日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

〈70年代の100枚〉№62 ~ 70年代をリードした“ディスコ・クィーン”

2009-02-11 | 洋楽
本日は祝日のユルネタで。

ドナ・サマーは、70年代ディスコ・ブームの仕掛け人イタリア人プロデューサーのジョルジオ・モローダー氏に見出され、70年代後半から80年代前半にかけて全米チャートを席巻した時代を象徴する“ディスコ・クィーン”でした。

№62    「オン・ザ・レイディオ~ドナ・サマー・グレイテスト・ヒッツ VOl.1&2」

彼女の最初のブレイクは75年の「愛の誘惑」。ダンス、ディスコと言うよりは、ため息を聞かせるセクシー路線でのキワモノ的ヒットでした。その後、折からのディスコ・ブームにも乗って断続的にヒット・シングルをリリースしながら、78年「マッカーサー・パーク」の全米№1ヒット(3週連続)を契機に大ブレイクします。続く「ホット・スタッフ」も3週連続1位「バッド・ガールズ」に至っては5週連続での1位を獲得し、当時の最高の栄誉である“ディスコ・クィーン”の名を欲しいままにしたのでした。

このアルバムは、「ホット・スタッフ」「バッド・ガールズ」の大ヒットを受け人気絶頂の79年にリリースされた、新曲を含む2枚組のベスト盤です。このアルバムからも、タイトル・ナンバーの「オン・ザ・レイディオ」とバーブラ・ストライザンドとのデュエット・ナンバー「ノーモア・ティアーズ」が当然の如く№1(それぞれ5週連続と1週)に輝いています。アルバムももちろん№1を記録しました。(ちなみにこのアルバム、リズムが途切れることなく全曲がつながっているのも特徴で、当時パーティ等で重宝されました)

当時のディスコ・ブームの中でドナ・サマーは、ビージーズ路線と“双璧”と言える存在で、まさしく一世を風靡したアーティストであると言っていいと思います。彼女の曲の特徴は、何をおいてもジョルジオ・モローダーによるシンセ・サウンドを基調としたディスコ・ビートです。この流れは80年代のユーロ・ビート系へと確実につながるものであり、その意味でも洋楽の歴史において果たした役割は決して小さくないと思うのです。

それともうひとつ特筆すべきは、黒人の彼女が黒人・白人問わない人気を得たことです。その理由は、白人モローダー氏のプロデュースの下、ディスコ・ブームのもう一方の牽引者であるビージーズに学んだとも思える白人ロック的要素を、“隠し味”として実に上手に取り入れていたことがあると思います。それは、特に人気をピークに持ち上げたアルバム「バッド・ガールズ」リリース前後に顕著です。

例えば大ヒットシングル「ホット・スタッフ」と「バッド・ガールズ」では、ディスコ・ミュージック特有の単調なリズム・パターンに、白人ロック的なメロディとギター・カッティングを折まぜ、単なるブラコンとは一線を隔する雰囲気を作り出しています。このアルバムでも、リトル・フィートのビル・ペイン(P)やエアプレイのジェイ・グレイドン(G)など、腕ききの白人ミュージシャンがバックを務めています。まさに白人のモローダー氏なればなしえた戦略であったのです。それと同時に、彼女が黒人レーベルの「モータウン」所属ではなく、白人アーティストも含め70年代のスターを多数排出した「カサブランカ」レーベルの所属であったこともまた、戦略を陰で支えた理由のひとつと思われます。

80年代後半以降彼女は、ディスコ・ブームの下火化やねつ造された発言疑惑問題等の影響で大衆的人気は急降下します。しかしながら、ダンス・ミュージック界での人気は根強く、08年に17年ぶりのオリジナル・アルバムをリリースし、シングル3曲が連続でビルボードのダンス・チャートで1位になるなど見事に復活。還暦を迎えた今、往年の“ディスコ・クィーン”の面目躍如たる活躍ぶりで再ブームの兆しを見せています。