日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

追悼 昭和の“人間臭いレスラー”グレート草津

2008-06-27 | その他あれこれ
もう何日か前の話ですが、新聞の訃報欄に元プロレスラー「グレート草津」さんの名前を見つけました。享年66歳。

私たちの年代の少年時代は、プロレス全盛時代で、力道山の第二世代である馬場、猪木が人気を二分していました。テレビでもプロレス中継がゴールデンタイムにドンと陣取り、近所の遊び友だちの間では「プロレスごっこ」なんて遊びも流行って、やれ「コブラツイスト」だ「キーロック」だと、見様見真似で技の掛け合いをしたりしたものです。

グレート草津さんは、馬場、猪木の日本プロレスから別れた「国際プロレス」の所属でした。TBSでのテレビ中継もあったものの、主力選手は豊登とサンダー杉山。どちらかと言えば地味な団体にあって、彼はまた中でも微妙な立ち位置。華はなくともしっかり技を見せるファイト・スタイル、子供心に「派手さはないけどキッチリ仕事をする職人」的なイメージが好きで、一生懸命応援した記憶があります。

なぜか私は小学生の頃、地味な職人タイプが好きな変わった子でした。例えば、巨人ではONではなくて5番末次が好きだったり、六大学の「法政三羽烏」では田淵、山本浩二ではなくて、富田が好きでした。クレージーなら谷啓、ドリフは仲本工事みたいな…。でプロレスは日本プロよりも国際、中でもグレート草津は、派手さはゼロだけど黙々と技を繰り出す姿にけっこうハマってました。

得意技はあの「四の字固め」。外人レスラーではデストロイヤーのトレードマークでしたが、日本ではこの人。相手を寝かせて、両足の間に足を入れてグルッと体を一回転させて、まさに相手の足が数字の「4」になる。デストロイヤーは、けっこう派手にパフォーマンスしながら技を決めて、馬場や猪木をギブアップに持ち込む“必殺技”でしたが、草津の場合は気がつくと地味に技をかけていて、なぜか逃げられたり返されたり。決して“必殺”じゃないところが、スターじゃなかったですね。

そもそも「四の字固め」を得意技としたのも、自分がデストロイヤーにかけられて、悶絶ギブアップした経験から「これだ」と思って真似たとのこと。また、日本プロレスの坂口征二(俳優坂口憲二の父)に間違われることが多く、よく不快感を示していたとの逸話も。実に大物感のない人間臭いエピソードを持つ人であったようです。国際プロレスでは、営業部長も兼務していたと言うのも大物感ゼロの地味な話です。ちなみに「気合いだー!」のアニマル浜口は彼の付き人でした(浜口氏は「草津さんは飲みすぎた私の嘔吐物を手で受け止めてくれた優しい人」と語っているそうです。オエッ…)。

彼の逸話で一番有名なのは、国際プロレスの旗揚げ初TV中継のタイトルマッチ戦。彼をスターに育てようとした国際プロは、チャンピオンのルー・テーズとメイン・イベントで対戦させました。ところが、ほぼ新人の草津はテーズに歯が立たず、バックドロップ一発であえなく失神・試合放棄。彼の地味なプロレス人生は、この時決定づけられてしまったようです。

そんなスターとは言い難いレスラー、グレート草津が私は好きでした。70年代半ば国際プロは、猪木独立→日本プロ分裂による団体乱立のあおりもあって、徐々に客が減っていき、TBSテレビの毎週のゴールデン中継は打ち切られました。その後、12チャンネルのテレビ中継で細々やっているのをたまに目にすると、ガラガラの客席を前に草津が地味に時代遅れの「四の字」キメてたりして、これがまた当時の国際プロの状況を象徴しているようで、やけに寂しく映ったものです。

81年に実質倒産だった国際プロの活動停止と同時に引退。その引き際の早さもまた彼らしい一面です。その後は全くその姿を目にしませんでした。高度成長期のプロレスブームの時代に、馬場や猪木とは対照的な目立たない地味な活躍ながら、昭和の少年をたちを元気づけてくれた“人間臭い”レスラー、グレート草津。私はそんな彼を忘れません。

心からご冥福をお祈りいたします。