれに仕え、地獄の火の原因となる禁じられた行為を避けた者たちをアッラーは例外とし給いました。彼らには「果てしない報奨」、つまり途切れることも減らされることもないアッラーからの報奨があります。

 この例外はもしかすると、若いころにアッラーに喜ばれる行為に勤しんでいた人間が老いて理性を失ったり呆けてしまっても彼の行為は若いころと同じように善行を行っていたと見なされ、理性を失った際に取ってしまった行動については咎められないという風に理解できるかもしれません。

 アッラーは次の御言葉で章をしめくり給います:
 「なぜそれでも、おまえは宗教(真実)を否定するのか。アッラーは、最も優れた審判者ではないか。」

 つまり:ムハンマドよ、お前のもとにアッラーからやって来た数々の証拠を見た後で、来世での報復が嘘だ、などという者は一体誰なのだろうか、という意味です。本当に、人間が最も美しい形と驚くべき姿で創造されていることは、アッラーが死からものを蘇らせ給い、報復を可とする能力を備え給うていることを最もはっきりと示している根拠です。「アッラーは、最も優れた審判者ではないか。」つまり、自身の法で裁く者の中で最も優れた審判者がアッラーなのではないのか。預言者ムハンマド(平安と祝福あれ)はこの句を読むたびに、「その通り。そして私はそのことについての証言者の一人であります」と言われていたと伝えられています。

(参考文献:ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーン(P134~136)