扶桑往来記

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歴史コラム #35 未知に挑んだ勇者たち

2018年01月31日 | エッセイ:海の想い出

2018年最初のコラムは北海道シリーズ第一弾、最上徳内。

昨年末来、松浦武四郎の本を書き始めている。

北海道探検をした人だが、武四郎の前にも偉大な先輩達がいた。

最上徳内からはじめて武四郎まで何回か続けて、蝦夷から北海道となるまでの日本を考えてみたい。

 

蝦夷と呼ばれた北海道は江戸時代までは松前藩という和人が駐屯していた他はアイヌの国だった。

自然のままに暮らすアイヌと松前藩は漁場で交易を行い物々交換をはじめた。

日本海の海運が開かれると豊かな商材を求める商人が来襲、北海道は次第に資本主義に侵食されていく。

日本人にとって未知の地を知るために探検家が活躍した。

そのひとり最上徳内は出羽の農家に生まれ、数学に秀でたことから江戸に出され本多利明という経世家の弟子になった。

本多は幕府の北海道開発プロジェクトに参加、体調不良で徳内が代わりに出張した。

徳内は単独、奥地に探索に出かけてウルップ島に上陸、すでに来ていたロシア人と仲良くなった。

これが日本人にとってロシアという「未知との遭遇」である。

徳内は北海探索のエースとなって幕府の調査に欠かせぬレギュラーになった。

1798年に幕府は若手の期待の星、近藤重蔵を中心に村上島之丞、高田屋嘉兵衛を伴い本気の調査団を派遣した。

もちろん徳内も招集された。

このドリームチームはエトロフに上陸、「大日本恵登呂府」の標柱をどんと建てた。

エトロフを和人アイヌの協働事業実験の場として本土の漁法を持ち込み高田屋が物流を担当した。

 

ところがロシアは貿易を拒否されると実効支配をねらって攻勢に転じ、エトロフなどで武力衝突が起きる。

高田屋嘉兵衛が拉致されたのがこの時。

しかしロシア通の徳内はすでに前線にはいなかった。

道路を開く仕事の際、じっくりいい道路を造るべしとする徳内に上司はスケジュール優先、逆ギレした徳内は北海道を去った。

 

徳内は晩年、江戸に来たシーボルトと会い、日本大好きのシーボルトに偉大な大先輩と激賞された。

この親交はシーボルトの腹芸だったかもしれず、徳内の知見はシーボルトに渡り後の災いの元になった。

 

北海道探検ストーリーはたいへんおもしろい。

連日ワクワク気分で資料を読んでいる。