-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

畑沢の家の数はどう変化したか

2014-03-04 20:53:05 | 歴史

 家の数(戸数)について、様々な文献を探してみました。一番古いのが江戸時代です。それよりも以前は、誰もいなかった訳ではなくて、文献に残っていないだけです。

 江戸時代は、村の名主が年貢等を代官へ報告しなければならなかったので、名主の家には現在まで記録が残されていたようです。

 ところで、江戸時代の古文書を私が直接に調べたわけではありません。次の文献に古文書を読み解いた内容が掲載されていましたので、それから戸数を抜き出しました。嘉永6年(1853年)の戸数は、畑沢村に伝わっていた伝説によります。

県立楯岡高校郷土部発行「郷土Ⅱ」
尾花沢市史編纂委員会編「村差出明細帳」
三宅太一郎著「村落の歴史 延沢そして三日町」
山形県個別明細図刊行会編「最新 尾花沢市全戸別明細図
ゼンリン住宅地図

 記録がある1686年から最多戸数の1958年まで約270年かけて、徐々に戸数が増加していきました。途中、何度も飢饉が襲って人口が減少したこともあったようですが、畑沢は比較的飢饉の影響が他の村と比較すると、少ないようです。他の村では、飢饉時の人口減少がとてつもなく激しかったようです。畑沢は地形的に飢饉の影響が少なくなるのではないでしょうか。聞くところによると、畑沢は冷たい「やませ風」が吹かないと言う人がいます。

 そして最多戸数65戸の1958年から、直近の2013年の35戸まではたった50年余りです。戦後の人口減少がいかに激しいかが分かります。戦後の中でも特に高度成長期には、大勢の人が都会へ流れ、基本的には今でもその傾向が続いています。この国のあり方は、これでよいのでしょうか。世の中が発達し成長するとはどのようになることなのでしょうか。「強い国になること」や「経済成長」が、これらの問題を解決する手段なのでしょうか。じっくり考える時が来ていると思います。でも、私自身が年老いた両親を畑沢に残して、畑沢を離れた後ろめたさを持っています。

 また、脇道に入りそうなので、本題に戻します。高齢者施設等に入って、留守になっている家も4、5軒ぐらいありますので、今の実質的な戸数は30戸ぐらいになってしまいます。戸数では最多時の2分の1以下になりました。

 これまでの歴史を考えると、異常な状況が起きています。私の子ども時代は、一軒の家に祖父母、両親、3人ぐらいの兄弟が住んでいました。今は一軒の家に、1人か2人が多くなっています。もしも、人口で比較したとすると、現在は最多時の4分の1以下になるのではないでしょうか。

 

 この状況を御覧になれば、スビタレにもかかわらず私が何故、畑沢に肩入れしているかをお分かりいただけると思います。隣の細野地区には、私の同級生が5人も残りました。ところが畑沢に私の同級生は誰も残っていません。こんな「スビタレ」で「ヤジャガネ」くても、少しでも役に立てれば思っているからです。

 昭和50年1月 このころの戸数は60戸ぐらいです。

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