退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「『時代の常識』は常に移り変わるのが基本であることあるいはそれがもたらした『倒錯』」について

2019-02-02 01:49:18 | Weblog
晴れ。日が沈むと冷える。

「アミダクジ式ゴトウメイセイ 対談篇」読了。

「物語」が同じ方向を向いた一時期に
著者の作品はある種の批評家たちに「知性」を感じさせた模様。

結局「ロマンチックであること」に敏感であることがポイントか。
「時代の常識」に囚われないでいること。

多少なりとも「歴史」を振り返れば
「常識」など常に移り変わるのがむしろ「基本」だから。

たとえば誰もが受けたことのあるはずの「学校のテスト」について。

そもそもは「普段の実力を測るもの」だったはず。
それがいつのまにか「そのために勉強するもの」になり。

もちろんそれが「資格試験」ならまた別の話。
学校のテストはそういうものではないのにもかかわらず。

なぜか「瞬間最大風速を出すこと」が常に目指され。
「実力」が見失われることにもなり。

敢えて極端な例を出そう。

テストの日に「九九」ができたとして
それ以降に忘れてしまうのだったらそのことに意味はあるのか。

あるいは「内申書」とやら。

「学生運動のチェック」が始まりだったものの
これまたいつのまにか「学生を測るための大きな基準」に。

そもそも「人間性を測る」とは何事か。
測る方にそれが豊かでもないくせに。

さらにヒドいことには。

そこに書き込まれる内容を増やすための
あるいは教師からの評価を上げるための「行動」が増え。

あまり意味のない資格や教師に阿る態度が横行し。
漢字検定というシロモノを生み出した業者は10年ほど前にスキャンダルも。

英検だって準一級くらいでなければ意味があるとは思えず。
要は「業者の金ヅル」になるばかり。

「受験戦争の緩和剤」として使われるようになったという説もなくはないが
「学力のみ」を測ることがいかにも「人間を測ること」だとされた「倒錯」のせいに過ぎず。

「根本」が間違っていてはどうしようもないことをあらためて。
「お勉強が出来た官僚たちの現在」を見ればいい。

そして「学校」が名ばかりのものとなり
すでに「パラダイス」と化している事実も忘れないでいたいもの。

なるほどわが国が「バナナ・リパブリック」であるのもうなずける次第。
コメント
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