陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

740.野村吉三郎海軍大将(40)大統領の政治手腕をもって、何らかの打開の道を見出すことを希望する ■■■■■ブログ休止のお知らせ■■■■■

2020年05月29日 | 野村吉三郎海軍大将
 これに対して、駐米全権大使・野村吉三郎大将は次のように述べた。

 「今回の貴国側の提案は、日本を失望させるであろう」。

 するとルーズベルト大統領はまず、次のように応じた。

 「事態のここに至ったのは真に失望するところである。第一回は本交渉開始後数ヶ月にして仏印進駐で冷水を浴びせられたが、最近の情報によると、またまた第二回の冷水を浴びせられる懸念がある」。

 それから、ルーズベルト大統領はさらに話を続け、次のように結論付けた。

 「ハル長官と貴大使等が話し合い中に、日本の指導者から何ら平和的な言葉を聞くことのできなかったことは、この交渉を非常に困難にしたのであって、暫定取り決めによって現状を打開するという折角の案も、終局に於いて日米両国の国際関係処理に関する根本主義が一致しない限り所詮は無駄になる」。

 会見の最後に、駐米全権大使・野村吉三郎大将は次のように述べた。

 「東京からまだ何ら回訓はないが、自分としては三十年来の友情により、多大の尊敬を払っている大統領の政治手腕をもって、何らかの打開の道を見出すことを希望する」。

 これに対して、ルーズベルト大統領は、次のように応じた。

 「来週の水曜日(十二月三日)にはワシントンに帰って再びお目にかかりたいが、その間に何らか局面に資する事態の発生があれば結構である」。

 さらに、同席のハル国務長官が、暫定取り決めが不成功となった理由として、大統領の説明の他に、次のようなものがあると述べた。

 「日本が仏印に増兵、これによって各国の兵力を牽制し、さらに、一方には三国同盟、防共協定を振りかざしながら、アメリカに対して石油を求められるが、それはアメリカの輿論(よろん)の承服しないところである」。

 ハル国務長官は、続いて、日本側の矛盾点として次のように主張した。

 「アメリカが平和的解決に努力している際に、東京の要人が、力による新秩序建設を主張していた」。

 昭和十六年十二月八日、日本海軍は真珠湾攻撃を行い、太平洋戦争に突入した。

 日米交渉で、和平のために尽力した駐米全権大使・野村吉三郎大将だったが、結果的に日米両国は遂に戦争に突入せざるを得なかったと言える。

 だが、日米交渉の裏で、着々と戦争準備を進めていたとして、「卑怯なだまし討ちだ」と言われ、駐米全権大使・野村吉三郎大将は、帰国するまでの半年間をワシントンで過ごすことになった。

 戦後、野村吉三郎元大将は、昭和二十八年三月、同郷の松下幸之助に請われ、松下電器産業の資本傘下となった日本ビクター社長に就任した。

 昭和二十八年十月、野村吉三郎元大将は、アメリカを訪問した。

 ルーズベルト大統領は昭和二十年四月十二日に亡くなっていたが、旧知のプラット大将、スターク大将、グルー元駐日大使、フーバー元大統領らが大歓迎してくれた。

 彼らは皆、駐米全権大使時代、野村吉三郎大将の平和に対する外交政治への苦心を知る人物ばかりだったのである。

 その後、昭和二十九年六月、野村吉三郎元大将は参議院選挙補欠選挙に当選、参議院議員となる。その後昭和三十一年八月、自民党参議院議員会長に就任。

 昭和三十三年、八十歳になった野村吉三郎元大将は、福留繁(元海軍中将)、田中新一(元陸軍中将)らと同行して、台湾を訪問した。

 昭和三十四年には参議院議員に再選された。昭和三十五年七月、野村吉三郎元大将は自由民主党外交調査会長に就任。

 高齢になっても、ドライブが好きで、よくいろんな所に自分で車を運転して、ドライブを楽しんでいたと言われている。

 昭和三十九年五月八日、野村吉三郎元大将は東京都新宿の国立東京第一病院で老衰のため死去。享年八十六歳。(終わり)

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739.野村吉三郎海軍大将(39)今後十年もたった後には、貴国もアメリカと同じ側に立ってドイツと闘わなければならない

2020年05月22日 | 野村吉三郎海軍大将
 これに対してルーズベルト大統領は、強い口調で、石油の禁輸の断行を次のように強くほのめかしたのである。

 「従来、世論は日本に対して石油を禁輸せよと強く主張してきたが、自分は日本に石油をあたえることは太平洋平和の為に必要であると説明して今までやってきたのである」

 「ところが、日本が今日のように仏印に進駐し、さらに南方に進もうとするような形勢になっては、自分は従来の根拠を失い、もはや太平洋を平和的にしようすることができなくなってくる」

 「そしてアメリカが錫、ゴムのごとき必要品を入手することが困難になってくる。その上他のエリアの安全が脅かされて、フィリピンも危険となってくる。これでは、せっかく苦心して石油の対日輸出を継続していても何にもならない」

 「今はすでに多少時期遅れの感があるが、もし日本が仏印から撤兵して各国が仏印の中立を保証し、あたかもスイスの如くした上で、自由に公平に仏印の物資を入手するような方法ありとせば、自分は尽力を惜しまない。また日本の物資の入手には自分も極めて同情を持っている」

 「ヒトラーは世界征服を企て、欧州の次にはアメリカ……と、停止するところがないであろう。今後十年もたった後には、貴国もアメリカと同じ側に立ってドイツと闘わなければならないということもありえよう」。

 駐米全権大使・野村吉三郎大将は次のように強く反論した。

 「日本は決してやむを得ざる場合の他は、武力を用いるものではない。日本の武力を用いる場合は、その理由は破邪顕正の剣をふるうのであって、日本人には“大国といえども戦いを好めば国滅ぶ”ということわざがあって、その兵を用いるのは万策尽きてやむを得ざる場合に限っている」。

 駐米全権大使・野村吉三郎大将を若いときからの友人として扱っていたルーズベルト大統領が、独ソ開戦以後、俄然強気の表情を見せ始めたのであった。

 この第三次会見後、アメリカは日本資金の凍結を行い、日本は南部仏印進駐を開始した。八月一日、アメリカは日本に対して、石油輸出禁止等の経済制裁を発動したのである。

 昭和十六年十月十八日、東条英機陸軍大将が内閣総理大臣に就任、戦争開戦のための軍事政権であると、アメリカは受け止めた。

 昭和十六年十一月二十六日(日本時間・二十七日)、アメリカ側の最後通告ともいえる「ハル・ノート」が駐米全権大使・野村吉三郎大将に手交された。

 その内容は、アメリカの日本に対する提案であるが、これを日本政府が受諾すれば、内紛により東條内閣が倒れる位の重大なものであった。

 これを受け取った日本政府は、「これは、アメリカからの宣戦布告である」と憤激し、アメリカ、イギリス、オランダ等連合国を相手とする太平洋戦争に突入すること決定する。

 十一月二十七日午後二時半(日本時間・二十八日午前四時半)、ルーズベルト大統領と駐米全権大使・野村吉三郎大将の第九次会見(最後の会見)がホワイト・ハウスで行われた。来栖三郎特命大使とハル国務長官も同席した。

 駐米全権大使・野村吉三郎大将が、ルーズベルト大統領のすすめた煙草をとると、ルーズベルト大統領は自らマッチをすって火を差し出した。

 ところが、駐米全権大使・野村吉三郎大将は隻眼が不自由で、マッチの火と煙草の先端とがなかなか接触しなかった。

 そこで、ルーズベルト大統領は、笑いながら、もう一度手を伸ばして火をつけさせるというような、和やかな雰囲気も見られたという。

 本論に入ると、最初にルーズベルト大統領は次のように切り出した。

 「前大戦には日米両国は連合国側に立ったが、その当時ドイツは他国の心理を把握する事が出来なかった」

 「現在日本には平和を愛好し、種々尽力する人々のあることは欣快とするところである。アメリカの国民の多数もまた然りである。自分は今でも日米両国が平和的妥協に達することについて大きな希望を持っている」。

738.野村吉三郎海軍大将(38)大統領においても、大乗的に政治的考慮を払われんことを希望する

2020年05月15日 | 野村吉三郎海軍大将
 昭和十六年二月十四日、フランクリン・ルーズベルト大統領をホワイト・ハウスに訪問して、駐米全権大使・野村吉三郎が天皇陛下からの信任状を奉呈する時、ルーズベルト大統領の表情はやや硬かった。

 その後、会談に移ってからは、ルーズベルト大統領は、いつもの大統領スマイルで旧友の長旅をねぎらった。

 この会談が、ルーズベルト大統領と駐米全権大使・野村吉三郎大将の第一次会見となった。

 ルーズベルト大統領は次のように言った。

 「自分は日本人の友であり、アドミラル・ノムラはアメリカの友である。お互いは十分率直に話し合えることができる」

 「日米の関係は、国務省において、すでに二百数十通の抗議書を日本に出しており、その結果世論は刺激され、今や両国国交は悪化の道をたどっている」

 「昔のメイン号の例もあり、揚子江においては、パネー号事件のような際は、自分及び国務長官が、世論をおさえなかったならば、危険な状態に陥っただろう」

 「日本はいまや海南島から仏印、タイ方面まで進出する形勢にある。日本の南進はほとんど既定の国策のように思われる」

 「アメリカの援英はアメリカ独自の自由意思に基づくものであるが、日本は三国同盟があるために、その行動に十分独立的な自由がなく、かえってドイツ、イタリア両国が日本を強制する恐れもある」。

 以上のようにルーズベルト大統領は憂える気持ちを表したが、そのあと、次のように好意的に語った。

 「今後、自分はいつでも喜んで君と面談するであろう」。

 これに対して、駐米全権大使・野村吉三郎大将は次のように答えた。

 「自分は日米は戦うべきものではないということを徹底的に信じておる者であり、将来、世界平和のため、あるいはまた世界平和を維持するため、むしろ両国が努力すべき日の到来することを確信しているものである」。

 ルーズベルト大統領は極めて同感の意を表した。彼は自分がエリノア夫人と駐米全権大使・野村吉三郎大将の来米について歓迎の話をしたことを告げ、会談の最後はやっと和気あいあいたるものとなった。

 昭和十六年十二月八日の日本海軍の真珠湾攻撃(太平洋戦争開戦)までにルーズベルト大統領と駐米全権大使・野村吉三郎大将の会見は九回行われている。また、ハル国務長官との会談も二十九回行われている。

 このルーズベルト大統領と駐米全権大使・野村吉三郎大将の第一次会見以後、日ソ中立条約締結、独ソ開戦、第二次近衛内閣総辞職、第三次近衛内閣、南部仏印進駐など日本国内と世界情勢は変貌し、日米関係はさらに悪化する。

 昭和十六年七月二十四日、ルーズベルト大統領と駐米全権大使・野村吉三郎大将の第三次会見が行われた。

 最初に駐米全権大使・野村吉三郎大将が南部仏印進駐について次のように釈明した。

 「仏印進駐は我が国としては経済自活上及び同地区の安全上、真にやむを得ざるところであり、また仏印の領土保全、主権尊重である」

 次に駐米全権大使・野村吉三郎大将は両国間の懸案である太平洋の平和維持を目的とする日米了解案の三難点、一、自衛権の問題、二、中国における駐兵問題、三、通商無差別問題を指摘して次のように述べた。

 「駐兵も永久的ではなく、自ら解決の道があると思う。アメリカ政府は多少日本政府の誠意を疑っているということも聞いているが、現内閣は(松岡洋介がいないため)日米了解案に熱心である。よって大統領においても、大乗的に政治的考慮を払われんことを希望する」。



737.野村吉三郎海軍大将(37)そうやって君を上らせておいて、後から梯子をはずしかねない近頃の連中だから

2020年05月08日 | 野村吉三郎海軍大将
 だから、私は海軍の先輩や友人から意見を聞いたのだが、その中でも思い出すのは、米内(光政、三期後輩、前総理・海相)君の言葉である。

 事情やむをえず就任を引き受けることに踏み切りかけたとき、米内君に会っていろいろ話し合ったが、その時私が、『政府や軍も自分の意見をよく理解して、その線で働かせるという約束だから……』というと、米内君は、『それはまことに結構だが、そうやって君を上らせておいて、後から梯子をはずしかねない近頃の連中だから、十分気を付けるように』と忠告してくれた。

 後日になって、この米内君の言葉が胸にこたえることもあったが、とにかく私としては大廈(大建築)のまさに覆らんとするのを、あえて支えるような悲壮な気持ちで就任を受諾したことは事実である。

 以上が、野村吉三郎の駐米全権大使就任までのいきさつの回顧である。

 昭和十六年一月二十三日、駐米全権大使・野村吉三郎大将は日本郵船「鎌倉丸」で横浜を出港、二月六日午前九時、サンフランシスコに入港した。

 アメリカに上陸した駐米全権大使・野村吉三郎大将をまず出迎えたのは、数十名の新聞記者達であった。彼らは口々に質問を浴びせた。

 「アドミラル・ノムラ、日米関係は絶望だと思うか?」

 これに対し、駐米全権大使・野村吉三郎は悠然と次のように答えた。

 「私は日米関係の前進に大いなる希望を持っている。その希望を抱いてワシントンに行くのだ。日米戦争など考えたこともない」

 「日米関係は改善できるか?だって?……しかり。日米関係を改善することは、私の信念である。それは理由など超越した断固たる信念である。私はこの信念を抱いて太平洋を越えて来たのだ」。

 ところが、二月十一日、駐米全権大使・野村吉三郎大将一行がワシントンに到着した時は、打って変わった冷遇ぶりであった。

 アメリカ当局からの出迎えは、わずかに儀典課長らだけで、多かったのはドイツ、イタリアの駐在大使館員で、駐米全権大使・野村吉三郎大将に、わびしい、そして迷惑な思いを感じさせた。

 サンフランシスコに比べて新聞の扱いも小さく、アメリカの敵意と憎悪を感じさせるのに十分であった。『これは容易ならぬことになったぞ、よほどふんどしを締めてかからなければならないぞ……』駐米全権大使・野村吉三郎大将は、緊張しながらマサチューセッツ通りの日本大使館に向かった。

 日本の提督で、野村吉三郎大将ぐらいルーズベルト大統領と因縁の深い者はいない。

 大正四年、第一次世界大戦開戦の翌年一月、野村吉三郎中佐が大使館附武官としてワシントンに着任した時、ルーズベルトはダニエル海軍長官のもとで海軍次官だった。

 二人はメトロポリタンクラブで食事をしたり、ルーズベルトの私邸を訪ねたり、互いに友情を温めた。

 昭和四年の夏、野村吉三郎中将が練習艦隊司令官として訪米したときは、ルーズベルトはニューヨーク州知事という大統領候補の重要な地位にいた。

 この時は、二人は会見できなかったが、手紙で旧交を温めた。その三年後、ルーズベルトは大統領選挙で当選、野村吉三郎中将は祝賀の手紙を送った。

 「今度暇がとれたら、ぜひエリノア(夫人)を連れて日本を訪問したい」という手紙が、ルーズベルトから届いた。

 昭和十一年、ルーズベルトは大統領に再選された。当時、軍事参議官であった野村吉三郎大将は、また、祝いの手紙を送った。

 ルーズベルトの手紙には、「今度こそ日本を訪問して、提督と会いたいものだ」と書いてあった。

 野村吉三郎大将が全権駐米大使と決まってから、ルーズベルトは側近に、「アドミラル・ノムラは私の最も良き日本の友人だ」と言って、そのワシントン到着を待ちわびていたという。


736.野村吉三郎海軍大将(36)野村さんは外務省の若い者が掛け合いに行くと、むきになって議論をおっぱじめる

2020年05月01日 | 野村吉三郎海軍大将
 次に、当時の朝日新聞は次のように評している。

 「――外相に決まった野村大将、隻眼の今西郷―― 第一次上海事変では第三課引退長官の要職にあって活躍、肉弾を受けて右眼を失い、隻眼提督の異名を馳せた」

 「当時、停戦交渉にあたり、英・米・仏・伊各国代表間を奔走して外交手腕を示したことは、内外人のよく知るところで、海軍きってのアメリカ通として知られている」

 「軍事参議官から急旋回して学習院長におさまり、院内に鋼鉄の精神を叩きこんでいた。大将が欧州動乱の突発を契機として、いよいよ目まぐるしく広がりゆく外交舞台に出陣したことは、大将の明朗闊達な性格と思いあわせて頼もしい」。

 だが、残念ながら、内外の混乱は、この“今西郷外相”に十分の腕を振るわせてはくれなかった。

 当時の内情と野村吉三郎外務大臣の人柄を、毎日新聞が「素人大臣と万年浪人の悲劇」と題して次のような記事を出している。

 「野村さんは外務省の若い者が掛け合いに行くと、むきになって議論をおっぱじめる。膝付き合わせて話をしているうちに、だんだんと外交一本化というひたむきな要望が飲み込めた……というよりは、青年将校だけが持つ熱情が野村さんを包み込んでしまった」

 「齢、耳順(六十歳)を過ぎた老提督には、若い者が可愛くてたまらない……というところがあったようだ」

 「かつて昭和五年、統帥権干犯問題の時、条約派の闘将として艦隊派の青年将校を相手に論争しながら、しかもなお海軍部内に信望を持つ野村さんの性格、それはまた学習院長として、若い学生に取り巻かれながら、莞爾として仁王立ちになっている風格でもあった」

 「『おれに任せろ』と野村さんがいいだしたのも、こういう性格から発した言葉であった。それを政府は突っ放したのである」。

 残念ながら野村吉三郎の外相としての船出はかくのごとく芳しくなかったが、それで挫けるような生易しい紀州っぽではなかった。

 昭和十五年七月、陸軍は伝家の宝刀を抜いた。七月十六日、陸軍三国同盟派の圧力によって、畑俊六陸軍大臣が単独辞職した。

 陸軍が後継陸相を出さぬよう工作したので、同日、米内光政内閣は総辞職に追い込まれた。

 七月二十二日、陸軍の輿望(よぼう)を担って近衛文麿が第三次内閣を組閣した。外相にはかねて近衛に接近して三国同盟絶対論を吹き込んでいた松岡洋介、陸相には大陸からの撤兵不賛成、対米強硬論者の東條英機が陸軍次官から昇格し、三者会談によって新内閣の中心となるべき方針は三国同盟締結にありと決定した。

 この線に基づき、九月二十七日には、ベルリンでヒトラーと日本の駐独大使・来栖三郎の手によって三国同盟が締結された。

 皮肉にも、野村吉三郎がワシントンで駐米大使として平和交渉に忙殺されている時、その補佐役として送られてきたのが、この来栖三郎であった。

 昭和十五年十一月、野村吉三郎は駐米全権大使に任じられた。野村吉三郎は最も困難な任務を押し付けられたのである。この時、野村吉三郎を推したのは当時の外務大臣、松岡洋介であった。

 十一月二十七日、宮中で全権大使親任式が挙行された。三国同盟締結から二か月後であった。野村吉三郎は、ここに至るまでの状況を次のように回顧している。

 松岡氏から避暑先に電報が来たときは、何事か……と思ったが、東京へ帰ってみるとアメリカ行きの話のようであった。

 最初、私としては受ける気はなかった。たんに“火中の栗は拾わず”というような保身上の理由ではなく、当時の日本の政策――片手に棍棒を持ち、片手に大福餅を持ったような対米外交では、私のような武骨者が出る幕ではなく、のこのこ出かけてミスでも冒した場合は、腹を切っても、なお臣節にもとることになると考えて固辞したのである。

 しかし、私として一番弱かったのは、海軍から薦められたことである。当時の日本では、どの階層よりも海軍がアメリカについて関心を持ち、できうる限り日米の妥協をはかりたいと望んでいた。