扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

皇室の名宝展3 常設展、運慶仏など

2009年10月11日 | アート・文化

皇室の名宝展から帰る際、博物館の常設展に寄った。

ここにはガンダーラ仏の秀作が多少あり、また浄瑠璃寺の四天王など出張しているため眼休めによい。

知らずにいたが、例の真如苑の運慶作「大日如来」が置いてあった。
意外に小さい。
が、まさに円城寺の運慶最高傑作に似ている。

この米国で12億円の値をつけられたお宝をこうして拝めるのは新宗教の財力の賜物である。
ガラスケースに入っていてこそ、「まさしく運慶」と思えるが、日の差さぬ骨董屋に雑に置かれていたらはたして買う気になるか、いくらなら払うか。

私は眼効きでもないが、眼には止まるにせよ、せいぜい30万出すと思えばよい方であろう。

「円城寺に行くか」。と思った。


皇室の名宝展2 若冲ほか

2009年10月11日 | アート・文化

皇室の名宝、次は萬国絵図屏風である。

八曲1双の屏風には地図を中心に世界各都市の鳥瞰図や人物画が油彩にも見えるように濃く描かれている。

安土城の天守にでもあればさぞお似合いであろう。

17世紀初頭に描かれたとすれば、大航海時代を経てスペイン・ハプスブルグ帝国が短い栄光の時代の終焉を迎え、沈まぬはずだった太陽が沈みゆく頃である。
「ここまではやったか」という眼で視ると感慨深い。
アメリカ大陸はほぼ完全な姿をしているし、アフリカも詳しい。

日本には蝦夷地がなく、間宮海峡も無論発見されてはいない。
琉球あたりは詳しく、おもしろいのは日本地図は五畿七道に色分けされていること。


次の展示室は若冲である。

動植綵絵30幅が架けてある。
相国寺美術館で初見した折の感動は以前に記した。
その時観した展示方法とは少々異なる。

まず、釈迦三尊像がない。これは相国寺蔵であるから仕方ない。
また、掛け順が異なる。相国寺での展示は釈迦三尊像を中心に法要でかけられたであろう順番を再現していた。
そういった演出の差は私にとって大きい。

動植綵絵は今日みてもやはり美しい。
何より紙と絵の具の発色がやはり違う。
相国寺で観たときよりも印象的である。

資料に「群魚図」にプルシアンブルーが使われていたことがわかったとある。
この人口顔料は1704年にドイツで偶然発見され、100年を経ず鎖国をくぐって日本に来た。
平賀源内や北斎もこれを使っている。

ここの若冲で素晴らしいのは「旭日鳳凰図」、これは初見。
動植綵絵にも「老松白鳳図」という絵があるがこれは鳳と凰、つまりつがいで描いてある。
脚の部分などをよくみるとわかるが「白鳳図」よりも「鳳凰図」の方が詳細であり時間をかけてあるようだ。羽の部分も詳細感は鳳凰図の方が高い。
ちなみに白鳳図では赤のハートマークがついた羽の先端は鳳凰図ではトリコロールであってサイケ度は高い。
これで、この旭日鳳凰図が私のNo.1に昇格。

次の展示室は円山応挙から始まる。私の最も好きな画家である。
応挙では定番といっていい孔雀と虎、虎は金毘羅山にある襖絵に似てかわいい。

また、ここには谷文晁の虎図もある。
若冲の虎はアメコミ、応挙の虎は日本のマンガだと思うが、この文晁の虎は劇画。怖い顔で水面にもその顔が映る。

また、秀逸は岩佐又兵衛の「小栗判官絵巻」。

保存状態が最高によいこともあるが、コマ割の妙といい展開力といい、まさに日本マンガの元祖といえるのではないか。
この画家の父は、信長に反逆し籠城、妻子や部下を捨てて逃げた戦国武将、荒木村重である。
親に捨てられた彼は乳母によって救われ本願寺に匿われる。
父村重は信長の死後、秀吉に拾われ世に再び、出る。
父とも再会するが、父のようには茶の道に進まず、絵師になった。

日本画は、平安~鎌倉の仏画、禅僧であった雪舟のように宗教と共に歩んだ。
その一方で戦国時代以降の日本には又兵衛やら若冲やら応挙のような天才が続々と野から湧いてくるようになる。
これが現代のマンガの系譜となる。

妙に枯れた味を醸し出す北斎の「西瓜図」を最後に1章の展示が終わる。

2章は明治以降の作品であるが、永徳・若冲で神経が疲れたこともあり、流す。
造型のおそろしく凄い工芸品も多々あるが、いい悪いというよりも興味が湧かない。
まだまだ明治は浅すぎる。

さらに、永徳~若冲~応挙を2周して、出た。


皇室の名宝展1 狩野永徳「唐獅子図屏風」

2009年10月11日 | アート・文化

東京国立博物館で催されている天皇在位20年記念「皇室の名宝」に行った。

阿修羅展の時に強烈に混んだ記憶があるのでやや遅め、3時くらいに上野に着いたのだが並ぶこともなく入場。
今回の目玉は狩野永徳の「唐獅子図屏風」であった。

エスカレーターを上がり最初の展示場の奥にどんとそれはあった。
これを見たかった第一は大きさを実感したかったからである。

右隻が永徳、左隻が常信(永徳の孫)の筆になる一双でケースに中に置いてある。

以前、何かのTV番組でこの図屏風の特集をやっていたのを視たのだが、この図屏風は秀吉の依頼だったらしい。
毛利家に贈られ明治になって皇室に託された。
当初から屏風であったかには諸説あり、獅子の足が断ち落としになっていることや構図からいって後年、図屏風に表装しなおされたのではと考えられている。
もちろん、屏風になったからこそ今日まで残っているわけだ。
永徳の作品はほとんどが城や御殿と運命を共にしてしまい失われた。

この桃山期を代表する傑作を秀吉がどう使ったかは定かではないらしいが、おそらく聚楽第や大坂城・伏見城などの大書院の障壁画として描かせ、その前で諸人と面会する時おのれの存在を大きく見せたのではないかと想定されている。少し離れて視ると前に座ったものがどう見えるかを自分で検証してみたかった。
実際にそれを眼にすると遠目には意外に小さい。

これは展示会場という器自体が大きいこともあろうが予想したよりも小さく感じた。
ところが間近に寄ってみるとこれがまた予想外に大きくみえるのだ。
どうにも不思議な感覚である。
秀吉がいたであろうところをイメージし、対面している気分で下から見上げてみた。
少しこの傑作の意味がわかった気がした。

近くで仔細にみると永徳の唐獅子は金箔の上に一筆で一気に輪郭を書いている。
例えとして近いかどうかではあるが、禅画やら書道に似てもいる。
左隻の江戸期の狩野派の作と比較してみればその迫力や躍動感はかなり異なる。
時代の空気が気迫を生んだ一筆である。

図案としては文殊菩薩の乗り物にある獅子を参考にしているらしい。

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