扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

武田の残光 −新府城−

2016年10月06日 | 城・城址・古戦場

「真田丸」「風林火山」をみていると甲斐信濃に行ってみたくなるもので今日は天気もいいのでE88で新府城へ。

武田勝頼が甲府から本城を移そうとするも工事中に織田軍侵攻で戦わずして放棄。

哀しみの城である。

 

甲州街道を往来していると韮崎のあたり釜無川沿い北側に巨大な岩肌がみえる。

これは七里岩というらしく常々、その威容に圧倒されていた。

見るからに天然の要害である。

甲州街道から入っていくと少し丘を登っていくことになる。

大手口は城の東側にあり階段状に曲輪が並んでいた。

 

縄張と普請は真田昌幸によるものといわれ、「真田丸」でもその説をとっていた。

結構な階段を登って本丸に行く。

 

南を七里岩の断崖が守っているのでノーマークでよく、北と西を水堀、大手の東側は武田伝統の丸馬出があった。

 

武田敗走の後、廃城となっているため遺構はそのままかもしれないが、樹木草木が盛大に茂り様相がよくわからない。

本丸は削平された広場で神社の他、武田勇士の慰霊碑が立つ。

そこからは八ヶ岳がきれいに見えている。

 

武田が天下を取れなかった要因はいくつか考えられ、そのひとつが本拠甲斐が山国でかつ京から遠いことがあげられる。

信玄は信濃に続き、駿河を得た。

このいずれかに本城を移せば京への距離は少しは縮まる。

しかし躑躅ヶ崎を出るということは上杉北条から離れることとなり、絶頂期を迎えつつあった勝頼期にそれは現実的ではなかっただろう。

選択肢はなく、甲斐の詰めの城として堅固な要塞を築いておくという発想はまあ仕方がない。

 

木曽が寝返り、穴山梅雪が家族を甲斐から引き上げて徳川についたとき勝頼の掌握する兵は日に日に減っていった。

城を守るには新府城は大きすぎたといえ、小ぶりな山城への待避を勝頼は考え、真田の岩櫃城、小山田の岩殿城の選択に迷い、袋小路へ勝頼達は入ってしまった。

 

哀愁の荒城を後にしてしばしドライブ。

信玄が整備した「棒道」を想像しつつ、諏訪に行き塩尻峠に達した。

 

ついでに松本まで行って、気になる中古車、BMWのE34−535iを見物。

思ったほど程度がよくなく見送り。