退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「一生退屈しないネタ=映画もしくは知識量に関係ない『知恵』」について

2018-07-30 01:39:38 | Weblog
晴れときどき雨。粒が大きい。

フィリップ・ケンプ責任編集「世界シネマ大事典」を途中まで読む。

リュミエール兄弟「工場の出口」(1895)から「2001年宇宙の旅」(’68)まで。
昔観た懐かしい作品の数々のスチールが載っているのがありがたい。

どうにか「映画史」をたどれるほどは観ている模様。
もちろん同時に観ていない数々の作品があり。

いちおう明日読み終わる予定。
楽しい時間は早く過ぎることをあらためて。

米英仏独伊ソ連スウェーデンあるいはインド中国韓国そしてわが国など。
イランやフィンランド、ポーランド、ポルトガル、トルコ、チェコなどもそのうちに。

「そうそうそんな映画もあったよね」というのが楽しい。
正直紹介以外の「評価」はどっちでもよく。

この種の「ネタ」がある限り少なくとも一生「退屈すること」はないはず。
そこが案外肝心だったり。

マル激を観る。

今回は「新聞社崩壊」の話など。
朝日の営業畑にいた畑尾一知がゲスト。

それが新聞であろうとなかろうと
少なくとも「ある程度信頼できる情報源による情報の共有」がなければ。

再販制度もしくは記者クラブ制度によって守られている「現在」はダメ。
組織として大きくなり過ぎたのも問題だとして。

そもそも彼の著書が新聞の書評に出ないのがどうにも。
これも「忖度」ならわが国はどこも忖度だらけ。

結局のところ「生活の豊かさ」が「貨幣量」で量られるのみなので
いたずらに「高給な職場」を目指すことになる愚が続き。

その基本は「貧しさゆえの発想」だったり。
「生活の最低限」が確保できさえすれば何を選んでもいいのに。

つまり。

わが国ではいつまでたっても「豊かさの指標」が「貨幣=数字」でしかない。
それに先んじた「価値観」がないのは何故なのだろう。

「発展途上国根性」とでも言ったらいいのか。
さらには現実にたくさんある「貧困」にもまともに対応できない始末。

「まともな人」とは誰なのか。
知識量と関係ない「知恵」がもっと発揮されなければならないだろう。
コメント
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