ピカビア通信

アート、食べ物、音楽、映画、写真などについての雑記。

長江哀歌

2007年09月10日 | 映画


「日比谷シャンテ」に着いて、取り敢えずチケットを
購入。
ここは全入れ替えの、指定だ。
次回が始まる1:50分にはまだ一時間以上ある。
周辺を探索するか、とぶらぶらするが、直ぐに後悔し
た。
という割には、銀座まで行ってしまったが。
そのお陰で、「泰明小学校」を改めてじっくり見たと
いうおまけは付いた。
でも、やはり、ぶらぶらには暑過ぎだった。
どこかでお茶でもしたいと、適当なところを探すが、
こういう時に適当なところが見つからないという経験
は、数知れず。
今回もすっかり「彷徨えるオランダ人」状態となって
しまった。
近くの「スターバックス」は狭そうだし、後はファス
トフード店ぐらいしか目に付かない。
参った参った、などと言ってるうちに上映時間が迫っ
てきた。
シャンテ方向に歩いていくと、あるはあるは適当なカ
フェが。
探してる時にはどうして見つからないのか。
ここで見つかってもねえ。

「シャンテシネ2」に入り、飲み物を買い席に着く。
結構入ってるぞ。
9割の入りではないか。
しかしここで不思議に思ったのはその客層。
お婆さんと言って良いくらいの女性がいやに多い。
5割くらいがそんな人達だ。
明らかにおかしい。
ジャ.ジャンクーの映画って、そういう層に受ける映
画ではないはずだ。
どういうことだ。
そのお陰で、窮屈な状態になってしまったので、最後
まで見るのがちょっと辛かった。

「長江哀歌」というタイトルからすると、なんだか情
緒的な映画を想像してしまうが、これがまた見事に違
った。
個人的にも「初恋の来た道」「あの子を探して」「北京
バイオリン」の系列かなと(つまり、予定調和的な物
語)思っていた。
そういう映画だったら、わざわざ見に来ることもない
な、と映画館を出たと思う。
しかし、「長江エレジー」(ルビがエレジーと振って
ある)は「湯の町エレジー」ではなかったのだ。

舞台は三峡ダムによって沈む、何とかという町。
そこに一人の男が、いなくなった嫁を探しに来る。
嫁は、突然生まれたばかりの娘と共に、16年前に故
郷であるこの町に帰ったらしいのだ。
手がかりを見つた男は、仕事先から時たま帰るという
嫁を、この町で仕事をしながら待つことにする。
筋からするとこれだけのことだ。
もう一つ並列で、これはある女性が、2年音信不通の
旦那を探しに来るという話しも描いている。
一応、主人公はこの二人と言える。
しかし、この二人が直接交わることはない。

その探す様子を描くなら、殆ど「あの子を探して」と
同じだが、映画はその物語よりは廃墟のような町の風
景を中心に、というより廃墟そのものを描いている。
時代は、今の中国なのだが、どこか近未来的廃墟。
様々な生活の痕跡としての廃墟。
その廃墟とゆったり流れる長江、映画はこの風景だけ
で成立っている。
昔と今が同居している中国の現実、前近代的解体作業
員が同時に使う道具が携帯電話であるなど、それなり
の仕掛けはあるが、全体では、今の中国の厳しい現実
を描くというより、その風景の後ろの見えないものを
描いているように感じる。
物語としては、きれいな落ちもないし、収まりが良い
わけではないから、一般に言われる「分からない映画」
の部類の映画となると思う。
実際、例のおばさん達は「良く分からないわ、これっ
てSF?」とかの会話を交わしていた。
アンゲロプロス(特に「霧の中の風景」)に似ている
と感じるその神話的な世界は、魅力であると同時に分
りにくさでもある。
誰かに似ているというのは、必ずしも褒め言葉にはな
らないが、最近のチェン.カイコーやチャン.イーモウ
の作品よりは、遥かに魅力的であることは間違いない。

ところで、あのお婆さんと言っても良いおばさん達が
来た理由だが、多分中国旅行で「長江船旅」などをし
たからではないか。
それで長江を懐かしみ、しかもエレジーだし、もう一
度あの旅を反芻しようなどと思ったのではないか。
それしか考えられまへん。
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