退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「大人と子どもであること」について

2017-09-16 03:15:05 | Weblog
晴れ。やや雲が多い。

ギャビン・ランバート「ジョージ・キューカー、映画を語る」を読む。

「椿姫」(’37)「フィラデルフィア物語」(’40)「ガス燈」(’44)
「アダム氏とマダム」(’49)「スタア誕生」(’54)「マイ・フェア・レディ」(’64)。

残念ながら観たことのある作品はこれくらいだったはず。
いずれも素敵なものばかりだけれど。

「職人気質」が「作家主義」を拒絶するのにふむふむ。
もちろん映画が「総合芸術」であることは確かで。

ただ「女優を輝かせる」という「特徴」は否定しがたく。
当人は「男女を問わず」だというものの。

上に挙げた作品ではグレタ・ガルボ、キャサリン・ヘップバーン、イングリッド・バーグマン、
ジュディ・ガーランド、オードリー・ヘップバーン。

シェリー・ウィンタースのデビューにも関わっていた模様。
ヴィヴィアン・リー、マリリン・モンロー、ソフィア・ローレンらとも。
 
詳細は本書まで。
幼い頃から上等な演劇を観ていたニューヨーカーらしい人柄が好ましい。

その一方。

きちんとしたインタヴュアーが相手から「いい反応」を引き出すことをあらためて。
「通じるものがある」と思えば人は「本音」を話す当然よ。

「理想的なコミュニケーション」のかたちを見たような。
ただしこれはほぼ「奇跡」なのが残念なところ。

深夜「女子ーズ」(’14)をながら見する。

ある程度観る気になったのは主演の5人ゆえ。
桐谷美玲・藤井美菜・ 高畑充希・ 有村架純・山本美月。

個人的にあまりお目にかかっていないのは藤井美菜。
彼女は韓国語を操る「国際派」らしい。

作品そのものはどうにも。
この「幼稚さ」と女優陣の「アンバランス」が敢えて言えば「魅力」なのか。

いやはや。

「落差」はジェットコースターどころではない模様。
「舞台」と「お遊戯会」ほどの差があり。

これも同じ「映画」と呼ばれることを思うと複雑な気持ちになる。
「可愛いだけ」じゃ物足りないこと夥しいのだが。
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