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新米ペアレントの営業日誌・営業中

2005年3月1日に秋田県大仙市にオープンした大曲ユースホステルのペアレント(経営者)が日々の出来事を送ります。

古い地図で場所の特定

2019-06-19 23:05:57 | 鉱山


今週末の過去最大の作戦を前に、空いた時間や休憩時には相変わらずマニアックに秋田の鉱山のお勉強。場所の特定を主に行っているため、なんとか古い地図がないものかと、いろいろ見ていたら、ついに宝の山を発見。

大正元年(1912)作成、昭和13年修正の全国の国土地理院1/50000の地図。国土地理院の地図では、拡大するとピンボケで見ることができませんが、こちらは、いくら拡大してもはっきりと見えて、大感動。

見つけた場所は、なんと米国スタンフォード大学のライブラリー。

昭和13年(1938)と云えば、まだ太平洋戦争前ですが、いわゆるスパイ行為として、日本の明細地図が海外に持ち出されたものなのでしょうか?一部の場所が欠けているようですが、どうもその場所は当時、特に軍事的に最重要視されていた場所のようです。

のち
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黒川油田-秋田市

2019-06-18 23:02:23 | 鉱山


昨日、お勉強をした豊川油田からすぐの場所にあったのが、黒川油田。実際は秋田市金足黒川から潟上市昭和豊川上虻川に広がる谷地と山間部に広がった油田とのこと。

発見は大正元年(1912)日本石油㈱による1号井とされているが、既に江戸時代からこの場所で油脈が発見されていたとされ、明治5年(1872)にのちに石油産業の祖とも呼ばれた石坂周造の石油会社、長野石炭油会社が開発を行い、初出油を見る。しかしこの時の石油は粘力が強く、「納豆油」とも揶揄され、当時の製油法では処理しきれずに捨てられるか、油煙原料となる程度で、会社倒産もあり、すぐに油井は廃棄された。その後、大正元年に日本石油㈱がここでの採掘を開始し、翌年に商業ベースの採油(日産63キロリットル)が可能となった。

黒川油田は、当初全鉱区が日本石油の独占であった。この油田が一躍有名になったのは、大正3年の5号井からの日産1,800キロリットル(ドラム缶9,000本)、古い単位では、「一万石」という空前の大噴油であった。このため大正4年には皇族の視察も続き、国内でも有数の油田となった。ただ最盛期はこの時で、当時この場所に掘削坑数290坑、そのうち産油坑96と櫓の林立を見るまでになり、昭和初期まで比較的安定して石油の産出が続いた。その後は減少し、度々試掘が行われたが、新しい油層の発見には至らず、古い井戸からの採油が続いた。

第二次大戦中は、ここも帝国石油の管理となり、戦後の昭和37年(1962)には中央鉱業㈱による管理となるが、細々と原油と天然ガスの産出が続いている。現在も中央鉱業㈱の事業所近くには櫓などがわずかに残るが、私有地のため立ち入り禁止となっているようです。豊川油田とセットで現地視察に行ければと、考えています。

のち
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豊川油田-潟上市

2019-06-17 23:58:59 | 鉱山
相変わらず、空いた時間や休憩の時には秋田の鉱山のお勉強。能代市から南下して潟上市に。ここには鉱山とは少し違いますが、かつて日本最大だった油田、豊川油田がありました。以前にも訪問して、少しは知識があったつもりですが、もう一度調べてみると、いろいろ面白いことがありました。

この豊川地区が油田になるきっかけは、ここで採取されていた土瀝青(天然アスファルト)だった。古くは縄文時代からここで土瀝青が採取され、矢じりや土器の接着剤に利用されていたと云い、青森から新潟、岩手までその痕跡が出土している。江戸時代になると商用採取が始まり、墨の材料とされていたが、明治時代には神田昌平橋に日本初のアスファルト舗装が施され、そこで使われたのが豊川の天然アスファルトだった。これを契機に用途拡大が進み、明治30年(1897)頃には国内最大の天然アスファルト鉱山として賑わった。

皮肉なことに、ここで油田が大正2年に発見され、石油系アスファルト製品が増産されると、天然アスファルトの採掘は減少し、大正中期には土瀝青の採掘はほとんど見られなくなり、この場所も油田として知れ渡るようになる。翌年の黒川油田の大噴油に刺激され、日石など多くの石油会社が個々で油井を掘削し、数百本の櫓が立ち並んだという。戦中、戦後は帝国石油㈱によって経営され、昭和30年からは東北石油㈱に経営が移譲。いまだに、若干の天然ガスの生産は行っているが、石油の採掘は平成13年(2001)に停止された。

2007年に経済産業省から「豊川油田」は石油産業に関る近代化産業遺産の「認定」を受けた。現地にはわずかに油井の櫓が残り、東北石油事務所には資料展示室がある。また旧油田地帯にはパワーユニットの残骸が残っていたり、石油や土瀝青が滲み出している場所もあります。現地の方がボランティアで見学ツアーなども行ったり、地元大学と組んで、日本最大とも云われた豊川油田を知ってもらう努力を行っています。以前に一度この場所は訪ねましたが、PCトラブルで画像が飛んでしまったので、もう一度行く必要があります。

のち時々
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予行演習、終了

2019-06-16 23:10:37 | 経営


今朝、無事に小学校の団体さんが出発となり、またその後一般のお客様も出発されて、いつもの静かなYHに戻りました。とはいえ、ビジネスのお客様用に部屋を戻す作業で予想通り昼過ぎまでバタバタ状態となりました。

次の週末には、今回よりも多い人数で同じ小学校の利用があります。当初15名を少し超えるかもという話でしたが、だんだんと人数が増えて、20名を超える見込みとなり、今から部屋割りや布団などどうしたものかと。

もう一つの検討課題が食事。夕食の提供はありませんが、朝食ありで、ほぼいつも通りの食事を用意したところ、小学生ということもあるのか、食べる量は少しで、食べられない物もあったようです。同じものを2度出すというのも能がありませんので、なんとかもう少し食べられるものを考える必要があります。そもそも、食堂の席が足りず、席をどうするかという問題も未解決。これから週末まで、いろいろ策を練ろうと思います。


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一日バタバタ!

2019-06-15 23:08:57 | 経営
本日は団体利用に加えて、一般のお客様もあり、満室となりました。この時期の満室は初めてのことで、感謝です。一般のお客様も、度々お越し頂いている方々でしたので、人が多く、まして子供がいるというのは珍しいと、いつもとは少し違う当YHを楽しんで頂けたかと思います。

とはいえ、今日の昼間は、5月連休明けから長期滞在して頂いているビジネスのお客様に部屋を空けて頂き、備品や布団などを全部交換してというバタバタ作業となりました。こちらのビジネスの方には、5月の予約時にその旨お話ししてありましたので、比較的順調に諸々進みました。明日の午後にはこちらのビジネスのお客様がまた戻ってきますので、明日もバタバタする予定です。

のち
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迷う布団の準備

2019-06-13 23:06:43 | 季節
今週、来週と週末には、小学校の部活の利用があります。今週はまだ人数が多くありませんが、来週には定員をかなりオーバーする形で貸切での利用となる予定で、今日あたりからボチボチその準備を始めました。この小学校は一昨年から年に数回、利用頂いており、こちらの状況はある程度、ご理解頂けていると思っていますので、少し無理をしてしまいます。

いい機会なので、開業から15年が経っていますので、寝具のチェックをして、買い替える必要があるものは、思い切って交換してしまおうと思っています。同時に盛大に毛布や布団カバーなどの洗濯。冬と違ってこの時期は、半日もあれば乾くので、短期間にすべてを洗うことが出来て、大助かりです。ただ、昼は25℃を越えて暑く感じますが、朝晩には15℃を下回り、布団を毛布にするか掛布団を用意するか、判断に迷う状態です。


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発盛(椿)鉱山-八峰町

2019-06-12 23:03:24 | 鉱山
昨日は藤里町の太良鉱山をお勉強しましたが、今日は旧八森町にあった発盛鉱山。怪しげな話が続いて恐縮です。

発見は明治20年(1887)で、のちに八幡製鉄所の経営者や、小坂製錬所の所長だった武田恭作(のちの大日本鉱業創設者)が経営し、製錬施設や坑内軌道、水力発電所などの設備投資を行い、銀や副産物である銅の生産量が飛躍的に増加したという。

発盛鉱山(製錬所)のシンボルであった高さ43mの大煙突や、能代港まで20kmにおよぶ架空鉄索が作られたのはこの時(明治40年)で、椿鉱山の最盛期を迎えた。労働者は1,300人を超え、単一鉱山としては日本一の銀生産量となった。

元々埋蔵鉱石量は多くなく、徐々に鉱石を買い入れて(買鉱)製錬を主に行う製錬所が中心になっており、大正3年(1914)には自山の鉱石が枯渇、大日本鉱業所有の吉乃鉱山(増田町)からの鉱石で稼働再開。大正8年からは戦後の世界不況のため休山。昭和2年に買鉱製錬所として製錬事業が復活、住友合資会社との共同経営となり、名称を発盛鉱業所(鉱山)と改称。第二次大戦中は国内の銅需要が高まり、増産により国内でも知られた製錬所の一つに数えられたが、戦後休山。

昭和22年(1947)以降再開。昭和40年代には大手鉱山会社からの委託製錬が主業務になり、昭和52年(1977)には大日本鉱業が解散し、日本海金属・発盛製錬所として新発足。その後は、鉛の再生産を小規模に行っていたが、平成元年(198に鉱山のシンボルである煙突が解体され、製錬所の操業に終止符が打たれた。

製錬所跡地は工業団地となり、露天掘りの跡地は平成20年(2008)に八峰町中央公園に再生され、記念碑が立っている。また近くにはカラミ(製錬滓)レンガの塀が残されているほか、中浜海岸にはカラミを粉砕処分したため、黒い砂丘が広がっている。また五能線八森駅には当時専用線の発着に使われたホーム跡が残るという。

県内でも数少ない海岸線にあった鉱山で、後には付属製錬所が事業の主体となるという県内鉱山でも変わった歴史を持つ場所です。アクセスも悪くなく、いくつかの遺構も見られるようなので、温泉巡りのついでにでも立ち寄ってみようと思います。

時々のち
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太良鉱山-藤里町

2019-06-11 23:00:12 | 鉱山
秋田の鉱山のお勉強も北秋田市がほぼ終わり、県北沿岸地区となりました。今日調べていたのは藤里町。ここには明治時代に古河財閥に払い下げられた太良鉱山があります。太良鉱山(だいら)は藤琴川の上流七枚沢との合流点付近ににあった鉱山。隣接する旧田代町の矢櫃鉱山とともに秋田県内で最大規模の鉛の生産地でした。

発見は文永年間(1264~74)で当初は銀山として開発、江戸時代には鉛鉱山として開発され、元禄17年(1704)には、阿仁銅山なども経営した大坂屋の経営となり、文化14年(1817)には秋田藩の藩直営の鉱山となったとのこと。明治18年(1885)には古河市兵衛に払い下げられた。断続的に採掘が行われたが、昭和33年(1958)、大洪水のため輸送網や坑道の多くが水没し休山となった。

鉛は銅の製錬に必要なもので、江戸時代には当初、院内鉱山に送られ、院内での必要な鉛のほぼ全量を太良鉱山の鉛で賄われていた。また阿仁鉱山が活況になると阿仁に送られ、安永3年(1774)に荷上場(現二ツ井)に加護山製錬所が設置されたが、その場所に製錬所が造られた理由の一つが、太良鉱山からの鉛と阿仁からの粗銅から「南蛮絞り」による銀の産出・鋳銭を効率よく製錬するという、物流面からとみられ、加護山製錬所で必要な鉛のほぼ全量を太良鉱山とその周辺から供給された。

鉛の産出量としては、明治になって古河財閥の経営ののちに最盛期を迎え、経営移管後の明治23年(1890)には秋田県の鉛産出の77%を占め、大正元年(1912)には全国の鉛産出の15%に達し、国内有数の鉛鉱山となった。鉱山周辺には千を超える坑口があったとも伝わる。このため、太良鉱山周辺は明治元年には藤琴村から独立して太良鉱山村となったり(明治22年に藤琴村に合併)、明治後期には山中に約千人が住む鉱山集落があったという。

現在、鉱山跡地には集落はなく、林業会社の作業場となっているが、建物基礎跡、製錬場跡の煙突、神社跡などの遺構が見られるほか、多くのカラミ(製錬滓)が残されているようです。ただ山奥なので、果たして行けるものなのかどうか。いずれ現場視察に行く必要がありそうです。

のち一時
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肥料袋撤去

2019-06-10 23:55:59 | 畑・工作


先週は諸事情により外作業が出来ませんでした。ようやく今日、時間を見て作業再開。最初に行ったのは、予定通り肥料袋の撤去。外すだけでなく、トマトとキュウリの畦には、大きくなってもいいように逆U字型の支柱立て。脇芽を取ったり、鳥が支柱に止まらないように鳥除けの糸張りなど、なんだかんだで2時間ほどかかってしまいました。



次に枝豆も9割ほどが発芽してきたので、鳥除けの水糸を撤去。支柱に巻き付ける作業にどうしても時間がかかります。



少し余った時間で、次の作業工程、ネギ畦の草むしりの予行演習。1往復、2畦分をでかしました。このネギの場所には昨年トマトがあったので、落ちたトマトの種から何本も芽が出ていました。もったいないけど、雑草扱いになりました。

のち
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畑のチェック

2019-06-09 23:51:24 | 畑・工作


明日には久しぶりに外作業が出来そうですので、今日は空いた時間で畑の状況確認。4月下旬に植えたジャガイモは、ここ2週間で一気に成長して、花も咲き始めました。このまま順調にいけば、7月前半には収穫が出来そうです。



肥料袋をしたままのトマトには、しっかりミニトマトが実り始めていました。またキュウリも花の下にキュウリのミニチュアができ始めていました。トマトは熟すまでに1か月ほどかかりますが、キュウリはあと2週間ほどで食べられるかな、という感じです。いずれも肥料袋からかなり頭を出してしまっているので、早急に肥料袋を撤去して、支柱を立ててやる必要がありますので、明日はここから着手になりそうです。




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