日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

続発する「無差別殺人」に思う「死刑制度」のあり方論議

2008-06-09 | ニュース雑感
日曜日に東京秋葉原の路上で、通り魔による大量無差別殺傷事件が起きました。

トラックで歩行者天国を行く人を轢き、さらにはナイフで切りつける。狂気以外の何物でもない犯罪です。何の罪もない人7人の方の尊い命が奪われ、10人の方が負傷されました。「ストレス社会が生み出した悲劇」では済まされない大事件です。

犯人は25歳の派遣社員、「人を殺すため今日、静岡から秋葉原に来た。(襲うのは)誰でもよかった」「世の中が嫌になった。生活に疲れた」などと供述しているといいます。最近この手の事件でよくある「人を殺したかった」「誰でもよかった」の供述には、事件が起きるたびに考えさせられる部分が多くあります。

「誰でもいいから人を殺したい」という結論を導く論理展開を試みた場合、普通は「それをしたら人間おしまい」「自分は死刑になって自分自身がおしまい」という誰もが最低限持っている「道徳観」に遮られ、思いとどまりに至るはずなのです。ところが、それを思いとどまらせない何かが起きたとき、このような狂気の惨劇が起きてしまうのです。では、なぜその“思いとどまり”が利かなくなることがあるのでしょう。

過去の事件においては、「思いとどまらせる何か」=“歯止め”をはずすモノが、大量の飲酒であったり覚せい剤等の違法薬物であったりしました。今回の事件では、飲酒も薬物も検出なし。まさに「素面(シラフ)」の状態でいとも簡単に“一線”を超えてしまったのです。この点は、今回注視すべき重要なポイントだと思います。

すなわち、「やりたいこと」をやれば結果「自分にとって大きなマイナス」になるなら、それを認識できる「素面状態」の人は思いとどまります。今までの通り魔の大半は、酒や薬物の影響で“歯止め”が薄れ犯行に手を染めたものでした。ところが今回のように酒も薬も関係なく犯行に手を染めてしまうのは、「やりたいこと」をやることが「社会的犯罪」であっても、「それを超える自分にとってのプラス」があると考えられるからではないでしょうか。この「考え」が、素面(シラフ)でも“歯止め”の利かない行動させてしまうのではないかと思うのです。

ではなぜ、反社会的でも「やりたいこと」をやることが「自分にとってプラス」だったのでしょう。それは大半の場合、やりたい「目立つことをして」「勝手な憂さ晴らしをして」「世間に復讐して」結果希望通り「死刑になって死ねる」という理由があるからなのではないでしょうか。

公の手によって自らの死を決行させてくれることで自らの「死」そのものが正当化され、本人の意思にかかわらず執行される「死刑」という制度。裏を返せば「死刑」は、狂気の手に落ちた場合「公的な自殺」に利用されかねない制度でもあるのです。そして利用された場合は結果として、無理心中的に巻き添えを伴って実行されてしまう狂気に変貌してしまうものなのです。

死刑が確定すれば、彼は閉じ込められますが、3食が与えられ、健康が管理され、処刑の日を待ちます。そしてできるだけ苦しまないように、刑は執行されます。今回の事件のあまりに計画的な犯人の行動を知るにつけ、絶望から自らの「死」を決めた人間には「やりたいことをやって死なせてもらえる」ある種“魅力的”に映る制度なのではないのか、この制度が絶望を狂気に変える“魔力”を持っているのではないかとさえ思えてなりません。

大阪市の小学校で、児童が殺傷された事件の犯人宅間守は、公判で一言も謝罪もせず自らの死刑判決を控訴することなく、また、早期執行を直訴し判決から1年と言う異例の速さで死刑執行されたのです。彼もまた今回同様に、その犯行は「世間への復讐」を兼ね、「公的な自殺」を選んだ絶望した一人の男だったのです。

「死刑制度」の是非を問う議論は、長く世間で繰り広げられています。死刑是認派はよく「死刑廃止」は犯罪の抑止力を損なわせるものであると主張します。果たしてそうでしょうか。今回の事件を目の当たりにすると、むしろ「死刑廃止」が凶悪犯罪の抑止力となる部分もあるいのではないかとは思えないでしょうか。

私は死刑廃止論者ではありませんが、「死刑制度」の是非を問う議論には、遺族の心情、犯罪者の生の尊厳、人が人を「死」をもって償わせることの是非等々の観点共に、無差別殺人が増える今の時代においては、「死刑」=「公的自殺」という観点からの検証も必要な時に来ているのではないかと思います。同じ悲劇を繰り返させない、同じ悲しみを味わう人を作らない、「再発防止」を第一に「死刑制度」の是非は慎重に議論をして欲しいと思います。

そして同時に、病んだ現代において、孤独と絶望に押しつぶされた人々の犯行を止めるためには、刑罰以外の予防手立てを、政治の課題として明日の国づくり観点から考えていかなくてはならないとも思うのです。

亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈りいたします。