相変わらず、空いた時間や休憩の時には秋田の鉱山のお勉強。能代市から南下して潟上市に。ここには鉱山とは少し違いますが、かつて日本最大だった油田、豊川油田がありました。以前にも訪問して、少しは知識があったつもりですが、もう一度調べてみると、いろいろ面白いことがありました。
この豊川地区が油田になるきっかけは、ここで採取されていた土瀝青(天然アスファルト)だった。古くは縄文時代からここで土瀝青が採取され、矢じりや土器の接着剤に利用されていたと云い、青森から新潟、岩手までその痕跡が出土している。江戸時代になると商用採取が始まり、墨の材料とされていたが、明治時代には神田昌平橋に日本初のアスファルト舗装が施され、そこで使われたのが豊川の天然アスファルトだった。これを契機に用途拡大が進み、明治30年(1897)頃には国内最大の天然アスファルト鉱山として賑わった。
皮肉なことに、ここで油田が大正2年に発見され、石油系アスファルト製品が増産されると、天然アスファルトの採掘は減少し、大正中期には土瀝青の採掘はほとんど見られなくなり、この場所も油田として知れ渡るようになる。翌年の黒川油田の大噴油に刺激され、日石など多くの石油会社が個々で油井を掘削し、数百本の櫓が立ち並んだという。戦中、戦後は帝国石油㈱によって経営され、昭和30年からは東北石油㈱に経営が移譲。いまだに、若干の天然ガスの生産は行っているが、石油の採掘は平成13年(2001)に停止された。
2007年に経済産業省から「豊川油田」は石油産業に関る近代化産業遺産の「認定」を受けた。現地にはわずかに油井の櫓が残り、東北石油事務所には資料展示室がある。また旧油田地帯にはパワーユニットの残骸が残っていたり、石油や土瀝青が滲み出している場所もあります。現地の方がボランティアで見学ツアーなども行ったり、地元大学と組んで、日本最大とも云われた豊川油田を知ってもらう努力を行っています。以前に一度この場所は訪ねましたが、PCトラブルで画像が飛んでしまったので、もう一度行く必要があります。
のち時々
この豊川地区が油田になるきっかけは、ここで採取されていた土瀝青(天然アスファルト)だった。古くは縄文時代からここで土瀝青が採取され、矢じりや土器の接着剤に利用されていたと云い、青森から新潟、岩手までその痕跡が出土している。江戸時代になると商用採取が始まり、墨の材料とされていたが、明治時代には神田昌平橋に日本初のアスファルト舗装が施され、そこで使われたのが豊川の天然アスファルトだった。これを契機に用途拡大が進み、明治30年(1897)頃には国内最大の天然アスファルト鉱山として賑わった。
皮肉なことに、ここで油田が大正2年に発見され、石油系アスファルト製品が増産されると、天然アスファルトの採掘は減少し、大正中期には土瀝青の採掘はほとんど見られなくなり、この場所も油田として知れ渡るようになる。翌年の黒川油田の大噴油に刺激され、日石など多くの石油会社が個々で油井を掘削し、数百本の櫓が立ち並んだという。戦中、戦後は帝国石油㈱によって経営され、昭和30年からは東北石油㈱に経営が移譲。いまだに、若干の天然ガスの生産は行っているが、石油の採掘は平成13年(2001)に停止された。
2007年に経済産業省から「豊川油田」は石油産業に関る近代化産業遺産の「認定」を受けた。現地にはわずかに油井の櫓が残り、東北石油事務所には資料展示室がある。また旧油田地帯にはパワーユニットの残骸が残っていたり、石油や土瀝青が滲み出している場所もあります。現地の方がボランティアで見学ツアーなども行ったり、地元大学と組んで、日本最大とも云われた豊川油田を知ってもらう努力を行っています。以前に一度この場所は訪ねましたが、PCトラブルで画像が飛んでしまったので、もう一度行く必要があります。

