扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

海道一の弓取、最後の夜 −沓掛城−

2012年06月18日 | 城・城址・古戦場

たびたび記しているように私の実家は三河と尾張の境、境川の東側にある。

先日、初めて桶狭間古戦場を訪ねたのであるが義元ゆかりの地はまだたくさんある。
そのひとつ、沓掛城址に寄ってみた。
ここは名古屋に行く際の抜け道であって桶狭間以上に私の通い道であった。

戦国時代の街道が尾張と三河をどう通っていたかはよくわかっていないが鎌倉街道という京と鎌倉を結ぶ道があった。
これは東から来て池鯉鮒(今の知立市)を通り沓掛にいたり、八事の山の方に行く。
一方で沓掛から西へ行く道があり大高道と呼ばれていた。
要するに日本の街道の十字交差点が沓掛である。
現在、街道としての東海道に最も近い国道一号線は確かに桶狭間を通って行くがこれは徳川家康が整備させたものであるが戦国時代にはない。
桶狭間の近くには鳴海という名鉄電車の駅がある。
「海が鳴る」のであるから海岸線の近くでなければならない。
今は波の音をとても聞けるような近さではないが戦国時代以降、尾張の領主によって営々と干拓された結果、三河湾ははるか向こうにある。
今川義元の時代には東から境川を越えてくれば前面に小高い丘陵が広がっていただろう。
天白川を堀に見立てた大高城が最前線基地である。

信長は大高城を監視するために鷲津砦と丸根砦を付城とした。
大高城の東わずか数百mである。
ために今川勢は兵糧に難儀することになった。
最近では通説のように今川義元が天下獲りのために上洛を企図し、尾張を踏みつぶしていこうとしたとの考え方は否定されつつある。
最重要課題は大高城への兵糧入れでありにわかに元気になった織田勢の威力偵察にあったとの見方が優勢である。

義元は馬に乗らない。
輿をかつがせ、座ったまま水平移動してくるのである。
よって山道は通れず広い平坦な道でないとつらいし行軍の速度は人が義元をかついで走れる限界に規制される。
本軍は馬が駆ける速度で動けないのである。

沓掛城は現在、城址公園として整備されている。
規模としては近世の城址公園ほどではないが本丸他はよく整備されていて土塁や堀などからどれほどの城であったかを想像するのは容易である。

永禄3年(1560)5月18日、義元は沓掛城にいた。
本丸を眺めてみればわかるがとても収容できるものではない。
義元他の重臣は本丸館で眠り、足軽や荷駄のものどもは野営でもしたのであろう。
この夜、信長は清洲城で軍議を開き籠城論を一蹴している。
総勢2万とも4万ともいうが尾張で内輪揉めをしていた信長には未曾有の軍勢である。

義元がどんな夢をみたかは知る由もないが翌19日、義元の首は胴を離れる。
早暁に松平元康が鷲津・丸根砦を幸先よく落とし、無事に兵糧を入れた。
義元はたぶんおのれ自身に信長が突っかかってくるとは思っていなかっただろう。
沓掛城を発し大高城にゆるゆると向かった。

義元がどこでどう討たれたかの結論は定まっておらずそもそも奇襲であったのかにも諸説ある。

沓掛城は前述のようにささやかな豪族館で眺めもよくない。
ただし翌日に戦闘を控えてこの辺りに満ち満ちていた今川勢の様子はなんとなくわかる。
旧暦の5月は田にはイネが伸び、蛙が盛んに鳴いていたであろう。
私の実家の辺りも夏は蛙がやかましい。

沓掛城が交通の要衝であったというのは一見ではわからない。
一本離れたところに大高へ行く道と平針を抜け八事へ行く道がある。
桶狭間の戦いを意識しなければ単なる抜け道でしかないがそう思ってみるといかにも怪しい道の付け方ではある。

義元がどこで死んだかは別にして、義元が最後の夜を過ごした場所はここであることがなまめかしい。
私の実家も父方の在所あたりにも義元がひたひたと来た。
大高道を行く義元には戦勝を祝う村人がぞろぞろと寄ってきたという。
御先祖様がいたに違いないと思うのもまたおもしろいではないか。

私は中学生、高校生の頃、このあたりを自転車で走り回っていた。
驚くほど変わらない風景が今でもあるのだが桶狭間の戦いの頃もこのように天が高々とし、地平がよくみえたであろう。
思い出したが今日は私の48回目の誕生日だった。 
義元は42才で死んだ。
 

Photo
縄張図、ほぼこのとおりに復元されている
 

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大手を本丸側から、虎口は単純だったようだ
 

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本丸の堀