晴れ。やや雲が多い。
ギャビン・ランバート「ジョージ・キューカー、映画を語る」を読む。
「椿姫」(’37)「フィラデルフィア物語」(’40)「ガス燈」(’44)
「アダム氏とマダム」(’49)「スタア誕生」(’54)「マイ・フェア・レディ」(’64)。
残念ながら観たことのある作品はこれくらいだったはず。
いずれも素敵なものばかりだけれど。
「職人気質」が「作家主義」を拒絶するのにふむふむ。
もちろん映画が「総合芸術」であることは確かで。
ただ「女優を輝かせる」という「特徴」は否定しがたく。
当人は「男女を問わず」だというものの。
上に挙げた作品ではグレタ・ガルボ、キャサリン・ヘップバーン、イングリッド・バーグマン、
ジュディ・ガーランド、オードリー・ヘップバーン。
シェリー・ウィンタースのデビューにも関わっていた模様。
ヴィヴィアン・リー、マリリン・モンロー、ソフィア・ローレンらとも。
詳細は本書まで。
幼い頃から上等な演劇を観ていたニューヨーカーらしい人柄が好ましい。
その一方。
きちんとしたインタヴュアーが相手から「いい反応」を引き出すことをあらためて。
「通じるものがある」と思えば人は「本音」を話す当然よ。
「理想的なコミュニケーション」のかたちを見たような。
ただしこれはほぼ「奇跡」なのが残念なところ。
深夜「女子ーズ」(’14)をながら見する。
ある程度観る気になったのは主演の5人ゆえ。
桐谷美玲・藤井美菜・ 高畑充希・ 有村架純・山本美月。
個人的にあまりお目にかかっていないのは藤井美菜。
彼女は韓国語を操る「国際派」らしい。
作品そのものはどうにも。
この「幼稚さ」と女優陣の「アンバランス」が敢えて言えば「魅力」なのか。
いやはや。
「落差」はジェットコースターどころではない模様。
「舞台」と「お遊戯会」ほどの差があり。
これも同じ「映画」と呼ばれることを思うと複雑な気持ちになる。
「可愛いだけ」じゃ物足りないこと夥しいのだが。
ギャビン・ランバート「ジョージ・キューカー、映画を語る」を読む。
「椿姫」(’37)「フィラデルフィア物語」(’40)「ガス燈」(’44)
「アダム氏とマダム」(’49)「スタア誕生」(’54)「マイ・フェア・レディ」(’64)。
残念ながら観たことのある作品はこれくらいだったはず。
いずれも素敵なものばかりだけれど。
「職人気質」が「作家主義」を拒絶するのにふむふむ。
もちろん映画が「総合芸術」であることは確かで。
ただ「女優を輝かせる」という「特徴」は否定しがたく。
当人は「男女を問わず」だというものの。
上に挙げた作品ではグレタ・ガルボ、キャサリン・ヘップバーン、イングリッド・バーグマン、
ジュディ・ガーランド、オードリー・ヘップバーン。
シェリー・ウィンタースのデビューにも関わっていた模様。
ヴィヴィアン・リー、マリリン・モンロー、ソフィア・ローレンらとも。
詳細は本書まで。
幼い頃から上等な演劇を観ていたニューヨーカーらしい人柄が好ましい。
その一方。
きちんとしたインタヴュアーが相手から「いい反応」を引き出すことをあらためて。
「通じるものがある」と思えば人は「本音」を話す当然よ。
「理想的なコミュニケーション」のかたちを見たような。
ただしこれはほぼ「奇跡」なのが残念なところ。
深夜「女子ーズ」(’14)をながら見する。
ある程度観る気になったのは主演の5人ゆえ。
桐谷美玲・藤井美菜・ 高畑充希・ 有村架純・山本美月。
個人的にあまりお目にかかっていないのは藤井美菜。
彼女は韓国語を操る「国際派」らしい。
作品そのものはどうにも。
この「幼稚さ」と女優陣の「アンバランス」が敢えて言えば「魅力」なのか。
いやはや。
「落差」はジェットコースターどころではない模様。
「舞台」と「お遊戯会」ほどの差があり。
これも同じ「映画」と呼ばれることを思うと複雑な気持ちになる。
「可愛いだけ」じゃ物足りないこと夥しいのだが。
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