新米ペアレントの営業日誌・営業中

2005年3月1日に秋田県大仙市にオープンした大曲ユースホステルのペアレント(経営者)が日々の出来事を送ります。

太良鉱山-藤里町

2019-06-11 23:00:12 | 鉱山
秋田の鉱山のお勉強も北秋田市がほぼ終わり、県北沿岸地区となりました。今日調べていたのは藤里町。ここには明治時代に古河財閥に払い下げられた太良鉱山があります。太良鉱山(だいら)は藤琴川の上流七枚沢との合流点付近ににあった鉱山。隣接する旧田代町の矢櫃鉱山とともに秋田県内で最大規模の鉛の生産地でした。

発見は文永年間(1264~74)で当初は銀山として開発、江戸時代には鉛鉱山として開発され、元禄17年(1704)には、阿仁銅山なども経営した大坂屋の経営となり、文化14年(1817)には秋田藩の藩直営の鉱山となったとのこと。明治18年(1885)には古河市兵衛に払い下げられた。断続的に採掘が行われたが、昭和33年(1958)、大洪水のため輸送網や坑道の多くが水没し休山となった。

鉛は銅の製錬に必要なもので、江戸時代には当初、院内鉱山に送られ、院内での必要な鉛のほぼ全量を太良鉱山の鉛で賄われていた。また阿仁鉱山が活況になると阿仁に送られ、安永3年(1774)に荷上場(現二ツ井)に加護山製錬所が設置されたが、その場所に製錬所が造られた理由の一つが、太良鉱山からの鉛と阿仁からの粗銅から「南蛮絞り」による銀の産出・鋳銭を効率よく製錬するという、物流面からとみられ、加護山製錬所で必要な鉛のほぼ全量を太良鉱山とその周辺から供給された。

鉛の産出量としては、明治になって古河財閥の経営ののちに最盛期を迎え、経営移管後の明治23年(1890)には秋田県の鉛産出の77%を占め、大正元年(1912)には全国の鉛産出の15%に達し、国内有数の鉛鉱山となった。鉱山周辺には千を超える坑口があったとも伝わる。このため、太良鉱山周辺は明治元年には藤琴村から独立して太良鉱山村となったり(明治22年に藤琴村に合併)、明治後期には山中に約千人が住む鉱山集落があったという。

現在、鉱山跡地には集落はなく、林業会社の作業場となっているが、建物基礎跡、製錬場跡の煙突、神社跡などの遺構が見られるほか、多くのカラミ(製錬滓)が残されているようです。ただ山奥なので、果たして行けるものなのかどうか。いずれ現場視察に行く必要がありそうです。

のち一時
コメント
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