退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「『未知のウィルス』に対する恐怖ゆえの非合理性あるいはかつてあった『映画の世界の連動性』」について

2020-04-06 02:47:27 | Weblog
晴れ。花冷え。

本は読んだが何も感じず。

そういう時もあるということで。
詳細については述べない。

マル激を観る。

今回はコロナ騒動における経済的側面について。
ゲストはお馴染みの小幡績。

「合理的でない反応」が各地であれこれ。
要は死者を減らすということに尽きるはずが。

なぜかいたずらに感染者の数だけが毎日のように知らされ。
インフルエンザより圧倒的に少ない致死率をもたらすウィルスを怖れ。

医療もしくは保険について「新自由主義もしくは削減」を採った国で事態は悪化し。
米英でそれが露わになったことをあらためて。

失業者と中小企業の救済に集中すべきだというのにふむふむ。
消費者は「金を使いたくても使えない状況」にあるだけ。

「感染症の専門家」がその拡大を防ごうとする一方で
疫学者は「長い目」で事態をどう収めるのかを考えるのだという違いに注目しよう。

「気候変動」が「日常化」しているので
今後もこの種のことが繰り返し起きることも計算に入れて。

至極当然なこの「理屈」が人々の「恐怖」によって押し流される「現実」よ。
「ロックアウトの効果」も測らない上でのこと。

どこまでも「現実」に対応できないままでいいのか。
「ウヨブタ」も「インテリ」も同じく「セカイ系」であることを知っておこう。

ジョン・カサヴェテス「アメリカの影」(’59)を観る。

さまよえる若者の姿と人種差別の影。
レリア・ゴルドーニは「グロリア」(’80)のジーナ・ローランズそっくり。

「女漁り」を繰り返しつつそこに満足できないベン・カラザースたちの姿と
「賢そう」に振る舞いながらそこに「セックス」しかない若者たちは結局「同じ」。

ゴダールの初期の作品に似ている趣き。
というよりゴダールが本作をマネたのか。

「ヌーヴェルバーグ=新しい波」はここからだったのかなどと。
背景の音楽はチャールズ・ミンガスとマルシャル・ソラルの違いはあれ。

ルイ・マル「死刑台のエレベーター」(’58)の方が先か。
こっちはマイルス・デイヴィスで。

思い付くままなので詳細は不明。
少なくともここに「交歓」があったことは確かだということにしておく。

ちなみに当時わが国では大島渚「愛と希望の街」(’59)があり。
予告編があったので載せておく。

「松竹ヌーヴェルバーグ」と言われたことなども覚えておこう。
「連動する世界の過去」を敢えて。
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