扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

甲斐から駿河へ −久遠寺−

2017年05月19日 | 街道・史跡

信玄のことをまとめる中で、武田家が駆け回った街道でまだ行ったことのない地域を訪れたいと思っている。

今日はその中で甲府から駿府へ至る街道を行ってみることにした。

このみちは富士川沿いに南下し、今日では国道52号線がそれにあたり、途中に身延山久遠寺があるため「みのぶみち」ともいう。

 

甲府盆地まで中央道で一気に行き、甲府盆地に下り、富士川大橋を渡る。

このあたりが平地から山間部に入る入口となる。

 

富士川が太平洋に注ぐ河口部の手前で西の方に向かって山を越えると駿府の町に至る。

信玄はここに江尻城を築いて一族の穴山梅雪を入れ、駿河支配の拠点とした。

穴山氏は元々甲斐の北西部穴山の出で、河内地方、甲斐駿河国境に所領を持ち、下山に館を構えた。

 

身延山は甲斐駿河の中間地点にあり、下山館は少し甲斐よりにある。

見学するほどの史跡は残っていないため一気に久遠寺まで行った。

いうまでもなく久遠寺は日蓮宗の総本山である。

宗教関係の書籍を手がけた割に恥ずかしながら初参詣。

 

本街道から入ったところに立派な総門があり、門前町が坂を登って続いている。

駐車場に行くまでの道々に白装束の参詣者が群れをなして歩いている。

 

日蓮(1222〜1282)は最晩年を身延山で過ごし、自身の願いによりここに葬られた。

私は日蓮宗信者ではないが、日蓮宗が歴史において特に戦国時代に大いに影響を与えた事実に興味を持っている。

真言宗や阿弥陀信仰、禅宗などは教義が哲学的でありわかりやすい一面を持つ。

対して日蓮宗は日蓮個人への崇敬が強く「南無妙法蓮華経」の題目を象徴とする。

堂宇は総本山としての風格がただよい、観光という要素を拒むかのように厳然としている。

信徒たちがそこかしこに集っており自分が門外漢であることを痛感する。

 

御朱印をもらいロープウェイで奥の院に詣でる。

身延山ロープウェイ 

 

高度が増していくと富士山が長者ヶ岳の向こうから顔を出してくる。 

 

奥の院から富士川方面を見おろすと壮観。

武田家が駿河へとそして京をめざして歩いて行った道である。

 

身延山からは淡々と52号を下り富士宮に至る。

ここまで来ると馴染みの深いエリアとなる。

今年前半甲斐に通っているため土地勘がついてきたが、そんな馴染みの地の結節点をゆるゆるとたどっていくことは実に楽しい。

知識と情感の縦横が織り込まれていくのがわかる。