扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

日野・氏郷巡り #4 安土城登城

2011年11月04日 | 日本100名城・続100名城

日野の用事を終えた。
ついでに9月に行けなかった安土城に登ることにした。

日野から安土は馬で駆ければ半刻で行くであろう。
氏郷と安土城は大いに関係している。

安土城の工事期間中、氏郷は日野城にいた。
当然、着々と姿を現す安土の巨城に日々心動かせたであろう。

安土城とは信長が小牧山、岐阜と新時代の居城のあり方を研究した結果と当時の最高技術の集大成である。
氏郷は岐阜で信長の城下に槌音を聞いて人質時代を過ごし、今また近所で更地から城下町が立ち上がるのをみた。
氏郷は今でいう○○ヒルズに務める若手エリートであった。
信長流城下建設をみた氏郷は松坂で真価を発揮する。

同じく信長の経済政策の薫陶を受けた男がもうひとり。
秀吉は長浜で練習し、大坂で師を上回るスケールの城下町を築くにいたる。

現在、安土の町に信長の城下町を偲ぶものは何もないに等しい。
「バビロンの喧噪に等しい」とルイス・フロイスが評した岐阜よりも喧しかったであろう安土城下は、本能寺の変の後、謎の炎上により焼失し、次の天下人秀吉が隣の八幡山に秀次の城を築かせた際に町ごと引っ越ししてしまった。
故に今の安土は戦国最大の山城観音寺城と共に主無しで今日まで来た。

ところで明智軍の来襲に先立ってもぬけの空になった安土城の留守居をしていたのが氏郷の父、賢秀であった。
凶報を知るや賢秀は「安土を守るに兵少なし、それがし居城の日野にて防ぐべし」と信長の女子供を連れて退去してしまった。
うなるほどの財宝はそのままである。
日野城には氏郷がいた。
結局、この親子は「こちらへ来られよ」と半ば脅して誘う明智に与しなかった。
そのことで秀吉に感謝され、氏郷は間もなく伊勢松ヶ島12万石に異動する。

さて安土城に登城するには珍しく入山料がいる。
それも道理で、今も盛んに学術調査が行われ石垣など復興途上である。

安土城は観音寺の城山と峰続きの標高100mほどの山に天主を置く。
城山は琵琶湖の内湖に突き出ており三方が湖水に浸る。
残る一方に堀を築いて守りとした。
城山に臨むとまずここに大手門があった。
石垣が復元されており、4つの城門があったらしい。
ちょっとした中国の城塞都市の面持ちがあったかもしれない。

大手門跡を抜けるとそこから勾配がついていく。
最初の曲がりに行きつくまで180m。
大手道は幅9mと日本最大級のスケールである。
しかも正面に例の天主がそびえているのである。
大手道は全て石段で整備され、左右に側溝が付いている。
これは排水というよりは防御の一つであろう。
左右に秀吉、前田利家、家康の屋敷が配され曲輪然としている。

防御ということを考えればこういう設計は空前絶後である。
日本のどの城の設計者も攻城ルートを決して真っ直ぐに造らず、いくつ折れ曲がらせて見通しをきかせず横矢をかけるかに心をくだいた。
曲輪を細かく刻んで堀切を設け、あるいは空堀をうがちと土を掘り返して安心した。
信長のみは「攻めてくるものなどおるまいぞ」と考えて縄張する。

安土城には堀切も空堀もなく、ただ延々と高々と石垣を組み広々と本丸を平らにならした。
天皇の行幸を仰ぐべく清涼殿と同じ間取りの御殿を造り、自身はそれを見おろすようにきらびやかな天主をあげた。
こういう思想は信長しか持ち得ない。
安土城以降、幾多の大名が城を築いた。
どれもがどこかで安土城の影響を受けていることになる。
防御力、規模という点ではあるいは熊本城や大坂城、江戸城などは安土城を越えているが、「城主の思想と哲学の発露」という点で安土城を越えるものがあろうか。
天主台に行きつくまで感心のし通しであった。

天主から一段下の二の丸には秀吉が設けた信長の本廟がある。
石をきれいに積んだ上に自然石一つ。

天主台には礎石が並べられており石垣の上から見下ろすことができる。
天主には虎口から地下室にまず入る。
上げ下げ式の扉があったという。
石組は積み直してあり往時の形ではないということだがそれにしても広い。

天主台からは琵琶湖方面を眺望できる。
湖水に浮かんでいた安土城は近代の干拓により土に浮かんでいる。
信長は中山道をつけかえて安土城下を通過させ、往来する商人は必ず城下に泊まるように定めた。
有名な楽市楽座も安土で完成した。
この施策は隣の観音寺城にいた六角氏がはじめたものという。
信長が真似をし磨き上げ、それは蒲生氏郷と羽柴秀吉によって展開されていく。

下山は総見寺側、百々橋口に降りていった。
三重塔や壮大な山門は城が焼けても残った。
草が深い。

私が巡った城は100を越えたろうか。
まだまだこれからもその数は増えて行くであろうが安土城第一級の評価はゆるがぬであろう。

私が好きな信長の逸話にこういうものがある。
安土城が竣工なった時、信長は身分を問わず見学会を実施した。
町衆が度肝を抜かれ、感心しながら天主まで行くと信長が待っていて「見物料100文!」と自ら徴収する。
信長の人生とは他人にいい思いをさせてやるがただではさせぬというものであった。
見事に信長の思想を言い当てていると思うがいかがであろうか。

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櫓がなくてこの迫力、日本一の大手道

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大手道を見下ろす

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二の丸に続く登城道

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黒門の桝形

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信長廟

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天主台

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日野・氏郷巡り #3 「思ひきや」氏郷の銅像

2011年11月04日 | 街道・史跡

綿向神社から移動、蒲生氏郷の銅像の写真を撮りに行く。
日野町ひばり野の公園にある。
今日は書籍に使う写真を撮りに来たようなもので氏郷像はそのひとつである。
小さな公園の真ん中に立派な台座に立っている氏郷は鯰尾の兜姿ではあるが筆を手に歌を詠んでいる。
武人と文人の折衷のような姿には故事がある。

北条攻めの後、奥州仕置で会津に赴任した氏郷は彼の地で苦労した。
元々、会津人事に不満たらたらという説もあるが、氏郷は奥州でまずまず期待通りの働きをし、伊達政宗の陰謀にも屈せず、秀吉の威光をよく守った。
ために政宗から取り上げた会津に加え、これまた鶺鴒の花押事件の後に米沢他も加増されて福島県から伊達を追い出し92万石の太守となった。

朝鮮出兵の折、上京の途についた氏郷は中山道の武佐宿で東の山を眺め
 思ひきや 人のゆくへぞ定めなき
 わがふるさとを よそに見んとは
と詠んだ。

要するに、「意に反して故郷から離れざるをえないとは人の運命はわからぬものよ」ということだ。
私は氏郷という人は、文句たらたらで髀肉の嘆を囲って生き、40才にして無念のまま死んだとは思っていない。
まして毒殺などあってはならぬと思っている。

氏郷に「天下獲りの野望あり」ということにしてもほんとうに天下を取れるとは思ってもいなかっただろう。
天下一統の高級官僚であった氏郷は「俺こそ一番」と思っていたのは間違いなかろうがそれだけの話である。
もっとも「誰よりも俺が優れている」ということが結果的に天下をねらうということであれば別儀であるが。

さて、ひばり野の氏郷像は私は好きではない。
顔がいかにもな猛将面であるし歌を詠ませるならもっと軽装でなくてはならない。
この銅像はご多分に漏れず先の戦争時に供出され溶かされてしまった。
その後、有志が二代目の造立を行ったということだ。
とはいえ他に氏郷像なるものを私は知らないためこれを本のどこかに使うことになろう。

願わくば松坂城に三層の天守を復元し、本丸にもっとしゅっとした鯰尾の兜にいかした当世具足の氏郷像をみたい。
 

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日野・氏郷巡り #2 日野城址、綿向神社

2011年11月04日 | 城・城址・古戦場

クルマを出して日野城址に行く。

日野城は氏郷の祖父定秀が少し川を上った向こうの蒲生家代々の居城音羽城をこの地に移した。
日野城は今、半身をダムに浸けている。
おかげで城跡を歩いていても縄張りなど確認することが難しい。

わずかに石を積んだ本丸跡なるものが残ってはいるが城跡として偲びがたい。
この地にダムを造った必然性は知らないが、氏郷の城を壊してまでの効果があるのか。

氏郷の産湯の井戸があるはずなので随分探したが見つからず、城から出ようとした道沿いにようやく見つけた。
城跡を観光名所に復興するという手法は効果があることは明白であるのだがダムに埋まってしまっては時すでに遅しではないか。
旧城下町保存や曳山祭など残念ではある。

城跡から少し降りると馬見岡綿向神社。
ここは蒲生郡の心の拠り所である。
蒲生家は氏神とし、日野商人が商売繁盛を祈って大事にした。
曳山で有名な日野まつりはここの春の例祭である。

氏郷は神社の松の森を愛し「松」を吉祥とした。
伊勢では松坂、会津では若松と松の文字を使ったのは綿向神社の松を思い出してのことという。
今では氏郷が愛するほど松が生い茂るほどではないのが惜しい。

神社の境内には日野商人が寄進した拝殿をはじめ灯篭などがいくつも置かれている。
奥の方に楠木正成、正行の銅像がある。
これは小学校に置いてあったものが戦後の教育方針転換で行き場所を失い神社に避難してきたらしい。

また、真新しい石の猪が置いてある。
綿向神社の奥宮は猪が導いたという故事にちなんでのことという。

以上で日野町の散策は終わりであるが日野城のダムによる破却がなんとも惜しい。
 

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日野城の遺構とされる石組

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氏郷産湯の井戸

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馬見岡綿向神社 

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神社の神使、猪




日野・氏郷巡り #1 氏郷供養塔

2011年11月04日 | 城・城址・古戦場

松阪の氏郷まつりの翌日、クルマで日野町方面に出直した。
いうまでもなく氏郷の故郷である。

新名神高速道の甲賀土山で降りて一号線に入ると間もなく甲賀の里、少し北へ行けば蒲生郡日野町である。
蒲生氏郷はここ、日野城で生まれた。

観光案内所から歩いて行くとこのあたり一帯の町並がよく保存されている。
「感應丸」の立派な看板の商家に入れていただきお茶をもらった。
座敷に氏郷の生涯などが掲げられている。

氏郷は日野蒲生家の後継として生まれた。
氏郷のじいさま、定秀の時、主家の六角氏の内紛が起こった時これを鎮めるのに功績あり六角家中に重きを成した。
日野城に新城を築いて移り城下町建設を始めた。
日野鉄砲を新興したのはこの人の功績が大きい。

氏郷のおやじ殿が賢秀、この人は頑固者で慎重そのものの人であった。
氏郷13才の時、信長が攻めてきた。
中山道を明け渡せということであるが六角義賢(承禎)はこれを拒んだ。
ために開戦となったのだが観音寺城は一夜で落ちた。

蒲生家三代は日野城にあって一応意地を見せて信長に抵抗した。
しかし賢秀の妹婿、山向こうの神戸具盛の説得を受けて開城し、氏郷は岐阜に人質に行った。
日野の蒲生家は戦場を離れればほのぼのとしたいい雰囲気であったろう。
氏郷の器量の大きさは近江の東端にあって琵琶湖を眺める幼少期に培われたのではないか。
そして実力の割には欲が少ないという性格もこうしたのびのびとした風土の産物ではないかと思えてくる。

近くに蒲生家の菩提寺、信楽院がある。
聖武天皇の勅建寺というこの寺は今ではさほどの寺勢は感じられないが、本堂天井には見事な雲龍図があった。
そしてここに氏郷の供養塔がある。
氏郷が40才にして京で病没した時、遺髪を供養した。
ちなみに会津にも同様の遺髪塔がある。

信楽院から少し行くと「若草清水」という泉がある。
氏郷が茶の湯に使ったといういわく付きである。

さらにぶらぶらしていると古い町並みの中に山車を収める蔵がそこかしこにある。
氏郷の故郷はいまでもいい雰囲気を残している。



旧正野薬店

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蒲生家の菩提寺信楽院山門

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氏郷の遺髪塔

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若草清水




日野・氏郷巡り -近江牛の丼-

2011年11月04日 | ご当地グルメ・土産・名産品

昼飯は観光案内で教えてもらった「レストラン岡崎」でステーキ丼。

近江牛はおそらく日本で最も古い牛肉ブランドである。
彦根藩は牛肉の味噌漬・粕漬を将軍家に献上する他、贈答品として盛んに送った。
美味というよりは滋養強壮の名目であった。
はじまりは元禄の頃、殺生禁止の気風の中、薬として「反本丸」と名づけた味噌漬を考案したという。
日本人が盛大に牛肉を食うようになるのは明治時代以降のことだ。

牛肉丼、1050円はうまかった。

 
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