扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

桶狭間古戦場公園

2012年02月20日 | 城・城址・古戦場

桶狭間というところは私にとって日常の中にある。
日本史上最も著名な古戦場の傍で私は育った。

名古屋に出て行くときには必ず今川義元がそうであったように境川を渡って尾張に踏み込み沓掛城の傍を抜けていく。
あるいは一号線で行くならば池鯉鮒から東海道に入って西へ行くと桶狭間という交差点があり少し行くと鳴海城になる。
そのまま行けば信長が舞台をまとめて戦勝祈願した熱田神宮である。

ところが桶狭間の戦いというのはどこでどうなって義元がどこで討ち取られてというのは意外とわかっていない。
(もっとも長篠でも姉川でもそうではあるが)
鷲津砦だの大高城だのといった拠点は特定されているが行軍の過程などわかったものではない。

通説としては沓掛城を発した義元軍は途中、弁当を使うために休止したところ、おもむろに雷鳴轟き、風雨をついて突撃してくる信長勢に混乱、壊走し、義元は首印をあげられたことになっている。

今日は高校の同級生と昼飯を食い、腹ごなしに古戦場跡を見に来た。
とはいえどこで何があったかをつぶさに検証したい訳ではなく何とはなしにその辺を走り回りたかったのである。

古戦場跡といっても広大な原野が拡がることもなく丘と谷が複雑に入り組んだところをびっしりと住宅が覆っているのである。
公園があるはずなのだがなかなか探せずにうろうろした。
真っ直ぐな道などなくそれだけでもこの辺りが相当に寡兵が大軍を討つのに適しているような気もする。
ここのところ、戦国時代の通説を覆すような研究が流行である。
桶狭間もそのひとつ、実は奇襲ではなかったという説がある。
つまり通説では山の上から黒煙のように信長が駆け下りていく。
映像化された桶狭間はこれである。
新説ではそもそも義元軍とは上洛をめざして東海道を来たのではなく、織田領に睨みをきかせる前線基地に兵糧を入れ、威力偵察をすることが目的だったのだという。
あちこちの砦攻略に戦力を分散し意外に小勢となっていた義元本陣に信長は正面攻撃を仕掛けた上で堂々義元を討ち取った。
そうであれば「奇襲」桶狭間ではない。
どちらが正しいかという議論は私にとってあまり意味はない。
戦国時代の証拠などあてにならず、どちらが確率論的に優位かということでしかないのである。

ただし、無粋な電柱やら住宅やらお店をはぎとって歩いてみればおもしろい戦場なのであろう。

古戦場跡の公園はまさに住宅街の真ん中にあった。
というよりも当局がようやくまとまった区画を確保し、世間に名のある古戦場を冠する拠り所を造ってみたという感じである。
サッカー場のハーフコートほどしかないところに、まずは信長と義元の銅像、義元の首塚と供養塔、立体的に戦場を再現した巨大なディオラマがある。
桶狭間の戦いは今の行政区でいうと名古屋市緑区と豊明市にまたがるエリアで展開された。
そのせいで義元最期の地というのもふたつできている。
今日来たのは名古屋市の方なのであるが気分が萎える所業ではある。
桶狭間の地名はこの地に湧く泉の勢いがよく、桶がくるくると廻る間の一服という意味だという説を公園の説明書きで知った。
明治時代に桶廻間が桶狭間になったのだという。

ともあれいつもは通り過ぎるだけの沓掛城址にも行ってみようとおもった。