家人が小淵沢に遊びに行くというので、武田家の本の取材を兼ねて現地まで一緒に行くことにした。
中央道をS4で行き、地元のそば店で家人の知人と合流。
そちらに身柄を預けて取材開始。
といっても主なゆかりの地は大体取材済。
今日は「信玄堤」をまず撮影に行く。
甲州街道すなわち国道20号を八王子に向かって戻っていくとまず教来石宿。
馬の産地として古来有名な北杜市あたりは甲斐と信濃諏訪の国境であり、信玄は「棒道」すなわち軍用道路や烽火台を儲けた。
教来石というと武田四天王のひとり馬場信春は教来石から出た。
こういう地名をみると歴史はまだ活きているのだと感動。
信玄堤は現在、あちこちに遺跡が残っており、水をもって水を制した最も有名な場所は公園になっている。
水の勢いを減じる「聖牛」なる構造物が復元しておいてある。
次に東へさらに行き、笹子トンネルの西出口の手前を脇道に入ると「景徳院」。
勝頼最後の地である。
織田軍の侵攻を受けた武田家は木曽がまず寝返り、次いで駿河の穴山梅雪が続いた。
武田一族の裏切りにより勝頼の命運尽きて敗走。
小山田がその所領「岩殿城に籠もるべし」と説いて東へ向かわせ、笹子峠を越えるというときに突如変心して峠を封鎖。
勝頼一行を甲斐盆地に押し込めてしまう。
西から迫ってくる織田軍団が追いついたとき、勝頼は天目山に落ちていき、かの地で妻子と共に自刃。
跡に家康が供養の寺を建てさせた。
寺は山門などなかなか立派であるものの侘しい。
勝頼家族の生害石なるものがそこここにあり、墓は御堂の裏手にひっそりとしている。
武田家のことを調べるほど、信玄領国が戦国日本の最高傑作であることがわかる。
ただしその王国は信玄とその腹心によってのみ経営可能な危うさをもっており、信玄が没した時にすでに崩壊への道を歩んだ。
信長の新興がなければ武田王国の命脈はもう少し保たれたように思われるが、実際は信玄の死後、10年で滅んだ。
勝頼の墓参りをすませて、山深い武田最後の地でぼんやりとしていると、一天にわかにかき曇り、雷が鳴り出した。
こういう神様の演出はいいなあと。