陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

246.山口多聞海軍中将(6)戦艦などさっさと止めて戦闘機の一〇〇〇機もつくれってんだ

2010年12月10日 | 山口多聞海軍中将
 山口大佐は、その足で連合艦隊司令長官・米内光政中将にも帰国の挨拶をした。米内中将は「いま、日本の動きは芳しくない。率直に意見を述べてくれ」と言った。

 山口大佐が昨今の米国事情を報告すると、米内中将は時折目をつぶって聞き入り、資源のことにふれるとしきりに頷いた。だがそれ以上の反応はなくどこか表情に曇りがあった。

 「五十鈴」の竣工は大正十二年で五五〇〇トンの軽巡洋艦だったが、昭和八年から九年にかけて航空機搭載設備の新設を含む改良工事が行われ後部甲板に水上偵察機を搭載した。

 九万二〇〇〇馬力のタービンを積み速力は三六ノット。世界第一級の高速巡洋艦だった。

 航海長は実松譲少佐(海兵五一・海大三四)だった。実松少佐は山口大佐と同じプリンストン大学の留学組で、山本五十六中将の配慮で航海長として乗組んできた。海軍では、山本中将、山口大佐に続くアメリカ通のエリートだった。

 山口艦長は航海長・実松少佐に「初級士官教育を担当してくれ、手心を加えることはない。びしびしとやってくれ」と命じた。

 「分かりました」。実松少佐は不動の姿勢で敬礼したが、内心は困っていた。当時、侯爵の少尉がおり、彼も指導の対象だった。

 当時尉官検定という制度があり、少尉、中尉の成績を海軍省に報告しなければならなかった。侯爵の少尉の成績はダントツに悪かった。

 だが、過去の成績表は嵩上げしたのだろう、すべて上位になっていた。実松少佐は山口艦長にありのままを報告した。

 山口艦長が何と言うか、実松少佐は気がかりだった。だが、山口艦長は「成績どおりでよい」と断を下した。

 ところが、この報告は意外な余波を生んだ。実松少佐は艦隊司令官の小松輝久少将(海兵三七・海大二〇)から呼び出され「なんとかならんか」と言われた。

 このことを、実松少佐が山口艦長に話すと「よし、私が直接、指導に当たろう」と言い、毎日のように山口艦長は、その少尉を艦長室に呼んで海軍士官の心構えや部下の統制についてレクチャーしたという。

 巡洋艦「五十鈴」の艦長時代、山口大佐は海軍兵学校同期の大西瀧治郎大佐を横須賀に呼んで酒を飲んだ。大西は当時海軍航空本部教育部長だった。

 大西大佐は山本五十六次官の側近中の側近として航空第一主義を唱えていた。だが、実際には山本中将が次官に就任しても大艦巨砲主義には歯止めがかからず、戦艦「大和」の建造が決まり、広島県呉の海軍工廠に造船士官が多数集められ図面を引いていた。

 世界最大の六万トンの巨大戦艦だった。大西大佐は面白くなかった。大西大佐は山口大佐に日ごろの鬱憤を発散させ、次の様に言った。

 「山本さんが大和の設計者をとっつかまえて、いずれ君らは失業するよとおっしゃったそうだが、全くその通りだぜ。戦艦などさっさと止めて戦闘機の一〇〇〇機もつくれってんだ。今に見ておれ。すでに凄い飛行機ができておる」。

 凄い飛行機とは零戦の先駆となる三菱の九六式艦上戦闘機だった。零戦の原型がすでに完成していた。

 山口大佐は「まあいいではないか。いずれ俺もお前のところに行く。待っておれ」と言った。大西大佐が「ようし、歌だ」と言い、歌になった。

 山口大佐は、そんな時、決まって「荒城の月」を歌った。哀調を帯びた節回しが気に入っていたと言われている。

 「五十鈴」の艦長になって一年後、昭和十二年十二月三日、山口多聞大佐は呉軍港の第四ドックに入渠して整備中の戦艦「伊勢」に艦長として着任した。四十五歳だった。

 戦艦「伊勢」は公試排水量四〇一六九トン、全長二一五・八二メートル、最大幅三三・八三メートル、出力八〇〇〇〇馬力、速力二四・五ノットだった。

 兵装は主砲の三五・六センチ連装砲六基、一四センチ砲一六門、一二・七センチ連装高角砲四基、二五ミリ連装機銃一〇基、水上偵察機三機。乗員は一三八五名。

 主砲の最大射程は三万三〇〇〇メートルで、弾薬庫の周辺は強化され、応急注・排水装置や防毒施設などもあった。