日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

〈70年代の100枚〉№63~“世紀の一発屋”を生んだ時代のイタズラ

2009-02-15 | 洋楽
「20世紀を代表する“一発屋”と言えば誰?」と問われて、即座に「ナック」と答える洋楽ファンは案外多かもしれません。

№62   「ゲット・ザ・ナック/ザ・ナック」

79年春、彗星の如くヒット・チャートを駆け上がったバンド、それがナックでした。明らかに「ウイズ・ザ・ビートルス」を意識したと思しきタイトルとジャケット、ギター2本、ドラム、ベースの4人というメンバー構成、1曲3分前後のコンパクトなナンバーを矢継ぎ早に聞かせるイメージのアルバムづくりなどは、ビートルスのデビュー時を連想させるもので、シングル「マイ・シャローナ」の5週連続全米No.1とも相まって、「70年代も終わりに登場した、待望久しい“ビートルスの再来”」とまで言われていたのです。

「マイ・シャローナ」に代表されるナックの魅力はと言えば、マジー・ビート系の正統派ブリティッシュ・ビートを基調にしながらも、硬派に走り過ぎず程よい甘さを漂わせた心地よさにあると思います。その意味では、彼らのプロデュースを引き受けた、腕利きプロデューサーのマイク・チャップマンの存在は無視できないところでしょう。

マイクは、70年代前半のグラム・ロック・ブームの折に、ニッキー・チンとのコンビでソング・ライター兼プロデューサーとして、スウィート、スージー・クアトロ、ブロンディなどをスターダムに押し上げた、いわば“元祖パワー・ポップの仕掛人”としてよく知られた存在です。そのマイクがニッキーとのコンビを解消し、自身の過去からの音楽的資産を投じて送り出したのがナックだったというわけなのです。

アルバムを通して聞くと、確かにビートルスの流れを汲むいわゆる“パワー・ポップ”的な魅力に溢れています。ただ、果たして全米No.1を6週間も続けるほどの内容を持ったアルバムなのかと言うと、いささか疑問を感じます。パワー・ポップと言えば既に70年代前半に、ビートルズ直系のバッド・フィンガーやパイロット、エリック・カルメン率いるラズベリーズなどが活躍しましたが、そのいずれもが良質の音楽センスを持ち合わせていながら、決してチャートを制覇するような存在にはなり得なかったのです。

すなわち、70年代に登場したパワー・ポップは、常に“二番煎じ”的域を脱し得ず“亜流”という評価を覆すことはなかった。そう考えるとナックの売れ方は、それまでのパワー・ポップの常識を打ち破るある意味“異常”な現象だったとも言えるのです。

その“異常”発生を紐解く鍵は、彼らがデビューした79年当時の時代背景にあります。当時は、前回登場のドナ・サマーをはじめとしたディスコ・ビート全盛の時代。ストーンズやロッド・スチュワートまでもが、ディスコ・ビートに媚びた「ミス・ユー」や「アイム・セクシー」といった曲でヒット・チャートを賑わしていたのです。また同時期に、メロディーやリズムよりもロックを自己主張の道具として攻撃的な姿勢を売りにした、パンク・ロックが突如登場し大衆音楽の新しい流れをつくりはじめた時期でもありました。

そんな中、正統派ロックの流れを感じさせつつポップな感覚をも持ちあわせた、旧世代的ロック・ヒーロー風キャラクターの登場は、世を賑わすディスコ旋風やパンク・ムーブメントを必ずしも快く思っていなかった私のような音楽ファンからも、積極的支持までは至らずもアンチ・ディスコ・ミュージック的、あるいはアンチ・パンク・ロッカー的支持を得て、想定外の大ヒットをもたらしたように思います。その意味では、ナックは時代の転換期が産み落とした、“予定外”の副産物であったのかもしれません。

その“予定外”を是正するかのように、彼らの人気は次作以降あまりに急激にしぼんでいきます。そして次第にナックは“20世紀最大の一発屋”というような、不本意な言葉で呼ばれるようになるのです。ただ私個人的には、この稀代の“一発屋”ナックの誕生は、常に音楽界の脇役であったパワー・ポップを突如メイン・ストリームに引っ張り出した「変革の時代」の“イタズラ”だったのではないかと思うのです。

ひとつ確実に言えることは、「マイ・シャローナ」はその後も頻繁に我が国のCM等で使われており、イントロ、メロディー、アレンジ…すべてにおいてとびきり魅力的な、間違いなく70年代を代表する“パワー・ポップの名曲”であるということです。